「ノートを買いませんか。高校の修学旅行に行くのですが、旅費を払えない友達のためにお金を集めているんです」
今年7月、取材で訪れたギリシャの首都アテネで、国会議事堂近くの商店街を1人で歩いていると高校生2人に声をかけられた。
その1人のクリスティナ・ブトカルさん(18)によると、エーゲ海のクレタ島に4泊5日の国内修学旅行に1人200ユーロ(約2万6千円)を払う必要があるが、「クラスの半分ぐらいは経済的な理由で払えない」と言う。クラス全員で手分けして3ユーロ(約360円)で仕入れたハードカバーのノートを5ユーロ(約600円)で観光客に売って集めている。この日は2時間歩き回って2冊売れたという。私も1冊買った。
2010年に財政危機に陥ったギリシャは、欧州連合(EU)や国際通貨基金(IMF)から金融支援を受け、その代わりに増税や歳出削減などの財政緊縮策を強いられた。今年8月にようやく金融支援から抜け出したが、経済は疲弊し、国民は今も苦しんでいる。
なかでも若い人への影響は大きい。
失業率は13年7月の27・9%をピークに、今年7月には19.1%に下がった。それでもユーロ圏では最も高いのだが、24歳未満の若者に限ると37.6%。仕事がない中、経験のない若者がなかなか働き口を見つけられないでいる。
アテネ郊外の職業紹介所では、職探しに来る人が道路まであふれていた。約1年前に衣料品製造会社の事務職を解雇されたというカテリーナさん(28)は「この先の生活が不安で仕方がない」と心配する。失業保険は毎月360ユーロ(約4万7千円)だが、受け取れる期間は1年間だけという。「ここでは仕事が見つからない。ギリシャを離れ、ドイツや英国に出て行った友達も多い」と言う。
若者が国を離れていくギリシャでは今、世代間の格差が問題になっている。
14~15年にギリシャの財務相を務めたギカス・ハルドゥベリス氏は「いまの社会保障の仕組みは不公平だ。年金生活者のために払う保険料の負担が重すぎるため、働く気がせず、若い人が国を離れる大きな理由になっている」と言う。ギリシャの公的年金制度は、現役世代が払う保険料が年金の受給者の支払いに充てられる仕組みだ。危機後に保険料負担が増え、ギリシャで多い自営業者の場合は収入の4割ほどが年金の保険料にとられるという。
財政危機をもたらした理由が、年金にあるからなおさら世代間の格差への不満は強い。
アテネ経済商業大学のパノス・サクログロウ教授によると、2000年以降のギリシャ政府の借金の増加分のうち、3分の2が年金に関係するものだという。年金基金の赤字の穴埋めを、政府が肩代わりしたためだ。
ギリシャの年金は寛大すぎると批判を浴びてきた。たとえば、整髪剤などの化学品を扱うため、美容師が「危険な仕事」として、50代前半からの受給開始時期の前倒しが認められたり、公務員では退職直前に給料が大幅に引き上げられ、その給料をもとに年金の受け取り額が水増しされたりするケースがあったという。
もちろん、年金生活者も財政危機で年金の受け取り額が減らされて、大きな影響を受けている。アテネの住宅街の一角にあるお年寄りが集まるカフェで話を聞いてみた。
「水道代や電気代を払うのはとても難しくなった」。元国営の飛行機整備工場で働いていたという、ディウィトリス・コウテリダキスさん(68)は嘆いた。危機前に比べ、年金の受け取りは4割ほど減ったという。ギリシャ公務員年金組合によると、この8年間で計13回カットされた。老後の生活を支える年金が減らされることへの不安は強い。
ただ、一方で、年金の水準がまだ高い人も少なくないようだ。
郵政省幹部だったパナギオティス・バボウギオス組合長(80)が教えてくれた自身の年金額は、財政危機前は月2770ユーロ(約36万円)。今はカットされたが、それでも月1880ユーロ(約24万4千円)になるという。その金額を聞き、通訳としてインタビューに同行してくれたギリシャのジャーナリストはため息をついた。「私の先月の給料の2倍近いわ」。
サクログロウ教授によると、国民の実質的な平均所得の平均を100とした場合、年金生活者の所得水準は07年が95と国民平均より低かったが、14年に106になった。失業や賃下げで国民全体の所得が下がる中で、相対的に恵まれた立場にあるという。
一部の人の年金水準はまだ高いという専門家の声があるが、どう思うかと、バボウギオス組合長に尋ねてみた。
「全く高くない。なぜなら、年金は家族を支えていくために必要なものだからだ」という。失業中の次男の住宅ローン返済のために年金のうち毎月700ユーロ(約9万1千円)を渡しているのだという。カフェで話を聞いたお年寄りもが失業中の子どもの家族に年金の一部を渡しているという人が何人かいた。
ギリシャの失業率が高くても、社会混乱が広がらないのは、こうした年金生活者が失業した家族を支えていることが一因とされる。
しかし、年金偏重の社会制度は持続可能でないとの見方もある。
「年金にみんなが頼る仕組みは効率的ではない。年金を改革し、いまの限られた財源を、最低所得保障を充実させたり、職業訓練を受けたりできるように振り向けるべきだ」とサクログロウ教授は言う。低所得者や失業者らへの直接的な支援を充実させるべきだというわけだ。ホームレスの支援団体のアダ・アラマノウさん(53)も「ギリシャは公的な社会支援が充実していない。家族に支えてくれる人がいない人は、失業保険がなくなれば、すぐに路上に出て行かないといけなくなる」と話していた。
ただ、政治の世界は違う方向へと動いているようだ。
「8年間の緊縮策を終え、ついに年金カットのない予算になる」。ギリシャのチプラス首相は10月に議会でそう述べた。ギリシャでは年金制度を持続可能なものにするため、来年1月に年金受け取り額を再調整する仕組みを導入し、GDPの約1%にあたる実質的な年金カットが予定されていた。しかし、これをやめるというわけだ。ギリシャは総選挙が近づいており、投票率が高い高齢者向けのアピールであるのは明らかで、抜本改革は先送りされそうだ。
ギリシャの年金研究で知られるピレウス大のプラトン・ティニョス准教授は「この調子ではいずれまた危機に陥りかねない」と懸念する。ティニョス氏は、90年代後半から2000年代初めに、ギリシャの首相の経済アドバイザーを務めた。政府の中で年金改革案をつくったが、与野党の反対に加え、労働組合などが大規模なデモを続けて結局頓挫した。「当時の改革ができていれば財政危機は避けられたはずだ。急速な高齢化が進むのは分かっており、年金制度も持続可能でないのは分かっていたのにできなかった。年金改革の先送りはしないこと、これがギリシャ危機の教訓だ」と話した。
日本が抱える政府の借金のGDPに対する割合は約240%と、ギリシャの約180%を大きく上回る。財政赤字の大きな理由である社会保障費の半分近くを占める公的年金の改革は今後も待ったなしだ。ギリシャの財政危機の教訓は、日本にとっても無縁ではない。