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バリ島から世界へ 日本人ダンサー、3歳からの軌跡

アジアで働く 更新日: 公開日:
バリ島を拠点に活躍する日本人のダンサー・振付師、大久保ジャスミンさん=2018年6月、バリ島、野上英文撮影

インドネシアを代表するダンサー・振付師 大久保ジャスミンさん

「サトゥ、ドゥア、ティガ、ウンパッ、リマ……」。バリ島で、取材場所として指定された民家を訪ねると、インドネシア語で1から順に数える声が聞こえてきた。ダンサー・振付師として活躍する大久保ジャスミンさん(31)が、活動の拠点にしているスタジオだ。この日は、耳が不自由な子供たち計6人に、ボランティアでダンスを教えていた。

玄関先には、子供たちが、出演する舞台のために手作りしたカラフルなお面や笠が並べられている。前掛けのような長い布は、ラマックというバリの伝統舞踊から発想したという。 

耳の不自由な子供たちが出るダンス舞台の衣装。大久保ジャスミンさんの指導で手作りした=2018年6月、バリ島、野上英文撮影

記者の訪問で中断したレッスンを再開してもらった。髪を束ねたジャスミンさんが先頭に立ち、自ら動いてみせる。体を回転させたり足を交錯させたりと、難しい動きが続くが、子供たちは真剣な表情で、だんだんと動きがそろうようになっていった。 

耳の不自由な子供たちにボランティアでダンスを教える大久保ジャスミンさん(中央)=2018年6月、バリ島、野上英文撮影

インドネシアでは、障害者は社会との接点が少なく、家に引きこもりがちだ。「この活動を始めてから、他の子たちと一緒に色々なことを学べて幸せです」。参加者の女の子は、休憩時間に手話でそう答え、にっこりと笑った。 

撮影のためにポーズを決める大久保ジャスミンさん(手前右)と子供たち=2018年6月、バリ島、野上英文撮影

トルコ生まれの日本人。亡き父は小説家で絵も描いた。母はファッションデザイナー・山本寛斎氏の秘書をしていたこともあるという。旅行好きの両親に連れられ、幼い頃から世界中を回った。

人生を決定づける出合いが、3歳であった。初めてバリ島を訪れ、お寺の祭りに行った夜のことだ。伝統舞踊「チャロナラン」が披露された。お面をかぶった女性の踊りと音楽に魅了され、未明の終演まで目をぱっちりと開けて見届けた。帰り道、母親に言ったという。「私、バリダンサーになりたい」 

大久保ジャスミンさん。飾りはバリ舞踊のイメージから作ったという=2018年6月、バリ島、野上英文撮影

それからタイやインド、カンボジア、スリランカなど、各国の芸術に触れた。ただ、頭から、あの夜の光景が離れなかった。「いつ、バリに行くの?」「やっぱりバリ舞踊がいい」。ことあるごとに言い続けた。

両親が根負けして、ジャスミンさんが9歳の頃、バリ島を再び訪れ、初めて踊りを習った。3歳から6年間も思い続けていたからか、2週間の練習でも吸収が早い。本気だったのだと、両親も納得した。翌年からは1年に2カ月以上、バリ島に滞在し、練習の日々。努力が実り、10歳から、地元の子供たちと一緒に舞台に出るようになった。さらに11歳からウブド王宮のダンスグループに迎えられ、様々なバリ舞踊を観光客に披露するようになった。バリ人だけが踊れる舞台で、それまで外国人が立つことはかった。

「どの国の伝統舞踊もすばらしい。ただ、バリ舞踊の特徴は、衣装と体の動きがつながっている。手の動きや目の動きが細かく、音楽もパワフルで、エネルギッシュ」。ジャスミンさんは、魅力をそう語る。 

大久保ジャスミンさん=2018年6月、バリ島、野上英文撮影

13歳のころに移住したバリ島。踊りを習い始めた9歳から数えると、22年間の月日が流れた。いまは、バリ舞踊をベースに、新しいコンテンポラリー(現代的な)ダンスを創りだしている。自ら踊ったり、振付師として舞台やイベントの演出をしたり。日本の新作カメラのプロモーションビデオに出たり、ジャカルタの都市PRで海外公演に出たり、東南アジア競技大会(シーゲームズ)のオープニングセレモニーを演出したりと、インドネシアを代表する芸術家として、活躍の場は広い。

