少年期を過ごしたボトキンスク
私は、クラッシック音楽の造詣はまったく深くないものの、ロシアの大作曲家ピョートル・チャイコフスキーの作品には、多少は親しんできました。個人的に、ロシアの偉人の中では、最も敬愛するのがチャイコフスキーです。仕事でロシアの各地を周る中で、チャイコフスキー所縁の地があれば、時間を見付けて立ち寄るようにしています。そこで、今回と次回の2回に分けて、チャイコフスキー聖地巡礼の談義をお届けします。その際に、それぞれのスポットの観光客にとってのアクセスのしやすさと、見ごたえについて、私なりに評点してみたいと思います(黒い★が多いほど高評価)。
さて、ピョートル・チャイコフスキーは、1840年5月7日(旧暦4月25日)、現在のウドムルト共和国ボトキンスク市に生まれました。ロシアの内陸部では、鉱山や金属工場の開設に伴って集落が発生するパターンが多く、この街もまさにそうで、当時は「ボトキンスク工場」と呼ばれていました。ピョートルの父親イリヤはエリートの鉱山・冶金技師であり、ボトキンスク工場の工場長を務めていました。
幼いピョートルは、ボトキンスクの生家で8年ほどを過ごしました。一家が1848年にこの家を引き払ったのち、家は人手に渡ったり公共施設として用いられたりしましたが、ソ連時代の1940年に「チャイコフスキーの屋敷博物館」となり、現在に至ります。
チャイコフスキーが初めて作曲をしたのは、後述のとおり1854年ということですので、さすがに少年期を過ごしたこのボトキンスクの家では、作品と呼べるものは一曲も作っていません。ですので、ボトキンスクの博物館では、チャイコフスキーが生まれ育った環境や家族関係などについて学び、そうしたルーツが後の芸術にどう影響したかに思いを巡らすということになります。
チャイコフスキーの屋敷博物館(ボトキンスク)
ウェブサイト(英語あり):http://tchaikovskyhome.ru
アクセス:★★☆
見ごたえ:★★★
本当にボトキンスク貯水池が「白鳥の湖」なのか?
ところで、チャイコフスキーが有名なバレエ作品「白鳥の湖」を作曲する上で、イメージした湖が具体的にどこだったかということについては、諸説入り乱れ、定説はありません。ただ、チャイコフスキーが少年期を過ごしたボトキンスクでは、屋敷の目の前に「ボトキンスク池」という貯水池が広がっており、「ボトキンスク池こそが白鳥の湖ではないか」とする説が、ロシアでは最もポピュラーのようです。
私は、「白鳥の湖」というのは、鬱蒼とした森の中にひっそりと佇む神秘の湖なのだろうと勝手に想像していたので、18世紀に工業用水を確保するために作られた人造湖がそのモデルらしいということを知った時には、ショックを受けました。冒頭に掲げたチャイコフスキー像の写真で、背後に見えるのが問題の貯水池です。私がこの場所を訪れたのは10月でしたが、季節の関係か、白鳥どころか、水鳥の類が一切見当たりませんでした。ジョギングでもしたら気持ち良さそうな場所でしたけど、ちょっとあのバレエ作品のようなロマンチックな雰囲気は感じ取れませんでしたね。
ちなみに、ドイツでは、バイエルン地方のフュッセンという街の郊外にある湖こそが、「白鳥の湖」のモデルであるという説が唱えられているそうです。そもそも「白鳥の湖」はドイツ人作家による童話をモチーフとしており、しかもチャイコフスキーは「白鳥の湖」の作曲に取り組んでいた1876年にバイエルン地方を旅行しているので、その点も符合するというのが、ドイツ側の主張のようです。
ひとところに留まらない人生
チャイコフスキーという人は生涯を通じてひとところに留まらず、街や家を転々としたということが言えると思います。1848年にボトキンスクを後にしたチャイコフスキー家は、一時的にモスクワに暮らしたのち、1849年に現在のスベルドロフスク州にあるアラパエフスクという街(やはり鉱山・冶金の街)に移り住みました。
チャイコフスキー家がこの街に暮らしたのは1850年までと、ごく短かったものの、当時の家が現在も「チャイコフスキーの家博物館」として保存されています。残念ながら、アラパエフスクはウラル山脈の奥地であり、私も行ったことはありません。ですので、以下の評点はネットなどで得た情報にもとづくものです。
チャイコフスキーの家博物館(アラパエフスク)
ウェブサイト:なし
アクセス:★☆☆
見ごたえ:★☆☆
法律家から音楽家への転身
チャイコフスキーは1850年に帝都ペテルブルグの法律学校に入校し、2年後には家族もペテルブルグに転居しました。しかし、最愛の母が1854年に亡くなり、悲しみに打ちひしがれたチャイコフスキーはその想いを込め、初めて本格的な楽曲を作りました。
1859年に法務省で働き始めたチャイコフスキーでしたが、幼い頃から親しんでいた音楽への想いが次第に募り、法律家としてのキャリアを捨て、音楽の道に進むことを決めます。1862年、チャイコフスキーはペテルブルグ音楽院に入学しました。このように、チャイコフスキーの音楽家としての出発点はペテルブルグだったものの、私の調べた限りでは、ペテルブルグにはチャイコフスキー博物館の類は存在しないようです。
1866年には活動の場をモスクワへと変え、モスクワ音楽院で教鞭を執ることとなりました。チャイコフスキーはモスクワでも何度か住居を変えているようですけれど、そのうち1872~1873年に暮らしたモスクワ市西部のクドリンスカヤ通りにある家が現在、「チャイコフスキーとモスクワ博物館」として一般に公開されています。この家でチャイコフスキーは、交響曲第2番、バレエ作品「スネグーラチカ」などを仕上げたということです。
チャイコフスキーとモスクワ博物館は、外国人のファンにとっては、一番訪れやすいチャイコフスキー聖地でしょう。展示は洗練されていますし、ロシア語・英語のオーディオガイドを利用することができ、チャイコフスキーの生涯とその芸術をじっくりと学ぶことができます。
というわけで、前編はここまで。来週の後編では、チャイコフスキーの創作を語る上で見逃せないウクライナのカメンカおよびブライロフの地や、巨匠にとって終の棲家となったモスクワ郊外のクリンについて語りたいと思います。
チャイコフスキーとモスクワ博物館
ウェブサイト(英語あり):http://glinka.museum/contacts/muzey-p-i-chaykovskiy-i-moskva-.php
アクセス:★★★
見ごたえ:★★★