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タイで浮きつ沈みつ30年 人が幸せになるヒント探し続ける起業家

アジアで働く
会社の事務所は、バンコクの都心から離れた静かな住宅街にある。2人の従業員とともに

「アジアに、人が幸福になるヒントがあるんじゃないか」。大学時代に旅したネパールやタイで、そんな思いを抱いてから30年余り。その後の人生のほとんどを、タイで過ごしてきた。

サッカーに明け暮れた高校時代。勉強はしなかったが、本を読むのは好きで、練習のない試験期間中も本ばかり読んでいた。試験の成績がいいはずもなく、レポートを課されるのが常。ある時、世界史の先生から「最近、何を読んだ?」と聞かれた。作家の小田実が米国留学の体験や、欧州、アジアでの貧乏旅行の様子を綴った「何でも見てやろう」。なぜか駅前の本屋に文庫本が平積みになっていて、とにかくおもしろく、一気に読み終えていた。

先生の目がきらりと光り、「小田実ならこれを読め。そしてレポートを書け」。示されたのは、「歴史の転換のなかで」という本だった。パレスチナや中南米のことなど、知らない話が次々に出てきた。そのころの学生がみんな「アメリカ万歳」という雰囲気の中で、アメリカの問題点をずばりと書いていることに驚き、そしてかっこいいと思った。それまで漠然と、大学の体育学部に行って体育の先生になるんだと思っていたが、「これで、社会への目が開かされたんです」。

社会科学系の本を真剣に読むようになり、大学は政治経済学科へ。世界の貧困や経済格差などを何とかしたいと思い、それなら政治を目指そうと、雄弁会に入った。だが、会のメンバーは保守的な人が多く、話がかみ合わない。議論をするにしても、本だけを頼りにするのはむなしいと思い、「とにかく海外に行かなきゃ」と思い始めた。

過去の写真を見ながら、タイでの仕事の遍歴を振り返る谷田貝さん

大学2年だった1985年、アルバイトでためたお金で初めて行った外国がネパールだった。インドにはまっていた友人にインド行きを誘われたが、当時、イスラム教徒とヒンドゥー教徒の衝突があり、まずは隣のネパールに行こうという話に。インターネットもなかった当時、ネパールに関する情報はほとんどなく、悲壮な覚悟でカトマンズの空港に降り立った。

だがそこには、のどかさしかなかった。リュックを背負って歩いていくと、民族衣装を着た人たちがのんびりと洗濯をしている。「人が人としてやる営みはみんな一緒なんだな」と思い、「俺が世の中を変えてやるんだ」というような気負いが一気に崩れていくのを感じた。後日、カトマンズの西方にあるポカラも訪ねた。知り合ったネパール人に連れられて農家を回ると、自家製の蒸留酒と大豆を煎ったものを出してくれる。「結婚してるの?」「してません」「いくつなんだ?」「二十歳です」。たわいもない話なのに、なぜか楽しげに、けらけらと笑い出す。車もなく、テレビもない。「でも、それが温かく、幸せそうな光景に見えたんです」

行き帰りに寄ったタイでも、それは同じだった。貧しく、悲惨だという思い込みがあったが、食が豊かで、あくせくしていない。「そのとき、アジアに幸福になるヒントがあるんじゃないかと思った。変えてやるというのはすごく上から目線だったと、恥ずかしくなった。自分はまだ何も分かっていない。もっと知りたいと思うようになったんです」

アジア関連の本をむさぼるように読み、アジアで見聞きしたことを伝える仕事がしたいと思った。ただ、メディアの世界に入っても、すぐにアジアに行けるとは限らない。大学卒業にあたってはとにかく、すぐにアジアに行かせてくれる仕事を探した。1988年に東南アジア全域に支店がある旅行会社に入ると、出た辞令はバンコク。入社から1カ月で、バンコクで暮らし始めることになった。当時は海外旅行ブームで、バンコクで同社が取り扱う旅行者の数は前年から倍増。タイ人のスタッフに教えてもらいながら3カ月でタイ語を覚え、週に2日は会社に寝泊まりしながら働いた。

翌年、シンガポールへの転勤を命じられたのを機に、バンコクにある別の旅行会社に移った。あるとき、中高年の人たちの健康をテーマにした長期滞在プランをつくってほしいという依頼が、日本から舞い込む。ちょうど知人のすすめで、気功とかヨガといった東洋医学的なものに興味を持ち始めていた時期でもあった。自然体験などを織り込んだ1カ月の滞在プランを練り上げたが、時代を先取りしすぎたせいか、さっぱり売れなかった。

ただ、健康をテーマにした仕事は、「アジアに人が幸福になるヒントがある」という自らの思いと重なっていた。もっと自由にやってみたいと、起業を決意した。

2000年に立ち上げた会社の名は「ウエルネス・ライフ・プロジェクト」。健康な生活をプロジェクトするという名の通り、高齢者や障害がある人を対象に、タイでの自然体験や文化体験を通じて健康の維持、増進、回復を図ってもらうことをミッションと定めた。

日本の障害者自立支援のNPOに協力を仰ぎ、リハビリが必要な人たちのためのプランを考えた。寒くないタイは、リハビリをするうえでメリットがある。タイに旅行できる楽しみが、日本でのリハビリのモチベーションにもなるとも考えた。料理やマッサージの体験、病院見学なども盛り込んだところ、相次いで応募があり、そのうちの半分は車いすを使っている人たちだった。

