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李禹煥(リウファン)さんが語る芸術とAI 答えでなく、考えるきっかけを提供したい

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李禹煥(リウファン)さん
李禹煥(リウファン)さん=2024年3月27日、パリのアトリエ、筆者撮影

現代アートは難解だ。

何をどう見ていいのかよくわからない。

そんな苦手意識からこの分野の芸術を敬遠しているのは、筆者だけではないはずだ。

「今回は、深く考える必要のない、難しい説明はいらない展覧会にしました」とは、アムステルダム国立美術館の庭園で開催されている「李禹煥展」のオープニングで、李禹煥さん本人が語った言葉だ。

同展は、この現代アートの巨匠にとって、オランダ初となるソロエキシビション。「Relatum(関係項)」というタイトルの彫刻シリーズの中から、自然石を鉄やスチールなどの工業的な素材と組み合わせた7点が展示されている。

「原始的でありながら現代的でもあり、無限へとつながる時間の面白さ、喜び、素晴らしさを表現できるものを集めました。このオープンな作りの庭園に作品を置くことで、時空を超えた別次元の空間として見せることができればいいなぁと思いました」

鏡のように加工した長いステンレスの径の中央両脇に、ふたつの自然石が向かい合う作品「Relatum―Skywalker(関係項―スカイウォーカー)」もそんな展示作品のひとつだ。鏡に映し出される赤レンガの美術館建築やオランダの空模様も作品の要素に取り込まれ、その上を歩く自分と鏡中の世界とが一体になった空中散歩の気分。じっとたたずむ自然石の姿が、現実世界と鏡中に広がる別世界とのゲートキーパーのように見えてくる。

アムステルダム国立美術館の「李禹煥(リウファン)展」
アムステルダム国立美術館の「李禹煥(リウファン)展」=2024年5月28日、筆者撮影

「僕の作品は、自分のメッセージとかエゴを表現するのではなく、その場の力や場にある出来事、時間、あるいはもっと大きなものからのぞき見えてくるものをつくるものです。作品はそのための契機であって、作品だけを見せるのではない。そしてそういったことから、日常から非日常へと感覚を開かせていくこと、普段は見えないことや聞こえないことに気づく場を作ることが、僕たちアーティストができることだと思います」 

1960年代後半から70年代初頭にかけて、哲学者でもある李さんがその論理展開の支柱となり牽引した芸術運動「もの派」は、「作ること」に異議を申し立て、石や木、鉄などの素材にほとんど手を加えずに、もののありようや、それが置かれた場とじかに対話することを試みた芸術運動だ。

李さんは、現在も自然石や鉄を頻繁に素材に選ぶ。作品は、外の世界と内の世界が対話する場だという芸術観は、始点となるもの派の哲学を長い年月をかけて熟成させ、更に進化させていったものと言えるだろう。

人間中心主義に基づく近代的な思考形態を批判したミシェル・フーコーの著書「言葉と物」を引用して、李さんはインタビューや著書の中でしばしばこんな説明をしている。

「従来の物は表象で包まれていた。だがそれが、表象とものに分離されると、物を捉えることができなくなる。表象に包まれない物は、えたいがわからない、奇妙で曖昧な存在として映る。そんな風に概念に収まらなくなった物を扱いながら、場所や空間と直接対話するところから出発したのが、もの派だ」

それは既存の芸術の枠組みを壊し、大きな影響力を持った。

作品はもちろん、その哲学やアプローチは、視覚芸術の分野を超えて広い分野の人々にインスピレーションを与えた。故坂本龍一さんが晩年、李さんを「先生」と慕い、もの派のごとく音楽を追究したのはよく知られた話である。

アムステルダム国立美術館の「李禹煥(リウファン)展」のオープニングセレモニーにて、参加者に自ら作品の紹介をする李さん(中央奥)
アムステルダム国立美術館の「李禹煥(リウファン)展」のオープニングセレモニーにて、参加者に自ら作品の紹介をする李さん(中央奥)=2024年5月28日、筆者撮影

もの派の誕生を考える時、切り離すことができないのが当時の時代背景である。それは、アメリカのベトナム戦争反対運動やパリの5月革命、日本の全共闘などが先進諸国の社会を根底から激しく揺さぶった激動の時代。そして、大量生産大量消費の資本主義が近代化の中でひとつの頂点に達し、解体や破壊が世界のアートシーンに広まった時代だ。

「それは、目に見えるものや蔓延する情報が怪しくなり、ものを見定めたり信じたりすることが難しくなった時代の転機でした」

そんな当時の社会の危機感は、日進月歩で進化するAIに既存の社会基盤を根底から覆され、新たな世界観なしでは先に進めない今の時代に少なからず似ている。情報が氾濫する中で、信じられるものを見定めることが困難であるという点において同様だ。

激動と混乱の中から発生したもの派の作品や哲学が強烈に示した脱構築主義的な世界観は、今の時代を生きる私たちにはどんな問いかけをするだろうか。

李禹煥(リウファン)さんがアトリエを構える歴史のあるビル
李禹煥(リウファン)さんがアトリエを構える歴史のあるビル=2024年3月27日、パリ、筆者撮影

静かなパリのアトリエで、壁中に立てかけられた絵に囲まれながら李さんはこう語った。

「現代社会は、AIの出現で、更に情報が蔓延しています。その便利さは決して否定しませんが、AIの一番困ったところは、答えだけで対処しようとする“答えの世界観”です。そして、情報が全て“答え”であるかのように蔓延して、皆がそれをうのみにすることです。疑問を持ったり、考えたり、試みるということが失われ始めています」

