Jリーグでプロキャリアをスタートさせた僕は、これまでアジア20の国や地域を渡り歩いてきました。昨年は東ティモールのポンタレステというチームでプレーしていましたが、シーズン途中の5月に突然、契約解除となました。その後、トルクメニスタンやキルギス、タジキスタンといった中央アジアの国に移籍のアプローチをしたのですが、現地に乗り込むことさえ難しいような状況で、初めて所属先が決まらないまま今年のシーズンに突入しました。そこで今年7月初め、新天地を求めて台湾に渡りました。
台湾リーグは厳密にはプロリーグではなく、他に仕事を持つ選手や体育大学のチームも参加しています。リーグ8チームのうち数チームだけが外国人選手を受けいれているので、そこに可能性を求めたのです。
サッカーの場合、国際サッカー連盟(FIFA)の定めたルールのもと、各国ごとに移籍ができる期間が決まっています。英語で「トランスファーウインド」といい、この期間を逃すと選手登録できないのです。FIFAのサイトには台湾リーグのトランスファーウインドが「7月中」と記してあったので、トライアウトに臨むため7月3日に現地入りしました。
しかし、台北で早速情報収集してみたところ、そのトランスファーウインドが実際は6月末で既に閉まっていることが判明しました。諦めきれず、事前に連絡をとっていたチームの練習に参加しようと足を運んだのですが、「トランスファーウインドはすでに閉まっている」と言われ、参加させてもらえませんでした。
しかし別のチームに直談判すると、「外国人は取らないが、練習だけなら」と言われ、なんとか参加させてもらうことができました。たまたまあった高校生チームとの練習試合では、後半途中からボランチで出場してハットトリックと2アシストの活躍をし、一定の評価は得ることができました。
練習参加によりコンディションがあがってきた僕は、リーグ戦を観戦しに行った試合後、あるチームのオーナーと交渉しました。リーグミーティングで選手登録が認められたら契約してもいい、と言ってもらいました。
一縷の望みを胸に7月18日に日本に戻り、そのミーティングでの判断を待ちました。しかし8月半ば、選手の追加登録はできないと正式決定され、今シーズンの移籍は不可能となりました。ただし、これまでの海外経験から「たぶん難しいだろう」と覚悟をしていたので、あまり落ち込むこともありませんでした。
台湾サッカーは発展途上で、サッカーの環境もまだまだ整っていません。僕が見た台北でのリーグ戦は大学敷地内にあるグラウンドを使っていて観客は100人にも満たず、ピッチの周りを市民ランナーが走っているようなアットホームな状況でした。
台湾はどこに行っても活気があり、交通の便もよくて住みやすさを感じました。スパイスの八角や臭豆腐(チョウトウフー)の匂いが街中に溢れるほどレストランも多く、コンビニのイートインスペースも常に満席で、グルメ大国という印象を受けました。特に豚肉の餡かけご飯、魯肉飯(ルーロンファン)は安くておすすめです。
宿は民泊サイトを利用し、予算を抑えました。ホストが気を遣ってくれて、観光案内をしてくれることもありました。しかし、今回はサッカーのチーム探しで行っていたため、ゆっくり見ることができなかったので、次に台湾を訪れる機会があったら思う存分楽しみたいです。
これまで、いつもチーム探しのときに心掛けているのが「やるときはやる、楽しむときは楽しむ、オンとオフを切り替える」ということ。心に余裕がなければ良い結果なんて残せません。
親日家で心優しい人が多い台湾ですが、たまたま通りかかったバスから盲目の人が降りてきたので手を差し伸べようと思ったら、近くにいた3人がさっと手助けをしに集まってきたこともありました。日本に震災があると、真っ先に支援してくれたのも台湾の人々でした。滞在中、そんな台湾人の温かさを再認識しました。
ところで僕が台湾にいたころ、ロシアでサッカーのワールドカップ(W杯)が盛り上がっていました。日本は7月2日の決勝トーナメント1回戦ですでにベルギーを前に敗退していましたが、そこまで日本が頑張ったお陰で、台湾のサッカー関係者も日本人の僕に興味を示してくれました。
日本は6月28日の予選リーグの試合でポーランドに敗れはしたものの、決勝トーナメント進出を決めました。日本は試合終了間際、決勝トーナメント進出を優先するために消極的なプレーに徹し、会場からは大きなブーイングが起きる異例の事態になりました。
僕は、西野朗監督のこの判断を尊重します。パス回しで時間を稼ぐという作戦は海外ではよくあることです。あの大舞台でその決断をできた西野監督は一流の勝負師だと思います。
ロシアW杯では、日本の成長と世界の厳しさの両方を感じました。日本国民に感動と興奮を与えてくれた代表選手たちに改めて「ありがとう」と言いたいです。
さて、僕が次にどうするか。年齢的に厳しい状況となってきていますが、引退後のセカンドキャリアのことも視野に入れつつ、チャレンジができればと思っています。今までこだわってきた「アジアの国・地域」「自分が住みたいところに行く」という信念のもと、突き進みます。
(構成 GLOBE編集部・中野渉)