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バングラデシュに工場進出 ホームスティで培った人脈と「どうにかなる」精神

アジアで働く
アパレル工場を経営する小島高典さん=ガジプル、奈良部健撮影

「どこでも生きていける力をつけろ。日本人がいない所、生活に困る所、助けがない所で暮らしなさい」。これは経営者だった父、正憲さん(72)の教育哲学だった。戦後間もない1952年、岐阜市でミシンを使う家族経営の町工場を祖父が立ち上げていた。小島さんは中学卒業後、15歳で「丁稚奉公」に出されることになる。1992年のことだ。

行きたくなかったが、「行かないと親子の縁は切る」とまで言われていた。兄も姉も海外に出されていた。当時はまだ携帯電話もメールもなく、主なやりとりは手紙。スペインで暮らしていた姉から自宅に電話がかかってきた時、父親は受話器をとるなり、「意味もなくかけてくるな!」と言って一方的に電話を切った。そんな光景を目の当たりにしていたためか、いずれは自分もと覚悟はしていた。

行き先はどうやって決まったのか。日本に10年間留学経験のあるバングラデシュ人の講演会を聞いた母親の俊代さん(72)が「この人は」と思い、講演後に「うちの息子を預かってほしい」と直談判。その場で「わかりました」と、バングラデシュ行きが決まった。

首都ダッカにある民家にホームステイをした。下は2歳から上は80歳までの30人の大家族だった。「自分を31人目の家族として受け入れてくれた。よそから自分を同じ部屋に寝させることに最初はびっくりしたが、バングラの人のあたたかさが好きになった」

食事はと言えば、1日3食、手で食べるカレー。おいしくて飽きることはなかった。現地の学習塾に通いながら、日本ではなかなか経験することのできない大家族の暮らしを楽しんだ。困ったことと言えば、言葉くらいだった。「英語が拙かったので、自分の考えていることを十分に伝えられなかったのが、もどかしかった」

腸チフスにかかって、3週間入院したこともあった。だが、病院のベッドで考えていたことは「ホームステイ先の家に帰りたい」という思いだった。

工場内をチェックする小島さん=ガジプル、奈良部健撮影

 「腹を割れば、大抵のことはどうにかなる」。1年余りのバングラデシュでの生活から学んだことだ。バングラデシュの人たちは日々、予測できないことや苦境に立っても明るくそれを乗り越えていく。父親の言葉通り、地球上のどこでも生活していけるという自信もついた。

父親からは「自由に生きろ。やりたいなら家業をやってもいい」と言われていた。大学卒業後、名古屋の設備メーカーで4年間技術者として働いた後、家業の「小島衣料」に2004年に入社。すでにコストの安い海外での生産にシフトしており、上海や香港などで働いた。「自力で実績を上げて、役職につきたいと思っていた」と話す。

会社では中国での生産が最大の規模になっていたが、人件費も上がってきており、中国一辺倒のままでは厳しいことがわかっていた。中国以外でどこがいいか。そう考えた時に、いくつか挙がった候補地の中にバングラデシュがあった。父と一緒に視察に行ったが、多くのメリットがあることがわかった。人口1億6千万人の国では工場の人手が集まりやすい。人件費が安く、他に目立った産業がないため、人がとられることもない。何より、自分がホームステイの時から築いた人脈や土地勘がある。

人の手で作業する工程が多い工場内=ガジプル、奈良部健撮影

2010年に現地法人を設立し、同年から生産を始めた。それまで、会社の中国生産の比率は100%だったが、今では6割ほどがバングラデシュでの生産となり、中国はわずか15%ほどだ。主に日本向けにスーツやスポーツ衣料をつくっている。バングラデシュには2つの工場を合わせて2300人の従業員がいる。

「大好きな国だったが、実際に事業をやると好きという気持ちだけではやっていけなかった」。2300人の従業員の生活が自身にかかっているという重圧のほか、他の途上国と同様、役人などから嫌がらせを受けることもある。16年には大規模な従業員ストライキに見舞われ、対応に追われた。

それでも、学生時代のホームステイの経験がなければ、いまの進出は考えられなかった。思い通りにならないことは多いが、あの時に学んだバングラデシュ人のやさしさや「どうにかなる」という経験から培った自信が、今も自分を支えている。