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度胸と機転で紛争取材の危険かわす 稀有な半生を小説に 督永忠子さん(後編)

アジアで働く
パキスタン北部ギルギットで女性支援のための算数や読み書きの教室を開いている督永忠子さん(右から4人目)。成績優秀者は表彰して激励する=2018年4月撮影、督永さん提供

(前編はこちら

2001年に米同時多発テロが起こると、米国主導の空爆を皮切りにアフガニスタン紛争が始まった。同時多発テロの首謀者とされたビンラディン容疑者をアフガニスタンのタリバーン政権がかくまっているというのが、米国の主張だった。

パキスタンと同じ民族が暮らすアフガニスタンにも人脈を広げ、現地の事情に精通していた督永さんのもとには、報道陣が大挙した。民宿は報道の前線基地となり、宿泊にとどまらず撮影地の案内や当局との折衝も頼まれた。歯にきぬ着せぬ性格で、依頼を次々にこなす督永さんは、報道陣から「オバハン」の愛称で慕われた。

2005年10月にパキスタン北部で起きた地震で、復興支援の一つとして被災者を励ます遠足を企画し、首都イスラマバードに被災地の約50人を招待した督永忠子さん(左)=督永さん提供

当時はまだ、日本で自己責任論が巻き起こる前だった。「地雷で足が飛ぶようなハプニングがあった方が、絵になっていい」と勢いづくディレクターや、忠告に耳を貸さない取材者もいて、渡航計画を聞かされるたびに気をもんだという。

なかでも肝を冷やしたのは、切り立った崖が連なるアフガニスタン東部で同行したテレビクルーの撮影だった。ビンラディン容疑者が潜伏していたとされる洞窟トラボラを撮影した後、車を飛ばして山を下ったが、日が傾き始めた。無理をすれば道を外れて、車ごと崖に落ちる危険があった。さしかかった峠で、朝を待つことにした。

峠には武装した男たちが、50人余りいた。外国人を身代金目的で誘拐したり、殺したりするイスラム武装勢力や山賊は、珍しくなかった。

督永さんは現地語を話す運転手を介して男たちに伝えた。「明日の朝、ふもとの町で軍幹部と会う約束をしている。それまでの間、少し車中で仮眠します」。軍幹部との約束など本当は無かったが、誘拐を思いとどまらせるために芝居を打った。男たちは獲物を値踏みするように督永さんらを観察し、見張っていた。

それから数時間、身を守るために雇っていた護衛2人は銃を抱えたまま震えていた。テレビクルーには車から出ないようにお願いした。下手に動けば、男たちに撃たれかねない。督永さんは「男たちが銃から手を離すタイミング」をうかがった。逃げられるチャンスがあるとすれば、それは敬けんなイスラム教徒が欠かさない「礼拝」の時だった。日の出前、礼拝の時を知らせる呼び声「アザーン」が聞こえてきた。男たちがお祈りの動作に入ったのを見計らい、車を走らせて逃げた。

パキスタン北部で2005年10月、大きな地震があり、督永忠子さん(左)は震源地近くで被災者支援にあたった=督永さん提供

米同時多発テロから半年余りで、数十本のテレビ撮影をお膳立てした。取材の様子や反米色が強まる社会の変容、町の情景や肉声などを、督永さんはブログにつづっていった。ブログをまとめた本「パーキスターン発/オバハンからの緊急レポート」(02年、創出版)は、「テロとの戦い」の裏側を日々の出来事から写した記録として評価され、日本ジャーナリスト会議賞を受賞した。

空爆と戦闘で荒れたアフガニスタンの家屋は、どこも弾痕で蜂の巣状に壊れ、道路は砲弾で穴だらけになっていた。02年春からは治安情勢を見極めながら、首都カブールを拠点に人道支援に取り組んだ。日本の支援団体と連携して寄付を募り、テレビ撮影で得た資金をつぎ込んだ。

督永忠子さんの支援で建ったアフガニスタン中部の小学校=2004年7月撮影、督永さん提供

カブールの事務所に水や電気、ガスはなかった。はいせつ物は民家から垂れ流しで、側溝にたまって異臭を放っていた。乾燥すると黄色い土ぼこりとなって舞い上がり、道を歩くと顔や体にへばりついた。

それでも督永さんは「水がなければ風呂に入る手間も省ける」と悲観しなかった。カブールでは紛争で夫を亡くした女性たちが増えていた。ミシンの縫い方などを教える縫製教室を開いたり、カーペット工場を作ったりして、自立を手助けした。

アフガニスタンの首都カブールで、断水や停電に悩まされながら難民や女性の支援にあたった督永忠子さん。最長で2カ月間、シャワーを浴びなかった=2004年7月撮影、督永さん提供

アフガニスタン中部では農耕に欠かせない地下水路「カレーズ」の掘削を手伝った。住民を雇えば仕事は早いが、現地の賃金体系を壊すことになりかねない。住民主体で水路を掘ると決めた地区に限り、督永さんが道具を貸し出す形で、90余りの水路ができた。また、主食のナンを作る小麦は収穫期までの一時的な配給とし、配給を当てにして暮らす人が増えないように気をつけた。

