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ポル・ポト派の3年と8カ月と20日を、語り直す

トッケイ7回鳴いたかな。 更新日: 公開日:
「第1ケース」のカン・ケック・イウ被告(特別法廷提供)

それは、映画のような場面だった。言葉も、間合いも、息遣いも、天井の照明さえも。そこにいただれもが名優だった。

2009年7月14日、カンボジア特別法廷「第1ケース」の第43回公判。その日の物語を始める前に、この法廷について説明したい。

カンボジア特別法廷。プノンペン郊外の国軍施設を間借りしている(特別法廷提供)

私がカンボジアで暮らし始めた2009年3月、カンボジア特別法廷の本格審理がようやく開始された。カンボジア特別法廷とは、国連とカンボジア政府が共催し、ポル・ポト派政権の幹部を大量虐殺などの罪で裁く法廷だ。

ポル・ポト派政権は1975年から1979年の間カンボジアを統治し、国内では虐殺や処刑、飢餓や強制労働などで約170万人が命を落としたといわれる。その期間を、つい「約4年間」と言ってしまうのだが、この国の人たちはそう言わない。3年8カ月と20日間、と刻む。恐怖も悲しみも痛みも、一日たりとも少なく数えてくれるな、一日たりとも多くは数えたくない。そんな彼らの苦悶がにじむ表現なのだ。

法廷は、この3年8カ月と20日の間に起きた出来事について、政権幹部の責任を問うものだ。カンボジア国内法廷との位置づけだが、裁判官、検事、弁護士の過半数はカンボジア人、残りは外国人とするなど、国際法廷の水準をも保つことを目指している。日本は国連を通じて、この法廷運営費の最大の援助国となっている。

「第1ケース」とは、ポル・ポト時代、主にスパイ容疑でとらえられた人たちが拷問を受けた「S21」と呼ばれる収容施設のカン・ケック・イウ(通称ドゥイ)元所長を被告とする裁判だ。この収容施設は現在、「トゥールスレン虐殺博物館」として公開されているので、訪れた人もあるだろう。記録にあるだけで12000人、実際にはそれ以上の人が無実であるにもかかわらず、拷問の果てに処刑場「キリングフィールド」に連行され殺された。

ポル・ポト時代に秘密の収容所として使われていたS21、現トゥールスレン虐殺博物館(撮影、筆者)

私はこの一審の公判を現場でほぼ毎日、傍聴していた。そこでドラマは起きた。

その日の法廷には、背中を丸めた1人の老人が証人として登場した。緑色のクロマー(カンボジアの伝統的なスカーフ)を首に巻き、薄い白髪と、くぼんだ目。どこにでもいる弱々しい老人に見えた。

被告の部下として特別法廷に出廷した元尋問官の証人(特別法廷提供)

老人は、S21にスパイ容疑などで連行されてきた人々の尋問を担当していた。教員養成校をクラスの首席で卒業し、フランス語を流暢に話し、ベトナム語、英語も解する。教師の賃上げ要求運動に参加したのをきっかけに革命運動に身を投じ、ドゥイ被告と行動を共にするようになった。S21の中でもおそらく最も高い水準の教育を受けたこの老人は、組織の中で重要な役割を与えられていたと推測できる。実際、彼が尋問班の中心人物のひとりだったとの証拠も示された。

だが彼は当時の自分の役割について「重要ではない囚人を尋問する担当だった」と強調した。尋問のときに自分は拷問は使っていないと繰り返し、ほとんどの質問に「知らない」と言い続けた。

――尋問で拷問を使っている尋問官はいたか

「ほかの人のことは知らない。尋問の場所は他の建物から離れていて、私はそこに送り込まれてくる囚人を尋問するだけで、そこから動く自由はなかった」

――尋問が終わると囚人たちはどうなったか

「よく知らない」

――S21の建物について説明してほしい

「私はよく知らない」

――S21には全部で何人ぐらいが働いていたか

「私はそのことを知る地位にはなかった」

検察官にも弁護士にも、視線を上げずに答え続ける老人。当時、S21の調理場で働いていた妻とさえ、互いの仕事の話はしなかったという答えに、いらだった弁護士が語気を強めて問う。「何も知ろうとせず、聞こうとしない。知らないということはそんなに重要だったのか」。老人は淡々と答えた。「私たちは、知ろうとしてはいけなかった。他人のことを気にしてはいけなかった」

老人が証言を終えた後、裁判長は、老人のかつての上司であるドゥイ被告にこれまでの証言を聞いて感想を求めた。この裁判では、証人の証言の最後に、ドゥイ被告が所感を述べる機会を設けている。本来は裁判長に向けて述べるのだが、この日、ドゥイ被告は証人である老人に直接語りかけた。その弁は10分以上におよんだ。

