インドネシアのバリ島、デンパサール国際空港から車で北に1時間半。ウブドの村は、熱帯雨林の緑に覆われていた。おおまかな地図しか手元になく、不安げに電話すると、成瀬潔さん(68)は、笑いながら出迎えてくれた。「番地なんか無いんですよ、ここは。田んぼのなかで」。バナナの木が生い茂る1000坪の借地の一角に、成瀬さんの工房はあった。
敷地に踏み入れると、切り株のような緑色の幹が並んでいた。「バナナの茎です。木ではなくて、1年草なんですね。実がなった後のバナナの茎を、紙を作る材料にしています」。
偽茎(ぎけい)と呼ばれる外側の皮を、タマネギをむくようにはいで、使う。
工房に進むと、色々な音が聞こえてきた。バナナの茎を、ジャコリ、ジャコリと細かく切断している。大きな鍋に入れてグツグツと煮ること数時間。青々しかった茎は、アクが出て、おでんのように茶色い。水洗いしてから、ブレンダーにギュルギュルとかける。「打つ行程。繊維が柔らかくなります」。さらに水洗いした繊維を成瀬さんが手に取る。とげとげしく硬かった繊維が、ねっとりと、しなっていた。
糸を張った木枠に水をはり、手や指を使って、ピチャピチャと、繊維をほぐしながら均等に広げていく。こうやって紙を作る方法を「溜め漉き」(ためすき)と言うそうだ。一本一本の繊維が目に見え、とてもきめ細かだ。
バナナの茎を再生して作るバナナペーパーは、完全エコな工芸品だ。長い紙だと、7メートルの受注が一番多い。破れたらまた作ればいい、というほど確かな技が身についた。「実はうちには20メートルの紙があって、ギネスの記録を超えているんですよ。需要はないけれど」。成瀬さんは、出来上がった紙をなでながら教えてくれた。
最も多い用途は、インテリアデザインだ。ホテルや飲食店内のパーティションとして使われるほか、照明の傘としても人気だ。光を当ると、自然な風合いが透けて見える。
バリ在住者だけでなく、アジアや南米、欧州から、うわさを聞きつけて、デザイナーや建築家らが求めに来る。工房のウェブサイトもなければ、営業もしない、広告もない。口コミだけの広がりに、成瀬さん自身も驚く。「バリならでは。自分のスキルや運だけでなく、国際リゾート地が持っている付加価値のサポートは大きい」と、魅力をかみしめるように語った。
バリとの出会いは1992年、41歳のころ。フリーの出版編集者としての「渡バリ」は、人生初の海外旅行だった。
ウブドに3泊したときのことだ。当時は車もバイクもほとんど走っておらず、道の真ん中を若い女性がゆっくりと歩いていた。民族衣装のブラウス「クバヤ」を羽織り、腰にサロンを巻き、頭の上にはお供え物。チャーターした車の運転手が、クラクションを鳴らした。すると、女性はこちらを振り向き、予想に反して、ニコっと笑って道を譲った。ゆったりとおおらかな振る舞いにカルチャーショックを受け、感動した。
地域の火葬儀礼にも参加した。祭りのように、みんな笑顔をたやさない。燃える遺体を前に酒をくみ交わし、死を悲しみで見送らない。ジメジメしない様子に、また衝撃を受けた。
バリでは、見たことがない別の天地にいる感覚があった。「こんな風に生きていいんだ」。日本での切羽詰まったような生き方から解放され、バリに恋をした。
95年3月。4度目のバリ旅行から東京に戻ると、間もなく地下鉄サリン事件が起きた。閉そく的で落ち着かない社会で暮らし、日本にいるのが嫌になった。
「社会的にドロップアウトした人間」と自嘲する成瀬さん。会社員生活が続いたのは、わずか3カ月。昔から本を読むのが好きで、編集プロダクションや出版社を渡り歩いた。だが、ボタンの掛け違えで、これは自分の仕事ではないとも感じていた。
若くして父を亡くしたことも、その思いを後押しした。人はいつか死ぬ、という当たり前の事実。場違いなところで、場違いな人生を送るのは、もうやめよう。人生の行き場として頭に浮かんだのは、恋したバリだった。
サリン事件から2カ月後、東京のアパートを出てバリに渡った。日本語教室での仕事を見つけ、飛びついた。友人からの借金を元手に、銀行の利子で食いつないだ。「独り身の強さ」と振り返る。
だが、数年後、アジア通貨危機でルピア建ての貯金の価値が、一気に5分の1まで目減りした。出稼ぎに帰国したが、オフィスのいすに座っていられない。もう日本には住めない。傷心でバリに再び戻った。
その頃、知り合いから、バナナペーパーの作り方を耳にした。金はないが、時間はある。繊維を煮た時間や、うすを自らついた時間などを記録に取って研究を重ねた。自分の手触りで試行錯誤したので、用途はピンときた。「これは書くための紙ではなく、自然素材を生かしたインテリアしかない」。そうして半年ぐらい続けていると、うわさを聞きつけて、上海やシンガポールから訪問客が来るようになり、より手応えを感じた。
その後、立ち上げた会社をビジネスパートナーに奪われて無一文になったり、借金を抱える生活を経験したりもした。だが、紙作りは続けた。「ホビーですね。飽きないから、やってこられた」。次第に大きな仕事も入るようになる。2000年代からは、生活様式を最小限度に突き詰める「ミニマリズム」のブームがインドネシアでも起き、追い風となった。
いまは現地スタッフ7人とともに、工房を切り盛りする成瀬さん。「展望? 暗いですね」。次第にコスト高になり、利益は縮む。最近、大きなプロジェクトの受注に、サイズが不一致という痛恨のミスもした。「この失敗が、人生リセットの機会になるかもしれない。でも、それがイッツ・ライフかな」。そう言って、明るく笑ってみせた。