オランダへ渡った仁王像の記憶 消えた「村の宝」と受け継がれた奥出雲の人々の祈り
岩屋寺の創建は8世紀中頃と伝えられているが、その起源を見るなら時代は更にさかのぼる。仁王像を所蔵するアムステルダム国立美術館のキュレーター、メノー・フィツキさんはそう考えていた。
巨石が点在する岩屋寺山は、いにしえから磐座(いわくら)信仰(註釈:古代の日本から続く、巨大な岩や石を神の宿る場所〈依り代〉として崇拝する自然信仰〈アニミズム〉のこと)の場であったと考えられ、山の斜面からは寺創建以前の人骨や埋葬品が多く見つかっている。
多くの日本の寺がそうであるように、岩屋寺もまた、すでに霊地として畏(おそ)れられていた土地の神聖性そのものに起源があるというのだ。
本堂の横を下ると、花崗岩(かこうがん)の侵食でできた「岩屋寺の切開(きりあけ)」という地形がある。大きな岩がぱっかりと割れた小さな渓谷で、国の天然記念物に指定されている。
寺の上にある巨岩「鬼岩」の足下には小さな祠(ほこら)が置かれ、参道に点在する岩のくぼみには、赤い前掛けの地蔵が並ぶ。かつて修験の場だった名残か、美しい梵字(ぼんじ)が刻まれた巨岩もある。そのどれもが、人と自然と信仰が地続きの世界を成す風景に見える。
そんな岩屋寺山に再び祈禱(きとう)の声が戻ったのは、2024年4月19日。
ブルー仁王を恒久的に安置するための「仁王門プロジェクト」の一環として、まだ門の再建計画が進んでいた時のことだ。
翌日の門の解体を前に、閉眼供養が行われた。
両手で押せば倒れそうなほど傾いた門は足場で覆われ、その前の祭壇には供物や香炉、燭台(しょくだい)が並んだ。
供養を執り行ったのは、奥出雲町にある日蓮宗南枝寺(なんしじ)の住職。プロジェクトを主導してきたオランダ人彫刻家イェッケ・ファン・ローンさんを始め、作業を請け負う建設会社の社長や地元の大工、プロジェクトの支援者たち、そして地元の長老・森山成夫さんほか十数人の町民が参列した。
解体作業には、卒業制作として仁王門再建に協力していた京都建築専門学校の学生たちも参加した。長年文化財の修復を手がけてきたベテラン宮大工の山口保広さんの姿もあった。
この八脚門(はっきゃくもん)の解体が始まると、部材はクレーンで参道に下ろされ、再利用できるものと破棄するものとに分別された。
腐朽しきって土のようになった部材の内側をポロポロと指で砕きながら、「再建に使える部材はほとんどなさそうですね」という山口さんの言葉通り、破棄されるものばかりが高く積み上がっていった。
山口さんによれば、この仁王門が建てられたのは江戸時代の後半から末期。細部の装飾がその時代の典型だと言う。
部材は松だ。仁王像が14世紀初頭に作られていることを考えると、門はおそらく戦や災害などで何度も焼け落ち、そして再建されていただろうと言う。
少なくとも160年はそこに建ち続けていた仁王門は、半日ほどで姿を消した。
少ないと思われていた再利用のための部材だが、学生たちの丁寧な作業で多くが救出された。門の再建が白紙になったことを受けて、それらは美しい茶室として作り替えられ、ブルー仁王と共に大阪・関西万博で展示された。
戦後しばらくして財政が困窮していくと、寺は文化財級の仏像や絵図を次々と売却した。そして昭和50年前後には参道に立つ仁王さんまでもが姿を消し、「二束三文で売り払われた」といううわさが広まると、地元の人々は、名高い古刹(こさつ)の末路を冷めた目で受け止めた。
仁王像に対する喪失感が言葉にされるようになったのは、2007年にオランダの美術館が2億円で買っていたことが知られてからのことだ。地元の「仁王さん」に思いもよらない高値がついたことに、人々は驚いた。
奥出雲町議会でも、像の返還を求める声が上がっていたことが、議事録に残っている。
森山さんが、仁王像がオランダに渡ったことを知ったのは2008年か2009年。
「なんだか、仁王さんがあの世に行ってしまったという感じがしましたよ」
たとえ奥出雲から流出したとしても、せめて日本のどこかの立派な美術館が大切にしてくれているならまだしもと思えた。せっかくの文化財が、外国の、もう完全に手も届かないところへ行ってしまったと思うと、残念で仕方がなかったという。
こんな風に、かげりばかりが語られてきた岩屋寺だが、長老たちの記憶の中には、それが誇らしく、親しみのある存在であった時代の様子も深々と刻まれている。
1933年生まれで、岩屋寺周辺は子供時代の遊び場だったという山本俊雄さんは、よく寺の下の森で江戸時代の小銭を見つけていた。
「嵐でさい銭箱が吹き飛ばされた時に、あたりにばらまかれてしまったんだろう」
そしてコインを指でつまむしぐさで、「ほらまた見つけた!って具合にね」と満面の笑みでその時の高揚感を再現してくれた。
現役時代には役場で働いていた1949年生まれの柴田晶夫さんは、ブルー仁王制作のための絵付けワークショップに参加した後、イェッケさんのよき理解者としてプロジェクトを支援し続けていた。