「どうか、ただ真実を伝えてほしい。私のように、歴史の前に責任を認めてほしい。あなたはゾウを手さげカゴに入れて隠そうとしているのだ。そんなことできるわけがない。世界が、カンボジア中の人々が本当のことを聞きたいと待ち望んでいるのだ」。自分に不利なことも話せという言い方は、被告の発言としては奇妙に聞こえるが、被告は当初から罪を一定程度認めており、捜査や裁判には協力的だった。

そしてこの時の被告の言葉はまったく正論だった。記者室で聞いていたカンボジア人記者からも小さな拍手が起きたほどだった。この言葉を受けてカンボジア人の裁判長は目の前の老人に異例の再質問をした。「証人は、今私たちに話したこと以上のことを知っているように見えます。ドゥイ被告の話を聞いて、付け加えることはありますか」

しばらくの沈黙の後、老人はこの法廷で初めて、顔を上げた。くぼんだ彼の目が、天井の明かりを反射して一瞬光った。そして声をふるわせて、「とても残念です」と言った。

それまでとはまるで違う、細く震える声だった。でも、心に静かに染み入る、体温を感じる声だった。彼は言った。犠牲となった知人家族のことを考えると悲しい。あの時代に死んだ妻子のことを考えると悲しい。「けれど、あまりにも混沌としていた。あの時代、私たちはどうすることもできなかった。そしてたくさんの人が死んでいった」

「もっと付け加えることができますか」。優しく語りかけた裁判長に彼は、「いいえ、これが精一杯です」とだけ、答えた。

老人が立ち去る前、裁判長は証言に対してお礼を言った。「人間の記憶というものには限界があります。たった数時間前のことでも忘れるものです。ましてや70代のあなたの記憶は薄れていても仕方ない。法廷に来てくれて感謝しています」

S21での拷問の組織性を知るうえで、老人の証言は重要だと考えられた。しかし彼の発言からは何一つ事実の裏付けはとれなかった。無駄な時間になったはずなのに、裁判長は温かい言葉で法廷を締めくくった。

カンボジア特別法廷の判事席。後列中央が裁判長(特別法廷提供)

ポル・ポト派の尋問官としての経験を、彼はどう心の中に閉じ込めて生きてきたのだろう。脳裏に焼き付いているはずの数えきれない苦しみの表情を、声を、どう抱えてきたのだろう。堅く閉ざしてきたであろう心の扉を開けるのは簡単ではない。でも、法廷で過ごした1日半のその最後に、老人は少しだけ扉を開いた。被告の「もう時代は変わったのだ」という言葉に、ようやく背中を押されるようにして。

ポル・ポト派は特別な訓練や教育を受けたひと握りの集団ではない。農村部の多数の住民たちも、政権が掲げた「革命」を支持し、都市部から強制移住させられた同じカンボジア人を監視する役割を担った。つまり、カンボジア社会には、出自や、関与の度合いは違うにせよ、老人のような「元ポル・ポト派」の人々がいまもたくさん暮らしているのだ。

カンボジア特別法廷にはプノンペン以外からも傍聴者が訪れている(特別法廷提供)

この日の法廷は、30年余りも閉ざされてきた彼の心に小さな明かりをともしたのだろうか。裁判長が、老人に温かい感謝の言葉を贈ったのは、この裁判が元ポル・ポト派を糾弾するためだけではなく、苦しむ元ポル・ポト派の人たちが自らの過去と和解するためのものでもあるということを、伝えたかったからなのかもしれない。

2011年、東日本大震災後の朝日新聞で、哲学者の鷲田清一さんが「語りなおし」という言葉を使った。鷲田さんは、東日本大震災の被災地の人々は、理不尽な事実を受け容れるために「語りなおし」を迫られている、と書いた。それは自分と苦しみとの関係を変えようとする過程であり、「これまでのわたしから、別のわたしへの命懸けの移行」だという。そして、長い時間をかけて当事者が語り切るためには、「マラソンの伴走者」のような、よき聞き役が要るのだ、という。

この言葉を聞いて、特別法廷は、カンボジアの人々にとって語りなおしの場なのだ、と思った。ポル・ポト時代が終わって39年、内戦が終わって27年。この国には、語りなおしを必要とする人たちがきっとたくさんいる。順調な社会復興、右肩上がりの経済成長という薄い膜の下には、癒えることのない傷口がまだ無数にある。いつか、彼らの語りなおしに寄り添えるよき伴走者になりたい。それが、この国でこの職業を選んだ私の責任だと思っている。