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スラムの真ん中に暮らして26年 ここからアジアの支援を考える

ミパドが行く! 更新日: 公開日:
クロントイの港の周辺の運河沿いのスラム。バンコクには2,000ヶ所のスラムがあり、約210万人が暮らす=八木沢克昌撮影

最初は、半年のつもりだったのが1年、2年それが5年。さらにタイに暮らしバンコク最大のクロントイ・スラムを拠点にアジアの人々を支えるNGO「シャンティ国際ボランティア会」の活動に38年間も関わり続けるとは夢にも思わなかった。コラムの始まりに、自己紹介をかねて、アジアで活動を始めたいきさつについて書いておこうと思う。

カンボジア難民との出会い

そもそもの始まりは、高校で山岳部に入ったことだった。大学では社会福祉学部に進んだが、ここでももっぱら山岳部の活動に明け暮れた。冒険家の植村直己さんに憧れ、1979年、大学4年の春に、夢に見たネパール、ヒマラヤトレッキングを実現させた。

ネパールでポーターを雇ったら、小さな子どもだった。自分の体より大きな荷物を背負った子どもたちが、至る所で働いていた。白銀に輝く8,000メートル級の山々が連なる麓の村々では、一つの山や村を超えると民族や宗教までが変わった。何もかもが驚きだった。

もう二度と海外には来ないだろう。そう思って、バンコクからマレーシア、シンガポールへと旅を続けた。登山の垂直の世界から、より広い人間の水平の世界へのロマンや探求心が生まれた。

日本に帰国した直後に兄が26歳の若さで交通事故死。気が狂ったように泣き崩れた母親と、じっと悲しみを堪える父親の姿と兄の無念。「人はいつ死ぬかわからない」「兄の分まで精一杯、悔いのない生き方をしたい」。そんな思いがいつの間にか芽生えていた。

その年の暮れ、タイ・カンボジア国境の地獄絵のような難民キャンプの状況を伝える報道に接した。半年前に自分の足で歩いていたタイ、アジアの大地。難民キャンプの生と死が兄と重なり、いても立ってもいられなくなった。

兄の死の悲しみが癒されぬ両親には心配を掛けたくなかったので、大学の研究生として福祉の勉強にタイに半年行くことにして、難民キャンプのボランティアに参加した。日本の「難民元年」や「国際ボランティア元年」と呼ばれる1980年。多くの日本の若者たち同様に国境を超えた。

最初は、タイ・カンボジア国境の難民キャンプで、子どもたちに本を提供する図書館活動などに携わった。だが、すぐ専門性と英語の壁に突き当たった。国際協力と英語を学びたくて、1年間、米国の大学院へ。難民キャンプでは、キリスト教系の団体がいち早く駆け付け、組織だった活動をするのを見ていたので、欧米のキリスト教の世界から学びたかった。

国際NGO先進国の米国で暮らして、「日本でもNGOの時代が来る」と確信したが、日本ではまだ、NGOという言葉は社会的には認知されず、国際ボランティアが仕事として成り立つ時代ではなかった。

バンコクのクロントイ・スラムから日本人も多く住むスクムビット地域の高層ビル群を望むことが出来る。 格差の象徴的光景=八木沢克昌撮影

クロントイ・スラム

それから5年。私は首都バンコクの中心部から3キロも離れていない所にあるクロントイ・スラムに暮らすことを決めた。私たちのNGOのバンコク事務所を新しくクロントイ・スラムに建設した直後。スラムの問題を知るには、スラムに住む必要がある。スラムの人々と共に夢を語り、スラムの人々の目線から行動するのがNGOの醍醐味であり「使命」だと確信していた。若さの勢いもあった。

だが、実際にスラムに暮らし始めると様々な試練に直面した。熱帯の暑さに加えて貧困と劣悪な居住環境、麻薬問題も博打も横行していた。ゴミとドブの腐った匂いには悩まされた。スラムの家は密集しているので、一度火事になと、一瞬で火の海になる。頻発する火事に夜も眠れずに怯えもした。

一方、スラムには、他の地域にはない助け合いや深い絆があった。助け合わないと生きて行けなかったのだ。近所の夫婦喧嘩が原因で、火のついた鍋をひっくり返した火事で家を失った人でも「マイペンライ」(気にしない・仕方がない)。誰もわざとやったんじゃないからと、耐えて笑い飛ばせる寛容力が半端ではなかった。スラムの屋台のタイ料理も、外の地域よりも安くて美味しく楽しみだった。希望と絶望が混沌とする中で、不思議なスラムの持つ活力にすっかり魅せられた。

クロントイ・スラムの再開発された70ライ地区のゴミ一つない花と緑の路地裏=八木沢克昌撮影

ミパドが行く!

スラムに家族で住むと決めた時、「タイ社会のゴミ捨て場」と呼ばれたスラムを、花と緑に囲まれたタイで一番美しい地域にしたいという「夢」があった。花と緑あふれる環境の図書館で、子どもたちが本を読み、伝統舞踊や音楽、芸術活動が出来る最高のモデルにしたかった。

今、スラムの景色は変わった。土地分有事業で再開発されて表面的には日本の下町のようで、スラムには見えない。セブンイレブンもある。路地裏にはゴミが消えてグリーン・ロ―ドと呼ぶ程に花と緑も増えた。私たちが長年支援する別のスラムの図書館からは、スラムの貧困と家庭内暴力を乗り越えて、タイ外務省きってのロシア語の専門家として活躍する外交官も生まれた。

しかし、依然としてスラム地区に住んでいるだけで偏見と差別の対象になる。タクシーは、行き先を告げると乗車拒否は日常茶飯事。二人の子どもたちは、スラムの外のタイの学校に通っていたが、スラムに住んでいることを隠し続けていた。スラムに住んでいることを知られると一瞬にして友人を失うからだ。「私はスラム生まれのスラム育ち。いつまでスラムに住み続けるの」と、高校3年の娘に泣かれた時は、さすがに言葉を失い悩んだ。

だが、まだやることはたくさんある。クロントイ・スラムに暮らす全10万人の立退き問題が浮上してきた。カンボジア等から移民、出稼ぎ労働者も増え、新たな問題も出てきてる。私の夢もまだ道半ば。試行錯誤はこれからも続く。

クロントイ・スラムの再開発された70ライ地区のゴミ一つない花と緑の路地裏 花の世話をする住民=八木沢克昌撮影

私の信条は使命の「ミッション」、情熱の「パッション」、夢の「ドリーム」。これを略して「ミパド」と呼んでいる。国際協力の活動そのものだけでなく、スラムに暮らしながら現場を通して見えてきたアジアの多様な文化や生活、視点、価値観を伝えて行くこともまたNGOの使命だと信じている。