「タケシさーん、ベジタブルカレー」
首都ニューデリーの空港近くにあるフードコート。そこに、日本のカレーやラーメンを出す店「東京テーブル」が2017年11月にオープンした。赤いちょうちんが並んだ店頭では、料理ができあがるとインド人従業員がこう名前を呼んでくれた。
「名前を呼ばれた方が気持ちいいですよね。スターバックスのやり方を取り入れました」。そう語るのは、店の立ち上げを率いた竹田誠直さん(31)。
竹田さんの勤務する「KUURAKU GROUP」(本社・千葉市)は現在、インドで焼き鳥店など7店舗を展開する。昨年9月からは、現地法人のCOO(最高執行責任者)を任され、約70人のインド人部下たちをまとめる。
東京テーブルでは、日本式カレーとラーメンがメニューの柱。これまでインドで展開していた店は在留邦人が主なターゲットだったが、カレーの本場インドで地元インド人に日本のカレーやラーメンを広めようと挑戦している。
菜食主義者(ベジタリアン)の多いインド人のために、動物性エキスの入ったカレールーを使わず、野菜を煮込んでつくる。ヒンドゥー教徒の神聖視する牛も使わない。
出店のきっかけは、14年からインドのデリー郊外で手がけていた居酒屋に来店するインド人が増えてきて、カレーうどんが人気だったことだ。
「カウンターで、ラーメンとギョーザをビールを飲みながら食べるインド人が出てきました。以前なら想像できなかったことです」。インド人は豚肉も食べないと聞いていたが最近、インド人客から「ラーメンと言えばトンコツではないのか」と逆に聞かれ、今年4月から出し始めたという。インドで新たな食文化が生まれていることを体感している。
ただ、すべてが順調だったわけではない。
役所の許認可を取るには「袖の下」を要求されることもあり、手続きには気の遠くなるような時間がかかる。欠勤の度に「親族の葬儀」を理由にするインド人従業員に面食らったことも。
現地スタッフが嫌がる掃除は日本人の上司が率先してやる姿を見せることで定着させた。いなりずしを販売したら、「INARI ZUSHI」は「SUSHI」ではないから偽物だ、と誤解されてしまい、売れなかった。
もともとインドに来たことはなく、イタリアが好きだった。高校時代にホームステイしたオーストラリアで、1万円ほどのお金を盗まれた時、イタリア人のホストマザーから「盗まれたお金で経験を買ったと思えばいい」と言われた。そんな気風のイタリアに興味を持ち、大学ではボローニャに1年間留学。
帰国したのは大学4年時の10月で、世の中の学生たちの就職活動はほぼ終わっていたが、インターネットで「ワイン」と検索して初めに出てきた食品専門商社に入社した。好きな「イタリア」と「食」がキーワードだった。「『おいしいものを食べるのが好き』で、おいしい食べ物の周りに集まって飲んで食べて笑っている時間が一番自分が好きな時間。それに直接でも間接的にでも携われる仕事にこだわりました」と話す。
最初の2年間はトラック運転手として、イタリア料理店などに食材を運んだ。一流店のまかないを食べさせてもらったり、人との接し方を学んだり。週末にはソムリエ試験のための学校にも通った。
営業担当になってからは、おいしいと評判の店を食べ歩き、食材の知識を増やした。「シェフは他の店のことをあまり知らないので、自分の舌で確かめた食材は自信をもって提案することができました」と振り返る。
転機は28歳。商品開発部門でクレーム処理も担当していた。年に1千件ものクレーム処理をしていたが、これまでの仕事で「ありがとう」と言われた時のような喜びを感じることができなかった。任されていたプロジェクトが一段落したのを区切りに、6年つとめた会社を退社した。
「私のオアシスがインドにある」。フェイスブックでたまたま目にしたインド関連のイベントに行った時、インドで働いていた日本人女性の話に引き込まれた。その女性の「オアシス」が、いま働く会社が運営する居酒屋だった。「飲食店でそんな風に愛される店ってどんな所なんだろう」。16年9月に入社し、焼き鳥の仕込みなどを学んだ後、わずか2カ月後にインドの居酒屋「くふ楽」の店長を任された。
「チャンスはどこにでもある。『面白そう!』と思ったことが結果として『チャンス』で、その目の前のチャンスをつかめるかどうかは、自分次第。自分がやってみるか、やってみないか」。こんな気持ちを持ち続けてきた。
会社はオーストラリアやカナダ、ハワイ、インドネシアにも店がある。「でも、インドが最も愛される店。まさに『オアシス』なんです」。生活が不便な分、日本食や日本の雰囲気を求める思いが強くなるのかも知れない。
インドで働いて良かったのは、「幸せのハードルが下がったこと」だ。日本のように蛇口をひねれば飲める水がすぐに出てくるわけではないし、コンビニが至る所にあるわけでもない。不便で、過酷な生活ともいえる。でもその分、日本にいたら些細に見える、いろんなことに感謝できるようになった。日本のことがもっと好きにもなった。
将来は、地元和歌山で自分の店を持ち、人が集まって笑い合える場所をつくるのが夢だ。そのためにも、日々インドで学ぶことは多い。「日本では自分のことばかり考えていましたが、インドではスタッフやその家族のことも考えないといけない。その人の人生を背負っています。その重さがわかった上でマネージメントができるようになりたいです」と話す。