大久保ジャスミンさんの作品「kukusan peken」(ククサンプカン)から=本人提供

挫折もあった。

11歳から踊り始めたウブド王宮でのこと。可能な限り個人レッスンを受け、踊りの細かい表現や動きを学んでいった。どんな踊りでもこなすようになったジャスミンさんは、次第に、起用される機会が増え、地元の子たちより「いい役」が回ってくることも増えた。それが嫉妬を呼び、衣装の着替えを手伝ってくれなかったり、会話に混ぜてもらえなかったり。「日本人なのに、バリ舞踊を踊って……」。そうも、ささやかれた。

最初は気にとめなかったが、だんだんと環境になじめず落ち込んだ。そして14歳の時、メンバーを突然に辞めさせられた。

それから2年ほど、踊りを一度やめた。自宅に引きこもりがちになり、縫い物やケーキ作りなど、違うこともやってみた。だけどやっぱり踊りたい。そんな思いを、個人レッスンを受けていた先生が、大学で学ぶ道につないでくれた。踊りと語学力を評価されてのことだ。ジャスミンさんは16歳で、インドネシア国立芸術大学の舞踊科で学び始めた。

大学で色々な踊りを試すなかで、次第にコンテンポラリーダンスをよく踊るようになった。引きこもる前に渡米する機会があり、そこで出あったのがコンテンポラリーだった。世界にはバリ舞踊以外にも色々あるのだと、考え方を変えるきっかけもくれた。周りから「ジャスミンのコンテンポラリーダンスはバグース(最高)だ」と、口々にほめられた。バリ舞踊に入れ込んでも受け入れられないが、これならやってもよさそうだ。「私のソウル(魂)、キャラ、根がついた」 

パプアのアスマット民族をテーマにした作品=大久保ジャスミンさん提供

大学の卒業をめぐっても、また外国人であることが壁となった。試験を受けることを問題視する声が教授陣から上がったのだ。

落ち込んだジャスミンさんは、ある挑戦をする。全国ネットのテレビ局が主催するオーディション番組「プナリインドネシア」(インドネシアのダンサー)への参加だ。全国から約4千人のダンサーが集まった。ジャスミンさんは1日だけ踊って終わりだと思っていたら、次々と次のステージに進む。そして、バリ代表として生放送番組への出演が決まった。2007年、18歳の時だ。

各地から選抜された計22人が毎週1度、ジャカルタで、審査員や聴衆を前に与えられたテーマをもとに創作ダンスをする。選ばれなければ、次回の出番はなし。ジャスミンさんは、すぐ落ちると思い、1週間分の着替えだけ持って臨んだが、計6人の最終決戦まで残った。そして最後は第2位に選ばれた。現地の運転手や掃除の係、舞台の裏方までが、国籍の違う日本人を応援してくれていた。「ジャスミンは、踊りが上手だけでなく、あいさつもすごくいいから」。そういって励ましてくれた。

バリ島を拠点にしながら、日本人であることをプラスの追い風に変える。バリの人たちとは違う方向で活躍していく。立ちはだかる壁から、そんな生き方を自然と学んだ。 

砂浜で踊る大久保ジャスミンさん=2018年6月、バリ島、野上英文撮影

2013年から3年間、祖母が住む北海道・函館に住んだ。初めての日本。自然の美しさにみとれた。財団法人「北海道国際交流センター」に2年間勤務し、機会があるたびにバリ舞踊やコンテンポラリーダンスを披露した。そこで、函館とインドネシアの友好を深めようと「函館山でケチャ」というダンス企画を立てた。引きこもりの若者も支援しようと出演を促す。芸術活動を通して、参加者が声を出し、体を動かし、喜びをみんなでわかちあって、わくわくする。そんな経験が、バリ島に戻った2016年から、ろうあの子供たちに踊りや衣装デザインを教える今の活動につながっている。

ボランティアで踊りを教えている耳の不自由な子供たちと、大久保ジャスミンさん(中央)。練習後、みんなでそろえた手を高く上げた=2018年6月、バリ島、野上英文撮影

踊りが自分の生きている一部となり、芸術がジャスミンさんをバリ島につなげている。

海外で活動する難しさを聞くと、言葉を選びながら、こう答えた。「日本にいても壁はあるだろうし、海外だから壁があるわけではない。どういう風に自分自身が、海外で受け入れてもらえるか。好きなことをやるのが一番のキーワードだと思う。世界のどこかで、夢はかなえられる。それによって、幸せがあると思う」。今後は、自らが関わる作品をバリ島から世界へ広めることに力を入れたいという。

カフェで取材に応じる大久保ジャスミンさん。踊る時とは違った表情を見せてくれた=2018年6月、バリ島、野上英文撮影