パキスタンにも支援の輪を広げた。2000年代後半、大地震や水害が立て続いた。アフガニスタンでのノウハウを生かしながら、国際NGOの支援の網から漏れた難民キャンプを探し、暖をとるための灯油や古着などを運び込んだ。

パキスタン北部で2005年10月に起きた地震で、被災者を励ます督永忠子さん(右)。震源地近くで被災者支援にあたった=督永さん提供

パキスタン北部で地道に続けてきた母子支援も、日本からの寄付で活動の幅が広がった。08年には栄養指導を受けたり縫製技術を学んだりする2階建ての施設「母子健康センター」が完成。幼いころ教育を受けられなかった女性が読み書きや算数を学び直す教室も開かれるようになった。

保守的な風習が残るパキスタンでは、男性優位の考えから女児の進学をよしとしない家庭も少なくない。センターは、こうした男女格差を是正する役割も担っていて、地元紙は16年、センターで受講した女性が1万人を超えたと伝え、「かつて旅行者だった日本人女性が、今ではギルギットの先導役になっている」と特集した。

アフガニスタンの首都カブールで女性を支援するための縫製教室を開いた督永忠子さん=2004年5月撮影、督永さん提供

支援するだけでなく自らの活動を見つめ直すため、69歳から4年間、日本の大学の通信課程を受講して修士号を取った。「思いついたら、あれこれ悩まず、行動に移してみる。3日坊主でもかまわない。やれば3日分の効果はある。3日坊主も10回やれば30日。それが経験となり、次のヒントが見つかるはず」

もともとは山登りが好きでパキスタンを訪ねた督永さんだが、民宿経営と支援活動に追われて自らの夢を探求する機会は少なかった。長年にわたって温めてきた夢の一つをかなえることができたのは、2004年7月になってから。外国人の立ち入りが制限されてきたアフガニスタン北東部の高原「ワハン回廊」を、特別な許可を得て陸路で踏査した。

2004年7月、地元民の手を借りながらアフガニスタン北東部のワハン回廊を踏査する督永忠子さん。氷が浮く雪解けの濁流をヤクに乗って渡った=督永さん提供

驚いたのは、少数民族がヤクを飼いながらのどかな遊牧生活を送っているはずの高原にまで、麻薬の原料となるケシの畑が広がっていたことだ。ケシはやせた土地でも育つ上、乾燥させれば保存がきく。干ばつと紛争が続くアフガニスタンで、希少な換金作物として栽培面積が急増していた。

ワハン回廊のハンドゥードという村に立ち寄った時、督永さんは現地の警察署長から「一帯の110世帯のほぼすべてに麻薬中毒者がいる」と聞かされた。警察署長は「ケシの栽培は禁じられているが、逮捕しても収容する場所がない」と語っていたという。

ケシが植えられている地域が、国際機関が小麦を配っている地域とおおむね重なっていることにも気づいた。督永さんは「現地で分かったのは、小麦の支援をすればするほど、村人は小麦を栽培しなくてよくなり、代わりにケシを植えているということだった。影響を検証しないままのバラマキ型の支援は、地域の自立を促すどころか、逆に阻害することがある」と指摘する。

2004年7月、知人とともにアフガニスタン北東部のワハン回廊を踏査した督永忠子さん(右)。幼い頃から父親に連れられて登る山が好きだった=督永さん提供

督永さんが最近、日課にしているのは、パキスタンとアフガニスタンでの体験をもとにした小説の執筆だ。1作目は、軍事独裁下のパキスタンで07年、モスクに立てこもったイスラム勢力の神学生ら数百人を軍が武力鎮圧した事件を追った「赤いモスク」(17年、合同出版)。パキスタンでテロが急増するきっかけとなった事件で、治安混迷の原点をモスクからわずか500メートルの距離に住んでいた督永さんが、当時の情景や証言を振り返りながら記録した作品だ。

執筆中の2作目では、ギルギットで督永さんが支援してきた1人の少女の半生をたどりながら、パキスタンに残る「児童婚」の問題を浮かび上がらせたいという。

パキスタンでの体験をもとに小説を書き始めた督永忠子さん(右)は、1作目の「赤いモスク」(合同出版)の舞台となった宗教施設に本を寄贈した。この宗教施設では2007年7月、大勢の神学生たちが軍の鎮圧作戦で殺された=2018年8月9日、乗京真知撮影

長年続けてきた支援活動でも、最近取り組んでいる執筆活動でも、共通しているのは、社会のひずみを目にしたとき、それに光をあてて変革を促したいという衝動に駆られることだ。督永さんは言う。「ちょっとした後押しが、誰かの自立を助けることがある。ささやかな言葉が、誰かの人生を支えることがある。いつもうまくは行かないけど、自分が背中を押した誰かが、どこかで他の誰かを支える日が来ると信じている。壁が多いパキスタンだからこそ、見つけられた信念です」