滋賀県で家業の印刷業を手伝っていた督永忠子さん(74)が、最初にパキスタンを旅したのは、45年前のことだった。幼い頃ふるさとの里山を駆けた経験から、山登りにのめり込んだ督永さんは、いつかヒマラヤに連なる山々を一望したいと願っていた。1974年6月、登山仲間の女性3人とともにパキスタンを訪ねた。
ヒマラヤと言えば、登山ルートや現地の支援態勢が確かなネパールを選ぶのが普通だったが、督永さんは「人と同じことはしない」主義だった。外国人の立ち入り制限がパキスタン北部で解禁された直後だったこともあり、自分たちだけの登山路の開拓を試みた。なによりパキスタンは、「エベレスト」(8848メートル)に次ぐ高さの「K2」(8611メートル)を含め、世界に14ある8千メートル峰のうち五つがある秘境としての魅力もあった。
飛行機を乗り継いでパキスタン北部の町ギルギットにたどり着いたが、計画は出だしからつまずいた。地元当局は「女性だけの登山は危険すぎる」と通行許可を出さなかった。遠くからでも山頂を拝みたいと思ったが、途中で道が崩れたり、車が故障したりして、目標の山に近づくことさえかなわなかった。
足止めをくらった督永さんは、ふもとの村々を歩き回ることにした。学生時代に保健衛生を専攻していたこともあり、督永さんは土地の人たちの極貧の生活に衝撃を受けた。特に気になったのは、赤ん坊の死亡率の高さだった。
人家と家畜小屋の区別はあいまいで、妊婦は汚物が散らばった小屋でお産に臨むことも珍しくなかった。劣悪な衛生環境は、小児まひ(ポリオ)や腸チフスなど感染症のまんえんにもつながっていた。
赤ん坊には酷な現地の習わしもあった。生まれたばかりの赤ん坊は布でぐるぐる巻きにされ、おしめをかえるのはまれだった。栄養は慢性的に不足していて、軽い風邪や下痢でも体力をそがれ、命を落とす例が絶えなかった。1カ月ほど聞き回ったが、どの村でも赤ん坊の生存率は5割ほどで、督永さんは「墓の前でなすすべ無く泣き崩れる母親の姿をみて、胸がつぶれる思いだった」という。
それから毎年、ギルギットに通うようになった。赤ん坊や妊産婦の死を減らしたい一心だった。母子の健康状態を観察し、子育てのアドバイスをして回ったが、まともに取り合ってもらえなかった。なにより、活動資金も、言葉の力も、足りていなかった。1981年春、幼子2人を連れてパキスタンに移住する決意を固めた。日本の夫と別れ、パキスタンの男性と再婚した。たとえ目標が遠くても障壁を一歩一歩越えていく感覚は、山登りに近かった。
まずは資金を蓄えるため、パキスタンの首都イスラマバードに民宿を構え、そこを拠点に登山などの旅を手配する旅行会社を興した。一軒家を借り切った民宿を「シルクロード」と名付け、12部屋に最大40人が泊まれる設備を整えた。日本からの旅行者が登れる山は徐々に増え、シルクロードの古道やガンダーラの仏教遺跡といった観光資源も豊富なため、民宿の需要は高かった。入山許可の申請から通訳、トラブル処理まで、あらゆる相談を請け負う姿勢で、睡眠を削って働いた。
料理人や運転手などの現地従業員の数は約30人に膨れた。開業から3年たった84年には過労で倒れ、日本で2カ月ほど静養したこともあった。だが、ほどなくパキスタンが恋しくなった。山岳雑誌「岳人」の取材を受けた督永さんは、インタビュー記事の中でこう語っている。「日本は3年前と少しも変わっていないが、パキスタンでは毎日が変化だらけだった。また忙しい毎日、そしてパキスタン人との戦いが始まります。それでも帰るの。泣きながらでも、おもしろい何かあるんですよ、あの国には」
パキスタンの山中でも車を修理できるように、職業訓練所に通って整備士の資格を取った。万が一に備え、自身には8千万円ほどの死亡保険金をかけた。現地の銀行の信用度が低いため、財産はタンス預金していたが、強盗や空き巣に持って行かれたことも、1度や2度ではなかった。それでも、督永さんは「命があれば、それで十分」とパキスタンから離れなかった。困難に直面するたび、生来の負けん気に火が付いた。
91年には、民宿に泊まった日本の学生グループが、その後に南部シンド州で誘拐される事件が起きた。事前に督永さんが忠告し、グループのうち1人は旅を断念したが、危険地まで進んだ3人が誘拐された。地元の有力者や宗教指導者の仲介で3人は解放された。
つらかったのは、民宿に泊まった登山者が遭難したとのニュースが流れ、冷たくなって帰ってくる時だった。高峰に遭難や滑落はつきもので、捜索にあたった遺体は30体を超えた。遺体が険しい崖や氷河の割れ目に落ちて回収できなくなることもあった。督永さんは「雪が溶け、遺体が発見されることがまれにある」と望みを捨てず、いまも地元の登山隊や村人に連絡して、身元不明の遺体が見つかっていないか確認している。
(後編に続く)