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マトリョーシカと機関銃 武器産業の聖地イジェフスクを訪ねて ロシアの街物語(6)

迷宮ロシアをさまよう
この街では、マトリョーシカだって武装する。イジェフスクの土産物売り場にて(高かったので購入は断念)。なお、正確に言えば、このマトリョーシカが手にしているのは機関銃ではなく自動小銃と思われるが、タイトルはシャレなので、ご容赦を(撮影:服部倫卓、以下同様)
この街では、マトリョーシカだって武装する。イジェフスクの土産物売り場にて(高かったので購入は断念)。なお、正確に言えば、このマトリョーシカが手にしているのは機関銃ではなく自動小銃と思われるが、タイトルはシャレなので、ご容赦を(撮影:服部倫卓、以下同様)

ウドムルト共和国とイジェフスク市

ロシアの内陸部、ボルガ川とウラル山脈に挟まれたあたりに、ウドムルト共和国という少数民族地域があります。ウドムルト人というのは、フィン・ウゴル系の民族であり、以前「無名なサランスクがサッカーW杯会場を勝ち取ったわけ」の回で紹介したモルドビア人と同系統の民族ということになります。

ただ、ロシアの少数民族地域にはありがちなことですが、ウドムルト共和国における多数派はロシア人の62.2%であり、ウドムルト人は28.0%と少数派です。共和国首都のイジェフスク市に限ると、ロシア人68.8%、ウドムルト人14.8%と、後者の影がより一層薄くなります。また、ウドムルト人であっても、都市部ではロシア人と混血した人が多く、純粋なウドムルト人には農村くらいでしか出会えないようです。私がイジェフスクを訪問した際には、「この人はウドムルト人だな」と思えるような顔立ちは、ついぞ見かけませんでした。

イジェフスクにはウドムルト語劇場やウドムルト民族料理店などがあるので、民族共和国であることはかろうじて感じ取れるものの、全体に民族色は希薄で、ロシアの普通の地方都市だなというのが、偽らざる印象でした。

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「バブロバヤ・ドリナ」というウドムルト民族料理店で供されたソーセージ。店の名前は「ビーバーの谷」という意味。ロシアではビーバーは食用にもなるが、はてこれは何の肉だったのか。

武器推しの街

イジェフスクの土産物売り場などを覗いてみると、プッシュされているのはウドムルトの民芸品などよりも、武器産業に関連したグッズです。それもこれも、イジェフスクが世界的に有名な自動小銃「カラシニコフ」の故郷であるからに他なりません。

ここで、イジェフスクの街の歴史を概観してみましょう。当地には以前から先住民の集落はありましたが、製鉄所の建設が始まった1760年から、ロシアの街として本格的な発展の道を歩むようになります。ロシアのウラル地方には、金属工場の建設が街の誕生に繋がった例が多く見られますけど、イジェフスクはまさにそのパターン。なお、イジェフスクという地名は、イジ川のほとりの街という意味です。

19世紀初頭、帝政ロシアはナポレオン率いるフランスと敵対するに至り、ナポレオン軍の脅威の及ばない内陸部に火器生産工場を建設する必要に迫られました。皇帝アレクサンドル1世は1807年、ウラル地方の製鉄工場を統括していたアンドレイ・デリャービンに、イジェフスク製鉄所を基盤に火器を生産する官営工場を建設することを命じます。これが、今日に至るイジェフスクの武器産業の始まりでした。

官営工場はソ連時代には「イジェフスク機械工場/イジマシ」と名前を変え、また街にはその他の軍需工場も誕生。第二次大戦中には、イジェフスクは実に1,250万丁もの火器を送り出したといいます。

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土産物売り場は、「イジェフスク ロシアの武器の首都」と堂々と謳っている

自動小銃「カラシニコフ」の誕生

このように、火器の有力な生産地だったイジェフスクは、戦後になると、自動小銃「AK-47」、通称「カラシニコフ」を生み出した街として、世界的に知られるようになりました。

AK-47を設計したミハイル・カラシニコフ氏(1919~2013年)は、シベリアの生まれであり、もともとはイジェフスクとは縁もゆかりもない人物です。幼い頃からモノを作るのが好きだったというカラシニコフ氏は、1938年に赤軍(ソ連軍)に入隊すると、火器の技術的改良に関するアイディアを出すようになりました。1941年6月にソ連とナチス・ドイツの戦火が開かれると、前線に送られたカラシニコフ氏は、敵の砲弾で重傷を負います。カラシニコフ氏が火器開発の技術者としての道を歩み始めたきっかけの一つは、この時の経験でソ連軍の装備の遅れを痛感したことにあったようです。

