7千メートル級の山がそびえるパキスタン北西部の山奥で、独自の風習を守る少数民族「カラーシャ」と家族のちぎりを結び、現地の男性と結婚して暮らしている日本人女性がいる。佐賀県出身の写真家、和田晶子さん(69)。
1987年にカラーシャの谷を初めて訪問し、自然に寄り添った暮らしに魅せられた。季節ごとの伝統儀式をカメラに収めながら、ペンネーム「わだ晶子」で文筆活動も続けている。
和田さんは十代の頃から海外への憧れを抱いていた。ビートルズのジョージ・ハリソンのファンクラブに入り、彼が影響を受けていたインドにも興味を持つようになった。
ところが、高校3年生の時、実家の電気設備会社が倒産する。写真の勉強をしたかったこともあり、東京に出て学費を稼ぐことにした。
目黒区の機械部品会社の社長宅に住み込み、家政婦として働いた。掃除や洗濯など家事全般を手伝い、月の収入は3万円ほどだった。
貯金をためて夜間の写真専門学校に入学した。昼はレコードの資料制作のバイトをしたり、楽器の専門誌のカメラマンとして働いたりした。
1975年、日本を離れて念願のインドへの旅に出た。インドに行く前にアフリカものぞいてみようと考え、まずエジプトに飛んだ。
ナイル川を上ってスーダンやケニアで約2カ月間過ごした。そこからインドに移り、ネパール、バングラデシュなどもめぐって、約1年間放浪した。
日本に戻った後、しばらくは楽器の専門誌で働いたが、他の仕事も試してみたくなった。ガソリンスタンドの給油係をやったり、東京の下北沢のバーでホステスとして働いたり。終電を逃した酔客の話に、夜な夜な耳を傾けた。新宿のキャバレーに勤める夫婦から、子守を任せられたこともあった。
そんな暮らしを1、2年ほど続けたある日、新聞広告の求人が目にとまった。南洋パラオの日本料理店のフロアマネジャーを募集していた。面白そうだと思ったら、悩まず挑戦するタイプだ。
現地ではパスポートを取り上げられたり、給料が未払いだったりと苦労もあった。その後、タイやマレーシア、シンガポール、インドネシアなどを経由し、再びインドを旅した。
1987年には欧州も見てみようと思い、中国から陸路でシルクロードをたどり、中東を通って英国へ向かう計画を立てた。まず中国を半年ほど旅し、パキスタンの山岳地帯に入った。
パキスタンには立ち寄りたい場所があった。パキスタン北西部の山奥に、イスラム教とは全く違う土着の神々を信じ、祭りが好きな少数民族がいるという話を、かつて雑誌で読んだことがあった。それがカラーシャの谷だった。
3千人ほどいるカラーシャの人たちは、険しく切り立った谷底のわずかな平地に石積みの家を建てて暮らしていた。赤や黄色の色鮮やかなビーズの頭飾り、牛追いの少女が奏でる縦笛の音色、文字を持たないカラーシャ語……。毎日新しい発見があった。
それまで訪ねた土地では、よそ者や客人として扱われることもあったが、カラーシャの谷の村人たちは和田さんを特別扱いせず、温かく迎え入れてくれた。時間がゆったりと流れていた。
和田さんは「自然に寄り添い、おごらずに、素朴に生きて行く様に、心が和みました。トウモロコシの芽が出る様子をじっと観察して、喜びを感じるような暮らしを、私は生まれ故郷の佐賀でも送ったことがなかったんだなと、そこで気づいたんです」と振り返る。
12月に入ると、カラーシャ最大の伝統行事チョウモスが始まった。村人たちがたき火を囲んで歌ったり踊ったりしながら、2週間にわたって豊穣(ほうじょう)や健康を祈るものだった。手足でリズムを取りながら踊りの輪に入ると、村人が手拍子で応援してくれた。
チョウモスの期間には、歌や踊りのほかにも、村の神殿で先祖にお供え物をする儀式マンダイックや、子供の通過儀礼である儀式ゴシニックなども開かれた。
日本で言うと前者は「お盆」、後者は「七五三」のようなものだ。和田さんは「こうした儀式を通じて村の共通認識や結束を育んできたんだな」と親近感を覚えたという。
当初予定していた欧州への旅は中断することにした。それよりも、朗らかなカラーシャの人たちが自然とともに暮らし、色彩豊かな祭りの伝統を守っている様子をもっと見つめていたかった。
片言の英語が話せる年下の男性ヌルシャヒディンさんの家に居候するようになった。ヌルシャヒディンさんは和田さんのことを「バーバ(姉さん)」と呼んで慕った。
「直感だけど、バーバはこれからずっと谷で暮らすんだろうなと思ったんだ。神様が贈ってくれた『ご縁』に違いない」。和田さんとヌルシャヒディンさんは、ヤギの肝を分け合って食べる儀式によって姉弟のちぎりを結んだ。
