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ようやくつかんだシンガポールデビュー 新たな目標は「1年で1カ国、10年で10カ国」

アジアの渡り鳥 更新日: 公開日:
シンガポールリーグ(Sリーグ)の選手入場のとき=写真はすべて本人提供

「アジアの渡り鳥」と呼ばれ、アジア20の国や地域でプレーしてきた僕ですが、初の海外挑戦となったのはシンガポールでした。契約に至るまでに、日本での常識を覆されるような出来事が待っているとは知る由もありませんでした。

2000年12月、東京・町田でシンガポールリーグ・クレメンティーカルサ(現在はチームが消滅)というチームのトライアルがありました。アマチュアからプロまで約300人の日本人選手が挑戦して、僕を含めた約10人が「合格」しました。その場ですぐ契約できるものと思っていたのですが、主催者からは「合格者はシンガポールでの次のステップに進むことができる。ただし、現地までの飛行機代、宿泊費などの経費は自腹」と告げられました。腑に落ちませんでしたが、それでもチャンスを逃したくなかったので、後日同国に飛びました。

シンガポールには、Jリーグでも活躍して日本代表候補に選出されたこともあったディフェンダーの渡邉一平さん(現在はスカパー!サッカー解説者)も来ていました。到着するなり、2人でチームのポロシャツを着させられたかと思うと、もうそこは記者会見の場でした。

「早くも入団が決定したのか」と思ったのもつかの間、会見後に僕だけ呼び出され、「うちのチームにはすでに元オーストラリア代表のミッドフィルダーがいるので、同じポジションの君とは契約できない」と言われたのです。予想外の展開に愕然としましたが、一度頭を冷やし冷静に対処しようと努めました。

日本の知人には「シンガポールでプレーする」と断言してきた手前、今更引くに引けない状況でした。現地の人に頼み、他チームのトライアルを模索していましたが、時期が遅くてチャンスすらなかなかもらえませんでした。

悔しさを胸に帰国することになり、今後のことを考えていた矢先、クレメンティーから「下部組織として日本人の子どもたちを対象としたサッカーチームを作るので、そこの監督として来てほしい」というオファーが来たのです。

シンガポールで、日本人の子ども対象のサッカーチームの監督をしていたとき

最低限の荷物と現金だけ持って再びシンガポールに渡り、少年サッカーチームクレメンティーガジャの監督を務めていました。するとしばらくして、あるチームから選手としてのトライアルのチャンスが巡ってきました。

チャンスをものにすべく必死でプレーした結果、契約の話に発展し、いよいよ数日後にサインをするというある日、リーグ戦があり、その試合を最後に僕と入れ替わりで契約解除となるはずだった選手が大活躍してチームを勝利に導いたため、状況が一変しました。彼こそが、最初に契約できなかった理由となったあの元オーストラリア代表選手だったのです。

結局、彼はチームに残留することになり、僕の契約話は白紙となってしまいました。その後も2、3度契約寸前で反故にされるということが続きました。日本とは違い、海外ではサインするまで何が起こるかわからないということを身をもって体験しました。疑心暗鬼になり、心が折れそうになりましたが、その後も粘り強くチーム探しを続け、ウッドランズウェリントンというチームと契約することができました。月給の他、プール付きの豪華なコンドミニアムと日本への往復航空チケットがつくという契約内容でした。

シンガポールで当時住んでいたコンドミニアム

選手としてプロ契約後も少年サッカーチームの監督は続けました。例えるなら、ジュビロ磐田でプレーしながら清水エスパルスの下部組織監督を兼任するような、日本では考えられないシンガポールならではのシチュエーションでした。

当時、シンガポールでプレーしていた日本人は僕を含めて4人で、うち3人が元Jリーガーでした。その後、アジアをめざす日本人選手が増え、現在、東南アジアには優に100人を超える日本人選手が所属しています。

ウッドランズにはシーズン途中から参加し、チームの救世主として期待されていましたが、その後もチームの順位は上がらないままシーズンが終わってしまいました。僕にとって初めての海外シーズンでしたが、個人的にはある程度の数字を残すことができました。しかし、常に「助っ人外国人」としてチームとしての結果も求められるなど重圧が続く毎日でした。

今思えば、初めての海外挑戦がシンガポールでよかったような気がします。英語圏で治安もよく、日本人も多かったので何一つ不自由なく生活できました。グローバルな国だからこそ、そこで色々な国の人と知り合えたことが、その後の自分の人生につながっていったのではないかと思います。

シンガポール時代、オフに訪れたセントーサ島で

しかしその当時の僕は、シンガポールでもう一度プロのピッチに返り咲くという目標しか持っておらず、現地の日本人選手と過ごす時間が多かったため英語もなかなか上達しませんでした。もっと積極的に現地の人たちと交流していれば、それがピッチ上でも反映され、よりよい結果を得られたのではないかと後悔しました。

そのような経験から、次なる目標として、「1年で1カ国ずつ、10年で10カ国プレーする」ことを掲げ、自分でできることは全て自分で行うことで人間的にも成長していこうと心に決めたのです。弱い自分の逃げ場をなくすため、あえてブログで公言することで皆に証人になってもらい、退路を断ちました。

シンガポール時代、チームメートらと

早いもので、シンガポールに住んでいたころから18年経ちます。当時指導していた子どもたちの中に飛びぬけた存在の子がいました。それから約10年ののち、東京ヴェルディに彼の名前がありました。現在、徳島ヴォルティスでプレーしている杉本竜士選手です。いつか教え子たちとまた一緒にボールを蹴ることができるのを楽しみに、僕は今日も走り続けます。

次回は、契約にまつわるほかの体験談を記したいと思います。

(構成 GLOBE編集部・中野渉)