人生には、さまざまな理由で幸運だったと思うことがある。私の場合は、2年前にガブリエル・グリューネバルトを取材する機会に巡り合えたことが、まさにそうだった。
2017年5月26日。グリューネバルトは、米オレゴン州ユージーンで開かれた陸上競技大会プリフォンテーン・クラシック(訳注=最高レベルの国際大会の一つ)に出場した。夕暮れとなり、照明に浮かび上がった赤いトラックで、女子1500メートルが始まった。
グリューネバルトのポニーテールが揺れた。全米屈指の中距離選手らしく、最初は滑らかで確かな足取りだった。しかし、徐々にぎくしゃくとした苦しい走りになり、最終コーナーを回ると、表情はゆがんでいた。それでも、全力をふり絞り、一流のラストスパートで、前の走者をわずかにかわしてゴールインした。
出走10人中の9位。タイムにも満足はできなかったが、笑みを浮かべた。それが、私には勝者の雄姿そのものに見えた。
「確かに、つらい」とレース後の取材に答えた。「不吉な予感が、影のようにつきまとうから」
患っている転移性の希少がんを指してのことだった。悪性腫瘍(しゅよう)の一つ、腺様嚢胞癌(せんようのうほうがん)だ。
そして、この病魔に、最後の1周でとらえられた。19年6月11日、グリューネバルトは帰らぬ人となった。32歳だった。妻のことを「私にとってのすべて」という夫ジャスティン・グリューネバルトが、後に残された。
その日、一団となって走る選手たちの中からグリューネバルトを見つけ出すのは、難しかったかもしれない。ただ、セパレートウェア姿の腹部をよぎるようにして、半月状の傷痕があった。9カ月前に、肝臓から大きな腫瘍を摘出したときにできたものだ。
このレースの直前には、新たな二つの病変が肝臓で見つかっていた。走り終えてから2週間もたたずして、化学療法が始まった。
がんとの勝負は、これで4度目だった。それでも、走ることが自分を救うことになると固く信じていた。2020年の東京五輪に出ることも夢見ていた。
がんについては、雄弁に語った。わざとらしい多弁さはなく、言葉が転がり出てくるかのようだった。
誰を相手にしているのか、よく知っていた。自分の心をさいなむものについても、よく理解していた。病への警戒心。受け入れがたい状況を認めまいとする葛藤。それに、忍び寄る恐怖心があった。
「大人だけれど、まだ若く、がんを患っている」。それが、どういう心境をもたらすのかをこう語ってくれた。「病気のことをいつも喜んで話すわけではない。テレビ映画とは違って、現実のできごとだし、とても恐ろしいことだから」
ミネソタ州西部のオッターテイル郡の小さな街パーハムで育った(訳注=1986年6月25日、パーハム生まれ)。走るのが好きで、気温がカ氏10度(セ氏マイナス12.2度)を割り、唇やまつ毛に氷ができるようになってもやめなかった。
ミネソタ大学に進むと、陸上のトラック競技のチームに入った。見向きもされない下っ端だったが、少しずつ記録を伸ばしていった。
そこで、ほっそりとした男子のマラソン選手と出会った。話をするようになったが、とても内気で、気を引こうとしているのかもはっきりしなかった。
でも、その気があったことが分かった。やがて、夫になった(訳注=13年に結婚)。
最初にがんだと分かったのは、09年だった。大学に入って5年目の4年次のことだった。レースに出るため、アリゾナ州にいて知らせを受けた。翌日、1500メートルで個人ベストの4分22秒を記録した。
それから、手術と放射線治療を受けた。薄茶色の髪が抜け落ち、皮膚は赤く焼けた。それでも、3カ月後には走り始め、記録も上向いた。がんが、よい走りに失敗することへの恐怖心を取り払っているかのようだった。
「(訳注=今、やらなければと思うと、)ベストを尽くさない言い訳は、もうありえない感じになっていた」とグリューネバルトは当時を振り返ってくれた。
11年に、がんがまた見つかり、さらに多くの処置が必要となった。
16年には、リオ五輪への出場権をほんのわずかな差で逃した。そのすぐ後のことだった。朝の抱擁を交わすと、夫は妻の体に大きな異物を感じ、「胃がおかしいよ」といった。
それが、最後の勝負への始まりだった。
「そこにがんがあるのは、もう数年前から分かっていた」とグリューネバルトは私に明かしてくれた。「でも、ずっと頭の中から消し去ろうとし続けた。『こんなのは、私の人生なんかじゃない』と自分をなんとかいいくるめようとした」と葛藤の日々を語った。
取材した翌月の17年6月まで、さらに数回走ってレースへの出場は終わった。
しかし、さまざまな活動を精力的に続けた。意見の公表。SNSへの投稿。新たな治療法の受け入れ。非営利活動も始めた。自分の愛称にちなんだ「Brave Like Gabe Foundation(ゲイブのように勇敢に財団)」を設立。基金を募って希少がんの研究を助成し、がん患者に運動を勧めた。
「私の体の傷痕は、一生懸命に生きることの大切さを教えてくれている」というのだった。
あの日のユージーンの夕暮れで覚えているのは、紫がかったような色の空と、照明の向こうに現れた天の川だ。そして、地上にはグリューネバルト夫妻の姿があった。一緒にジョギングをしたり、若い恋人たちのように体を寄せ合ったりしていた。
医師でもある夫の簡略な投稿文をインスタグラムで見つけたのは、つい先日のことだった。妻が死の床にあることを伝え、しばらく前に妻にあてて書いた文章が添えてあった。
「人生には恐ろしいことがあるのを、私は知っている。私たちが、不確かさというくじを引き当ててしまったことも分かっている。フェアなことではなく、悔しさが残る。でも、不確かで、ときには恐怖を伴う私たちのこの人生を、あえて選びたい。他のどんな選択肢も、かえりみるつもりはない。君と一緒にいて、とても楽しかった。君を最良の友とし、妻としたことで、それまでの人生で学んだことすべてよりも多くのことを学べたのだから」(抄訳)
(Michael Powell)©2019 The New York Times
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