北部チェンマイのコースには、近くにあるゾウのキャンプを入れていた。ショーを見てもらうだけのつもりだったが、車いすの1人から「ゾウに乗ってみたい」と言われた。普通の旅行会社なら、危ないからと言ってやらないだろう。でも、何とかならないかと考えた。おとなしいゾウを選び、鞍に安全ベルトをつけてもらい、隣には健常者に乗ってもらって、平坦なところをゆっくり歩いてもらえばいい。やることに決め、十数人いた車いすの参加者に希望を聞いたところ、全員が「乗りたい」と手を上げた。「よく、泣いて喜ぶって言いますけれど、みんな本当に泣いて、うれしいと。起業してよかった、なんていい仕事を見つけたんだと思いました」

炭の原料となるユーカリの木(谷田貝さん提供)

ところが翌年、思いもしなかったことが起きる。日本に営業に行き、金沢駅に着いてホテルに入ったところで、テレビに映る信じられない光景を目にした。高層ビルに飛行機が突っ込み、ビルから煙が上がっている。20019月、米国で起きた同時多発テロ。その影響は大きく、NPOを通じてツアーに参加しようとしていた障害者らの間にも「飛行機に乗るのが怖い」という声が出て、すべてキャンセルになった。

その後はNPOに頼らず、自らのウェブサイトやメルマガで地道にPRに務め、障害者向けツアーの参加者も徐々に上向いてきた。それを聞きつけた知人が、高齢者がタイで老後を過ごす「ロングステイ」の仕事を持ち込んでくれて、何とか会社を維持することができた。

だが今度は、タイの政治に翻弄される。2006年以降、タイではタクシン元首相派と反タクシン派の政争が激しくなり、反タクシン派が空港を占拠したり、タクシン派がバンコク中心部の道路を封鎖したりするなど、混乱が何年も続いた。ツアーの客足も再び遠のいた。

「でも、神様っているんですね」。転機をもたらしたのは、それまでの仕事とはまったく違う木炭との出会いだった。日本料理店に炭を納めていた人から声がかかり、仕事を手伝うようになった。その後、自ら炭を扱い始めたが、生産者にサンプルを20キロ送ってくれと頼んだのに、届いたのは200キロ。途方に暮れていたところ、問屋から「炭を始めたんですって? 助けてください」と連絡が入った。その日に必要な炭が足りないという。「何キロいるんですか」と聞くと、答えは「200キロ」。その縁で、炭を安定的に発注してくれるようになった。日本食を扱う店の急増もあり、炭の需要は堅調。タイ東北部などで自ら見つけてきた生産者に加え、今は隣国ラオスで生産された炭も扱う。日本への輸出も始め、会社の運営もここ数年でようやく軌道に乗った。

谷田貝さんが扱っている炭。タイでのビジネスの転機になった

余裕ができたところで、こんな思いが頭をもたげた。「炭だけで食べられるけれど、それでいいのか。起業の初心は、タイで人を健康にするということではなかったのか」。そのときに思い出したのが、以前に大学の先輩から紹介された米ぬか酵素風呂だった。日本でやっている人のところを訪ねると、たくさんのお年寄りが全国から口コミで集まっていた。

すぐに資料をかき集め、米ぬかを発酵させる培養液を自らつくった。米ぬかに培養液を混ぜると、微生物が酵素を作り出す際に出る熱によって、米ぬかが60度以上の高温になる。電気やガスを使わない自然の熱で、砂風呂のように温浴ができる仕組みだ。体質の改善や慢性疲労の回復などに効果があるとされ、自らのプロジェクトにぴったりだと思った。2年前、バンコクのマッサージ店に米ぬか酵素風呂のユニットを納め、ビジネスとしてスタートした。日本からのお客さんだけでなく、タイの人たちの健康増進にも役立てればと、いずれはタイ各地にフランチャイズで広げていきたい考えだ。

会社の中にしつらえた米ぬか酵素風呂。この中に15分入ると、2時間ぐらい走ったのと同じくらいの汗が出るという

タイに来て、はや30年が過ぎた。政情には振り回されたものの、タイの個人から悪意をもって何かをされた経験はない。2007年にタイ人の妻と結婚し、2人の娘は10歳と8歳になった。「タイ社会のあり方は、タイ人が決めること。私たちは温かく見守るしかない。妻と娘たちの国でもあるので、もちろん、いい方向に進んでもらいたいと思っていますけれど」

バンコクの住宅地の一角にある会社の門には、「Baan Tao(バーンタオ)」と書かれた看板がかかっている。タイ語でバーンは家、タオはカメ。「カメの家」という意味だ。会社名が長いので、いわばブランド名として付けた。カメはおめでたいことや長寿のシンボルであり、ウサギのように走り続けてきた生活をしばし忘れ、のんびりと心豊かに過ごしてほしいという思いも込めた。「スローだけど、最後はウサギに負けずに勝者になれるという意味もあるんです」。ゆっくりとした歩みは、これからも続く。

事務所の門には、「バーンタオ(カメの家)」の屋号とカメのイラストが描かれた看板がかかっていた