生活に必要な最低限のお金を政府が無条件で国民に配る――。夢のような政策である「ベーシックインカム(BI)」の実証実験を北欧フィンランドが2年間かけて行った。BIの実証実験は過去に自治体レベルでは例があるが、中央政府が関与する国家レベルでは世界で初めてだ。国際的に注目された結果がこのほど発表された。
実験は2017年1月~18年12月に行われ、25~58歳の2千人の失業者に毎月560ユーロ(約6万6千円)を配った。失業給付のように複雑な申請の手続きは不要で、BIを受けている間に仕事が見つかっても支給は継続される。こうした条件で、通常の失業給付を受ける失業者17万3千人(比較グループ)と比べ、BIを受けた人はどれだけ働く意欲が高まり、雇用を増やす効果があるのかを調べた。当時、フィンランドの失業率は高止まりしていて、収入が不安定な非正規雇用が増えたことが背景にあった。
「スーパーワンダフルな経験だったよ」。BIを受給したユハ・ヤルビネンさん(41)は5月中旬、スカイプでの取材でこう振り返った。フィンランド西部ユルバ郊外の村に看護師の妻と8~19歳の子ども6人で暮らしている。私は朝日新聞特派員で欧州に勤務していた17年秋、BIの取材でヤルビネンさんの自宅を訪ねたことがある。自宅の部屋のはりから下がったブランコで、きょうだいが伸び伸びと遊んでいたのが印象的だった。
ヤルビネンさんは経営していた窓枠をつくる会社が倒産し、BIを受給し始める前まで6年間、失業状態だった。ところが、BIを受け取り始めた17年の夏、その資金を元手に手作りの太鼓を販売する会社を立ち上げた。昨年には自宅の一部を旅行者に貸し出す宿泊サービスも新たに始め、昨年夏は30組ほどが利用したという。
失業給付を受けるには、臨時所得の有無や求職活動を続けているかなどを定期的に役所に報告する必要があり、一定以上の収入があれば失業給付金は減らされる。ヤルビネンさんは「まるで監視されているようだったが、自動的に入って来るBIのおかげで前向きになれた」と話した。
政府が発表した実験の最終結果によると、BIのグループのうち600人弱に電話で聞き取り調査したところ、家計について「快適に暮らしている」「大丈夫」の回答は合わせて60%と、比較グループより8ポイント多かった。「気が滅入っているか」の質問には「いいえ」の回答が76%と、比較グループより9ポイント多かった。5月初めにインターネットで記者会見したフィンランド社会保険庁事務所(KELA)のミンナ・ウリカンノさんは「参加者はより自信を持ち、ストレスが少なく、精神的な健康状態もよかった」と述べた。
BIを受け取った実験参加者の1人で、フリー・ジャーナリストのトーマス・ムラヤさん(46)は実験中、ほかのBIの受給者にインタビューを重ね、BIに関する本を出版したという。ムラヤさんは「BIで気持ちは軽くなり、自由になれる。自由になれると人はより生産的になれる。好きなことに集中できる」と話す。
ただ、政府の最大の目的だった雇用への効果は思うように計れなかったようだ。17年11月~18年10月の1年間に働いた日数は、BIのグループが平均78日間と、比較グループより6日間多かった。BIグループでもとくに子どもがいる人や、フィンランド語やスウェーデン語以外の言葉を母語とする人では平均13日多く働いたという結果が出た。しかし、政府は18年から失業給付の条件などを変えたため、BIを受けていない比較グループの求職活動などに影響を及ぼした可能性があり、純粋なBIの効果を計るのが難しくなったという。調査グループは、調査結果の発表文で「結局、雇用への効果は小さかった」との見解を示した。
今回の結果は、BIをめぐる議論にどう影響するのか。
ヘルシンキ大のヘイッキ・ヒイラモ教授(社会政策)は「雇用への影響が小さかったのは理解できる。受けてきた教育レベルから仕事を見つけるのが難しい人もいるだろうし、経済的なインセンティブを受けただけで仕事が決まるわけではない」という。
ヒイラモ教授は、実験結果データで、両グループのうち、雇用事務所のサービスを利用するために登録した人の割合に大きな差はなかった点に注目しているという。雇用事務所では求人企業や職業訓練プログラムの紹介などをしている。「BIを受けていても、家でただ座っているのではなく、政府の雇用支援策を利用して自分の状況を改善しようとしている。実験でわかったのは、人間は怠け者ではないということと、雇用事務所のサービスが役に立っているということだ」と話す。
ただ、ヒイラモ教授はフィンランドでの今後のBI導入には懐疑的だ。「社会のセーフティーネットが弱く、多くの人が困窮している国ならBIは効率的な政策になるかもしれないが、社会保障が充実しているフィンランドではBIは第一の選択肢にはならないだろう」と話した。
BIに詳しい同志社大学の山森亮教授(社会政策)は今回の実験結果について「BIにとって、かなりポジティブだ」と受け止める。「失業手当を受給している人への冷たいまなざしや偏見は多くの社会にあり、何か条件をつけて監視しないと怠けてしまうという見方がある。しかし、6日間でもBIを受けた人の方が多く働いたという点をとっても、フィンランドの失業者にはそうした事実は当たらないということが言える」と話す。賛否があるBI導入の反対理由の一つに「政府が自動的にお金を配れば人間は働かずに怠けるだけ」という声があるが、「今回の実証実験はそうした見方への反証になる」とみている。
新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、都市封鎖(ロックダウン)などで働けない人が増える中、欧州ではBIへの関心が高まっている。欧州メディアによると、スペイン政府は、所得が低い層に対し、BIに近い形で毎月、最低で約460ユーロ(約5万5千円)の給付が計画されているという。
山森教授は、BIへの関心が集まる背景について「新型コロナの影響で生活に困っている人には緊急にお金をわたす必要があるが、政府が困っている人を選別するのは非常に大変で時間がかかる。無条件にお金を配るBIという形であれば、そうした時間が大幅に短縮できる」と話す。
新型コロナの感染が今後、第2波、第3波と再び広がり、多くの人が働けない状況が続けば、BIへの注目がさらに高まりそうだ。たとえば、休業前の所得をベースに補償する国があるが、休業前の所得の差が補償額の違いに出てくる。所得が元々少ない人は給付される金額も少なく、休業前の所得を証明するのが難しい一時的な仕事についている人は補償を受けられない可能性もあり、結果的にさらに格差を広げかねない。
山森教授は「コロナ前の所得をベースとする給付では、既存の不平等がコロナ危機下の補償でも再生産される。BI的な形での補償の方が、より脆弱な立場にいる人を手厚く助けられるという考えからBIの議論が出てくる可能性がある」と話す。
これまで広がっていた格差が新型コロナでさらに拡大しかねない状況にどう対応するのかは今後の大きな課題だ。財源を含めて課題も多いBIだが、フィンランドの実験結果を踏まえ、ポストコロナの社会政策の選択肢の一つとして本格的な議論を始める時期に来ているのかも知れない。