カラシニコフ氏は終戦直後の1946年、全自動発射可能な自動小銃を設計し、1948年に同氏がイジェフスクに派遣され、その小銃がイジェフスク機械工場で量産されることになりました。AK-47、カラシニコフ小銃の誕生です。その特徴は、シンプルで耐久性に優れ、量産も容易であったこと。操作やメンテナンスが簡単なため、特別な訓練を受けていないゲリラ兵や、女性や子供でもすぐに扱えるようになる武器でした。AK-47とその派生品は、ソ連/ロシア本国はもちろん、他国でもライセンス生産され、つごう1億丁以上が世に出たと言われています。

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イジマシ博物館のミハイル・カラシニコフ氏に関する展示

進む偶像化と観光資源化

カラシニコフは2013年12月13日に亡くなり、94年の長い生涯を閉じました。もちろん、彼はソ連時代から広く尊敬されており、「社会主義労働英雄」の称号を2度にわたり与えられています。

ただ、最晩年になってから、プーチン政権下で、カラシニコフ氏がロシアの英雄として持ち上げられる機会が、再び増えたような印象があります。2004年には、イジェフスク市内に「ミハイル・カラシニコフ記念火器博物館」がオープン。2009年には「ロシア連邦英雄」の称号も授かりました。

一方、2013年には、イジェフスクにある火器メーカーを束ねる形で、コンツェルン「カラシニコフ」が創設されました。実は、イジマシは販売不振から経営難に陥り、2011年から破産手続きが開始されました。工場の設備・人員と、世界的に有名なカラシニコフというブランドを守るために、国策企業の「ロステフ」の主導により、新たにコンツェルン「カラシニコフ」が創設されたものです。

私の印象では、それ以来、カラシニコフというブランドが耳目に触れる機会が増えている気がします。カラシニコフというブランドを冠したノベルティグッズなども盛んに作られるようになり、イジェフスクという街は完全に「カラシニコフ」で街興しをしようとしています。また、一時期は、モスクワの空の玄関口であるシェレメチェボ空港にも、コンツェルン「カラシニコフ」の直営店がありました。小銃らしきものも売られていましたが、あれはモデルガンだったのか、エアガンか何かだったのか、はたまたガチの銃だったのか(まさか)? いずれにしても、空港には甚だ不向きなショップであり、この10月に見に行ったらすでに閉店していました。

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コンツェルン「カラシニコフ」の外観。個人的に、ロシアの工場の写真を撮る時は常に、「守衛に見付かって怒られたらどうしよう」とビクビクしているが、この時は「狙撃されるかもしれない」という妄想も加わった

一生分の銃を1日で見る

イジェフスク市内には、AK-47をはじめとする銃の数々を見学できる施設が、2箇所あります。一つは、イジマシ博物館であり、とにかく大量の銃が展示されていて、圧倒されます。もう一つは、上述の2004年に誕生したミハイル・カラシニコフ記念火器博物館で、こちらの方はカラシニコフ氏の生涯と重ね合わせながら銃開発の歴史を紹介するような趣向となっています。この2つの博物館を見学し終えて、私は「もう一生分の銃を見た」と感じました。

印象的だったのは、ミハイル・カラシニコフ記念火器博物館には、子供たちのグループが多く訪れていたことです。日本で、子供たちを戦争関連の博物館に連れて行くとすれば、戦争の悲惨さを教え、我が国が二度と愚行を繰り返さないようにすることが目的になるのではないでしょうか。武器そのものや、その開発者を紹介することに主眼がある博物館に子供を連れて行くとなれば、眉をひそめる人も多いのではないかと思います。

むろん、自衛のためにも武器は必要であり、武器そのものを邪なものと見がちな日本人の方が、世界の中では少数派なのでしょう。しかし、かく言う私も戦後の民主主義教育をどっぷりと浴びて育った一人であり、「武器と子供」という取り合わせに本能的な嫌悪感を抱いてしまいます。平和ボケと言われようが何と言われようが、私はAK-47ではなくAKB48の国に生まれたことを幸せに感じます。

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屈託のない笑顔で記念写真に納まる子供たち。ミハイル・カラシニコフ記念火器博物館にて