確かに最近の風潮には、手軽に答えを求めすぎるあまり、見聞きするものには即戦力ある有益さだけを求め、複雑な事実がわかりやすい答えに乗っ取られる傾向も見られる。その上、浮上する「疑問」も、効率よく迅速に解決すべき“滞り”のように見られ、じっくりと時間をかけてつきあうことが減った。

「忘れてはいけないのは、そもそも人間は、日々えたいのわからないナンセンスの中に投げ込まれて生きるものであるということです。生き物が生きているということは、答えではなく、疑問だらけの中を行くこと。そして、それを少しでも軽くするための行為が、作ること、見ること、考えることなんだと僕は思います。アーティストがやっているのは、何かを提示することで考えさせること。答えを表現するのではなく、考える契機や機会を提供することです」

アムステルダム国立美術館で個展の準備をする李禹煥(リウファン)さん
アムステルダム国立美術館で個展の準備をする李禹煥(リウファン)さん=2024年5月21日、筆者撮影

AIは、表現から重要なものを奪う、とも言う。

「ますます大きな存在になる中で、AIは表現にとって最も重要な三つのこと、すなわち経験、プロセス、時間の全てを奪います。そして、バーチャルな情報では伝わることのない、身体で受け取る情報や現場性といった直接経験の重要性を軽視します。だからこれからのアートは、時間、プロセス、経験を奪わない、人間として体験できることに立ち返った表現を考えることが大切だと思います。展覧会やインスタレーションといったものは、AIが軽視する、現場に立つことや直接出会うということを回帰する場でもある。そういう意味でも、情報や言葉を妄信せずに、まずは場や空間にぶつかってみるという経験から出発したもの派の試みは、今の時代、更に重要性を増していると思います」

「両義の表現」(2021年、みすず書房)という李さんの著書の中に、こんな一節があった。「最近、美術表現において、見ることを否定し読むことを強要する作品が増えつつある。その背景には、定められた情報の提示で認識を済ませたがる文明の進路への盲信があろう。(中略)それらは一見考えさせるふりしながら、すでにできあがった意識や答えに引き込む仕掛けがほとんどだ」

見る側=受け手である私たちも、AIとの付き合いが深まるにつれ、そんな“仕掛け”にのって、用意された答えに着地することで考えたつもりになることに疑問や危うさを抱かなくなりつつある。アートに向き合う時だけではなく、どんな場面の中においても……。

李禹煥(リウファン)さんのアトリエの壁中に立てかけられた絵
李禹煥(リウファン)さんのアトリエの壁中に立てかけられた絵=2024年3月27日、パリ、筆者撮影

ところで、アトリエにあった一枚の絵の裏側に、鉛筆で書かれた日本語の走り書きがあった。

「ウクライナの戦争。私の中のウクライナ戦争」

その筆跡の美しさもあったが、なぜそれがそこに書かれているのだろうかと、思わず見入ってしまった。

その走り書きと絵の間には何らかの関係があるのかと尋ねてみると、「あー、あれはね、ただの落書き」と笑われてしまった。

だが、日本占領下の韓国で生まれ、朝鮮戦争も体験している李さんにとって、戦争が全くの人ごとであるはずはなかった。

「日本が敗戦したのは、僕が小学校2年生の時でした。そのあと、朝鮮半島の戦争も目の当たりにした。そういったことを絶えず言葉にしてガーガー言うのは好きではないが、それらのことは、僕の内部でずっと沈殿されて、生き続けています」

そして、自分はそういったことを直接表現に持ち込むタイプではないと明言しながらも、それらの経験や思いが「僕のさまざまな発想の中に溶け込んで、何らかの表現の要素にはなっているだろうと思う」と言う。

既存の概念基盤への抗議の念を込めて、暴力性を帯びた表現をしていたデビュー当時とは違って、「今は有機性や安定、平和といった遙かなるものとつながるものとして制作をしている」と言う彼は、こう続けた。

「原始の時代から、人間はより遙かな大きな力に助けられたり打ちのめされたりしながら生き残ってきました。人間の存在だけでやっていけるものではないのに、今日ではそんな考えが強くなっている。それは一種の傲慢であると思います。ひとつの引力の中で存在するものとして、人類はどう生き、他の生物や無生物とどのように関連していけばよいのかと考える。宇宙のシステムや大きな意味での有機性とうまく波長を合わせて行ければいいと願う。そういったことが、最も深い意味での平和であるだろうし、それを願うことは祈りでもあります。アーティストにとっての祈りですが、それは同時に戦いでもある。不自然なものや脅威、不条理に対抗して切り開き、耕す。そのために少しでも人々を奮い立たせたり刺激したり、よい感覚に目覚めるヒントを与えたりと、一種の刺激剤であろうとする戦いです。アートはなくても生きていける。でも、それがあることで、きらっと光る瞬間が生まれ、別の次元をのぞき見ることができます。それによって自分の内面も豊かになる。人類の根底にある宇宙とつながるような共感を得たいという願望は誰にもあるはずで、僕はそのために作品を作ります」

彫刻、絵画と並んで、文章を書くことの手も止めない李さんは、多くの著書を出版している。アムステルダム国立美術館での庭園展覧会は、5月28日から10月27日までと会期が長いため、筆者は買いあさった李さんの本を1冊読破する度に展覧会に足を運んでは、新たな発見をしている。

李さんのおかげで、長年のしぶとい現代アートアレルギーから自分を解放する機会を得たこの夏、「えたいの知れないナンセンスの中で、情報や言葉に翻弄されず、場や空間に体当たりしながら異次元への扉をたたけ」というもの派的スピリッツに、日々背中を押されている。