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大統領も、議会も、司法も……信頼を失う民主主義、アメリカはどこへ

ことばで見る政治の世界 更新日: 公開日:
9月4日、米上院公聴会で証言するカバノー氏=ランハム裕子撮影

■政党を超えたユーモアがあった時代

1981330日、ワシントン市内のホテルでの講演を終えたレーガン大統領(共和党)は、大統領専用車に向かう途中、精神疾患のある男に狙撃された。当初は無傷だと思われたが、車内でレーガンが吐血し、胸部の出血が判明したため、近くの大学病院に運び込まれる。発射された6発の弾丸のうち、1発が心臓近くの肺の奥にとどまっていることが判明した。

現職大統領の狙撃である。だれもが18年前のケネディ暗殺を思い出した。

しかし、撃たれたレーガンの意識は明瞭で、手術直前、執刀する外科医に対して話しかけた。

「あなたが共和党員だといいのだがね」

その外科医は、実は民主党員だったのだが、こう返答した。

「ミスター・プレジデント、きょう1日は、我々はみな共和党員です」

 

危機にもユーモアを忘れないレーガンの資質を表すエピソードで、この事件がひとつのきっかけになり、世論調査の支持率も向上した。「レーガン・デモクラット」と言われる、民主党員だけど大統領選だけはレーガンに投票するという層も現れ、大衆的人気の高い大統領となった。だが、エピソードが示しているのは、レーガン個人の機知だけではない。ユーモアを語り、楽しむだけの、政党の壁を越えた言論空間がかつて存在していたのだ。 

日の出山荘にレーガン大統領とナンシー夫人を招き日本酒の酌をしてもてなす中曽根康弘首相=1983年11月11日、代表撮影

この1カ月、ワシントンから伝えられるニュースは、レーガン時代とはまったく異なるアメリカを映し出している。

■ 醜さを露呈した議会

連邦最高裁判事の任命をめぐって、共和・民主両党は史上例をみない醜い党派争いを繰り広げた。トランプ大統領が指名した保守派のカバノー氏をめぐって、高校生時代に女性に乱暴したのではないかとの疑惑が浮上した。女性本人が、上院司法委員会で証言、それに対してカバノー氏が、でっち上げの政治的陰謀だと激昂して、民主党の委員たちを面前でなじったのである。結局、連邦捜査局(FBI)によるわずか1週間の追加調査を経て、上院は5048の僅差でカバノー氏の就任を承認した。

9月27日、米上院の公聴会で証言するクリスティン・フォードさん=ロイター。1982年にカバノー氏に性的暴行を受けたと訴え出た

委員会の審理では、事件の真実を確かめようという努力も、政治的に中立であるべき最高裁判事の資質をめぐる議論も、きわめて不十分であった。そこにあったのは、自分たちが信じたいものだけを信じ、反対派の言い分を一切認めない二元論的で敵対的な政治観である。

 

思い起こせば、20171月の大統領就任式での聴衆の規模をめぐって、トランプのホワイトハウスが、「もうひとつの事実(alternative fact)」があると言い張ったときに源流があるかもしれない。立場によって、複数の事実が存在するなどと言い出したら、異なる意見の調整を目指す民主主義の議論は成り立ちようがない。トランプは就任以来、アメリカ第一主義を主張、移民攻撃を続け、自分の基盤である保守層の怒りをあおりたて続けている。保守とリベラルの間の対立は、沸点を通り越してしまった。民主主義の仕組みや制度に対する、アメリカ国民のトラスト(信頼)はもはや回復不能なほど失われている。

 

かつて、ウォーターゲート事件というアメリカを震撼させた事件があった。ワシントンのウオーターゲート・ビルにあった民主党全国本部に5人の男が盗聴器をしかけようとして、侵入したところを逮捕された。やがて、事件へのホワイトハウスの関与が明るみに出る。共和党のニクソン大統領(任期は1969年~74年)は、事件をもみ消そうとしたが、徐々に追い込まれ、最後は議会による弾劾が避けられなくなって辞任に追い込まれた。アメリカの民主主義が危機に直面した際、自浄能力を発揮した優れた事例である。

 

辞任表明後、ホワイトハウスのスタッフに別れを告げるニクソン大統領=1974年8月9日、ロイター

■失われた「3つの信頼」

そこには、民主主義をめぐる3つの「トラスト(信頼)」があったと言われる。

ひとつは、行政府を監視する議会に対する信頼だ。与党の共和党議員の間にも、帝王的にふるまうニクソン大統領は危険だという、党派的利害を超えた認識が共有されていた。与党執行部が大統領を見限ったからこそ、任期途中での大統領辞任という道が開かれたのである。

ふたつ目の信頼は、メディアが真実を伝えているという人々の信頼である。当初は単なる事務所荒らしだと思われた事案を、執拗に追い続けたワシントンポスト紙の調査報道が、「大統領の陰謀」を暴いた。そして新聞の記事を、多くの人々が事実だと信じたから、その後の展開があった。都合の悪い情報を「フェイク・ニュース」と呼び、メディアを信じない大衆がいたら、事件は成り立たなかっただろう。

そうして最後の信頼は、司法、とくに連邦最高裁が政治を超えた立場から、国益を判断するという信頼である。ウォーターゲート事件のクライマックスは1974724日の最高裁判決だった。人一倍猜疑心の強かったニクソンは執務室内の会話を録音していた。テープの内容は大統領の関与を示す決定的証拠になりうる。大統領はテープの提出を拒否し、そのことが最高裁で争われたのだった。このときの最高裁判事9人のうち4人はニクソン大統領が指名した保守派だった。しかし、政権内の人物と個人的関係があるとして審理に加わらなかったひとりをのぞく8人が全員一致で、テープ提出を命令したのである。のちに明らかになったことであるが、最高裁のバーガー長官は、第1回公判の翌日に判事団を長官室に呼んで、話し合いを持っていた。その場で「国家の利益、司法の利益は全員一致で判決を下すことによってのみ救われると思う」と述べ、他の7人も異存がなかったという。判決の16日後の8月9日、ニクソンは大統領を辞任し、ホワイトハウスを去った。

10月6日、ワシントンの米最高裁前でカバノー氏の判事承認に反対する人々=ランハム裕子撮影

トランプの時代の最高裁に、こうした政治を超えた判断が期待できるだろうか。むしろ、今回の承認をめぐる争いで明らかになったように、判事選びがここまで政治化してしまった最高裁に、党派を超えた判決が期待できるか大いに疑問である。

 

むき出しの権力闘争は、11月の中間選挙、さらには2年後の大統領選で決着を求められるであろう。しかし、以上の3つの「信頼」が失われたアメリカ政治が、どうやって本来の機能を回復することができるのだろうか。視界は不透明なままだ。

冒頭の政治におけるユーモアの話に戻ると、そもそも、ユーモアが楽しめるのは、真実が何かについて人々が共通認識を持っているからだろう。真実とのずれがユーモアを生む。フェイク・ニュースがはびこる時代には、ユーモアが存在する空間すらないのかもしれない。