カラーシャの知られざる世界観も見えてきた。例えば、カラーシャの人たちは「浄(オンジェシタ)」と「不浄(プラガタ)」で物事を捉える考え方を持っていた。男性や水、ワイン、ヤギ、蜂蜜などは「浄」にあたる一方、女性や鶏、出産、生理などは「不浄」に分類されていた。
そのため女性は、祭礼で捧げられたヤギや蜂蜜を食べてはいけない▽聖域と呼ばれる場所には近づいてはいけない▽水を飲むときはコップに口を付けてはいけない▽村の中や上流部で洗顔、水浴び、髪結いをしてはいけない▽生理や出産のときは下流部の小屋「バシャリ」にこもらなければならない、といった制約が課されていた。
男性が女性を表だってさげすむようなことはなかったが、女性だけに課されるタブーが多いことに和田さんは驚いた。
女性が体の汚れを落とすには、人目の付かない下流部までいって水浴びをするしかなかった。雪が積もる寒い冬に水浴びすることは難しいので、体を洗えないまま過ごす女性もいた。また、女性たちは生理や出産のたびに家を出て、薄暗い小屋バシャリで過ごすことを義務づけられていた。
女性を取り巻く不衛生な環境だけでも改善できないかと考えた和田さんは、1989年に一時帰国し、東京や佐賀でカラーシャの文化を伝える写真展を開いてカンパ計約10万円を集めた。そのカンパを持ってカラーシャの谷に戻り、女性が人目を気にせず水浴びできる小屋を建てたいと谷のリーダーに直談判。女性5~6人が水浴びできる小屋を完成させた。
その小屋の建設作業を手伝ってくれたのが、後に夫となる村人ジャマット・カーンさんだった。和田さんとカーンさんは大勢の村人が見届けるなか、1993年夏、黒いヒツジを神に捧げる儀式を開き、結婚を祝った。駐パキスタンの日本大使も谷を訪ね、儀式を見守った。
その縁も手伝い、1994年には日本大使館の協力で谷に小さな水力発電の機器が設置された。谷の家々に明かりがともるようになった。
出産・生理用の小屋バシャリにも電気が通った。それまでは薄暗いランプのもとで出産し、赤ん坊はススだらけになっていたが、これで安心して出産することができるようになった。
当初、村では「聖なる水で作った電気を不浄な小屋に入れることはできない」という反対意見もあったが、和田さんは「小屋を不浄だと言うあなたもこの小屋で生まれたのよ」と説得を試みた。
バシャリに明かりがともるまで説得は2年に及んだ。こうした和田さんの奮闘は、著書「パキスタンへ嫁に行く」(三一書房)で詳しく知ることができる。
1990年代後半からはカラーシャの子供たちの教育支援に乗り出した。カラーシャ語で育った子供たちにとって学校に通うハードルは高く、大半が未就学だった。谷では学校の教科書が手に入らないという問題もあった。
そこで和田さんは在パキスタンの日本人会婦人部の支援金をもとに教科書を買い、カラーシャの子供たちに配った。1998年に75人だった通学者は2004年までに倍増。成績が伸びた場合には奨励賞としてノートや鉛筆を贈ることで、子供たちを励ました。
伝統文化を子供たちに語り継ぐ活動も続けている。2002年からは学校で村の語り部コシナワズさんにカラーシャの儀礼や歴史を語ってもらい、その音声を録音する取り組みを始めた。
2006年には村の一角に図書室などが入る建物を建てた。子供たちのために英語や公用語の本を置き、紙芝居の読み聞かせを始めた。大人向けの学習会も開き、日本の祭りなどの映像を上映している。村の寄り合い所としての機能も兼ね備えている。
こうした活動を支えてきたのは、和田さんの思いに共感した日本の友人らからの寄付だ。和田さんは昨年12月、「日本とパキスタンとの相互理解」を促進した功績などが認められ、日本外務省から外務大臣表彰を受けた。
和田さんの最近の悩みは谷にプラスチックゴミが目立つようになったことだ。道路が整備されて観光客が来やすくなったことに加え、スナックや炭酸飲料を売る売店が谷にできたことでポイ捨てが増えた。和田さんは、いらなくなった布切れや菓子袋でぬいぐるみや飾り物を作るリサイクル運動を呼びかけている。
和田さんが谷に来てから34年。携帯電話を持つ家庭やトタン屋根の家が増えた。カラーシャの文化を学んできた和田さんも、今では文化を語り継ぐ役割を担っている。
和田さんは言う。「谷は様変わりしたけど、変わらず引き継ぎたいものもある。伝統の儀礼や深い絆の価値を、子供たちと触れ合うなかで、伝えていきたい」