訪れた3月中旬は雨期の後半。到着した夜はスコールに見舞われた。南国の日差しが顔をのぞかせた翌朝、チャイナタウンと名が付いた中心部をまず訪れると、薄茶色の壁に三角屋根が二つある建物が目を引いた。サンピクチャーズ(①)という「世界最古の営業中の野外映画館」だ。1903年完成の建物の最初の所有者は日本人実業家。アジアの食材や衣料品を売る広い商店で、能の舞台もあった。13年後の映画館のオープン時は手放していたが、周辺はボタンの原料となる真珠貝の採取が盛んで、アジアからの潜水士たちでにぎわった。その最大の勢力が日本人。技術と勤勉さで大勢の移住が認められ、一帯は「日本人街(ジャップタウン)」と呼ばれた。
隣の通りに進むと、宝飾店が並ぶ。プラスチックのボタンが主流になった第2次大戦後、町は養殖真珠の拠点となった。今度は日本人の養殖技術者らが発展を支えた。
オーストラリアの真珠産業は2年前、MSCという「海のエコラベル」を取得して注目を集めた。プラスチックごみなど海洋汚染が世界的な問題になるなか、養殖に使う天然貝の採取のルールづくりなどの努力が評価された。
ある店では、そうしてできる大きな真珠の首飾りが11万9000豪ドル(約900万円)もした。店員のミッカ・ポエリナ(36)は「祖父は真珠の仕事で東ティモールから来た。祖母はアボリジナルピープル(先住民)」とほほえんだ。近くの広場マレオーバル(②)にある大きな枝葉のバオバブの木陰でくつろぐのは、確かに先住民が多い。人口1万6000人余りの町で先住民が3割近くを占める。
チャイナタウンを離れ、パール・ハマグチ(79)という女性に会った。白人と先住民の間に生まれた母を持ち、父方の祖父は中国人、祖母は日本人。自らも戦後に真珠の仕事でやってきた日本人の浜口博司(故人)と結婚した。「ブルームはみんなが混じり合う場所」と自らを重ねて言う。パールが日本人墓地(③)に車で案内してくれた。古い墓は明治時代の後半に建てられている。900人の埋葬者の出身地は西日本の県や村が多い。ここに眠る夫と出会ったタウンビーチ(④)も訪ねた。美しい海が広がり、今も市民の憩いの場だ。
日が暮れて、サンピクチャーズを再訪した。350席の前方の半分は屋根がない開放空間。アイスクリームをほおばって上映を待っていたシャロン・プライス(47)は「雰囲気が好き。飛行機が飛んでくるのが見えたりして」。風を感じ、星も見える映画館。日本人の若い潜水士たちが楽しんだ銀幕の夜を想像した。
渇きを癒やす南国の地ビール
様々な背景の人々が集まる町だけに、これが名物料理、と言い切れるものはないようだ。そこで、人気のビアレストラン「マッツォズ・ブルーム・ブルワリー」(⑤)を訪ね、何種類もあるここで作った地ビールの生ビールのうち、マンゴービール(約700円)を注文した。
オーストラリア産マンゴーを加えたほのかな甘みとドライな味わいは、トロピカル。ビールの苦みがちょっと、という人にもお薦めだ。料理は人気メニューのワギュウバーガー(約1900円)を。オーストラリア産ワギュウのパテにチーズが載ってボリュームたっぷりだが、さわやかなビールとよく合った。
店名のマッツォは「松本」から。このレストランは「マッツォズストア」という雑貨商店だった建物を移築した。雑貨店を1978~85年に経営していたのはフィリップ・マツモト(78)。戦前に潜水士として長崎県から来た松本嘉喜雄と先住民の妻エレナ(ともに故人)の息子で現在、ブルームの市議を務める。
日本軍の空襲
太平洋戦争が始まると、ブルームの日本人はオーストラリア国内の収容所に入れられた。1942年3月3日、日本軍の零戦9機が連合軍の戦闘機や飛行艇を狙ってブルームに来襲。約90人が犠牲になった。戦争を境に町の中心部の呼び名は、ジャップタウンからチャイナタウンに変わったという。
サンセットを楽しむなら
町の西端にあるケーブルビーチは、1889年に電信網がつながった場所だったため、この名前がつけられた。南北に22キロに及ぶビーチの南端の砂浜には、車でそのまま乗り付けることができる。夕暮れ時にはインド洋に沈んでいく美しい夕日を眺めようと、人々が集まる。