「私は岩屋寺がある馬場地区からは離れた地区に住んでいましたから、馬場の子供たちと遊ぶことも岩屋寺に行くこともあんまりなかった。でも岩屋寺や仁王さんのことは、うちの地区でもみんなが知っていました」
花祭りの思い出話は、当時の時代背景も物語る。
「昔はね、4月8日には岩屋寺でお釈迦さんの誕生日を祝う祭りがありました。そこでは甘茶が振る舞われたんですよ。当時は甘い物なんてなかった貧しい時代だから、甘いものが欲しくてね。橋を渡ってずっと先まで行って、仁王門を通って寺に行くんだけども、小さい頃だから大きい仁王さんが怖くて怖くて。それでも甘茶のために、目をつぶってワァーッとその間を駆け抜けましたよ(笑)」
ワークショップに参加した理由については、こんな風に話してくれた。
「みんなで等身大の仁王像を描くという絵付けワークショップの話を聞いた時、それ自体に対する興味よりも“等身大”という言葉に引かれた。子供の時はものすごく大きく見えた仁王さんだけど、どれくらいの大きさなのか確かめたくてね」
2.3メートルほどの“等身大”。それは大人になった今も、やはり大きく見えた。
1926年、つまり大正15年生まれの小桜富栄さんは、森山さんの姉だ。
「もう二度と見られないと思うと、そりゃあ寂しいです。もう日本には戻れんのかと思うと、涙が出ますよ」とハンカチを目に当てて仁王さんの思い出話をしてくれた。
「小さい頃はねぇ、悪いことをすると仁王さんに怒られるよ、って親から叱られたもんですよ。ほんに怖い顔してましたからねぇ、子供はみんな怖がってましたよ」と土地の言葉の、穏やかな口調で語る。
毎年3月21日に行われていた、弘法さんの祭りのこともよく覚えていた。
「寺の横に東屋があって、そこに五色の旗が飾られてね。小学校から帰ると下からそれが見えて、友達と一緒に参ったことがあぁですよ。ほんににぎやかで、楽しかったです」
その日は、数えで二歳になる子供の健康な成長を祈願する、「二歳児参り」の日でもあったという。
「若いお母さんたちが子供を背負って、みんなで弘法さんを参っていました」
地域で唯一の真言宗の寺であり、修験の場として栄えた岩屋寺に根付く弘法信仰は、檀家(だんか)や宗派を超えて、地域にとって重要な役割を果たしていた。
奥出雲には元気なお年寄りが多いと感じていたが、富栄さんは格別だった。
99歳とは思えぬしっかりとした足取りで、話の合間に何度も台所と居間を行き来し、その度にタケノコや山菜の煮付け、梅を煮たものなどを運んでちゃぶ台に並べてくれた。姉に会うのは久しぶりという森山さんと一緒に舌鼓を打ちながら、富栄さんの話に耳を傾けた。
イェッケさんのブルー仁王のことを森山さんが説明すると、「あらぁ、オランダから。それはすごいわねぇ」と言った後、「でもねぇ、仁王さんは木でできてました。瀬戸物じゃあ、本物の仁王さんとは違いますわねぇ」と言った。
「でもみんなで作ってね、きれいな仁王さんだよ」という弟の言葉に、そう?とつぶやいて口をつぐんだ。
その沈黙を受けるように、森山さんが岩屋寺の「遷宮」を手伝った時のことを語り始めた。
昭和25年前後のこと。季節は確か春か秋で、穏やかな気候だった。本堂の屋根を張り替えるにあたり、全ての仏像の閉眼供養をしたあとに一時的に宝物殿に移すという、工事期間のための遷座だ。
理由はわからないが、一連の儀式は、夜、真っ暗になってから行われたという。
戸を開け放った本堂のあかりがあたりを照らす様子が「ムード満点だった」と笑いながら、森山さんは、10代の頃の記憶を一生懸命にたぐり寄せた。
祭壇に向かって供養をする和尚の後ろには、10人ほどの檀家が並び、皆で祈った。
全ての仏像から魂が抜かれると、森山さんら2,3人の若い男衆が、それらを一つずつ白布にくるんで本堂から数十メートル下った宝物殿に納めていった。
生い茂る木々の根が盛り上がる小道を、ちょうちんだったか懐中電灯だったかで足下を照らしながらつまずかないように慎重に歩いた。そうして何往復もしている間、和尚はずっと、「オンコロコロセンダリマトウギソワカ・・・・」と真言を唱え続けていた。
ほぼ一晩がかりの遷宮だったという森山さんの話は、昔の岩屋寺の様子を、まるで映画の一場面のようによみがえらせた。
それに昔はねぇ、と続けた。
「このへんの小学生は、2年生になるとみんな遠足で岩屋寺に行きました。宗教には全く関係なく、子供たちを名所に連れて行くということでね。ここらにはお寺はたくさんありますけど、岩屋寺は別格。寺の上にある鬼岩からの眺めは素晴らしいし、その奥には天然記念物の切開もある。子供の頃からそりゃあ地元自慢の場所でした」
子供たちにとって、そして子を持つ親にとって、岩屋寺は長い間地元の暮らしの一部だったことを、皆の話は浮き彫りにする。
そして、その参道を守っていた仁王像は、寺の番人であると同時に、畏れられながらも愛され続けた地域の象徴でもあった。