「反核」運動から派生した森づくりの活動
――音楽家の坂本龍一さんが核兵器廃絶や脱原発を訴えて活動していたことは知られていますが、森を守る団体を自ら立ち上げて長年代表を務めていたんですね。
きっかけは、その反核運動だったそうです。
というのは2006年ごろ、青森県六ケ所村の核燃料サイクル施設(原発の使用済み核燃料の再処理工場)の本格稼働に反対しようと、教授(坂本龍一さん)が「STOP ROKKASHO(ストップ六ケ所)」というプロジェクトを始めて、その活動を広げようと、様々なクリエーターやアーティストに声をかけました。
その時に教授が発案したスローガンが「no nukes, more trees」(ノー・ニュークス、モア・トゥリーズ)だったんです。
スローガンを広める手段としてTシャツを作ったんですが、Tシャツを展示をする会場を探したところ「"more trees"はすばらしいけど、"no nukes"だと場所は貸せない」というところが多くあったそうです。
「no nukes」というと、さまざまな意見や思想があって、どうしても対立が生まれてしまいますが、「more trees」という言葉にはイデオロギーに関係なくみんなが賛同するので、ならばエネルギー問題や環境問題を考える軸足として「植林をしよう」という発想に至りました。
六ケ所村にも植林をしようと行ってみたそうですが、六ケ所村は木を植える必要もないぐらい自然豊かな村でした。そこで、もともとアンチテーゼ的だった取り組み「more trees」を「no nukes」から切り離し、森を大切にしようというポジティブなメッセージは大事にしていこうと教授が始めたのが「more trees」発足のきっかけです。2007年のことでした。
――坂本さんのことを「教授」と呼ぶんですね。
(YMOのメンバー)故高橋幸宏さんが「教授」というニックネームをつけたと言われているそうです。
僕が出会った時点で、すでに周囲の方の何人かが「教授」と呼んでいて、最初は「世界のサカモト」に、なれなれしく「教授」なんて言っていいのかなと思ったんですが、つられるように呼んでいるうちに、それをナチュラルに受け入れている風だったので、調子に乗って「教授」と呼ぶようになりました。
――坂本龍一さんに出会った2007年当時、水谷さんは東南アジアで熱帯雨林の植林事業に携わっていたそうですね。学生の頃から環境問題に関心を持っていたのでしょうか。
僕は小学6年の頃に地球環境問題に出会って関心を持つようになり、大学では環境経済学のゼミに入って、マレーシアのボルネオ島で熱帯雨林が伐採される現場を見て、植林ボランティアをしたりしました。
就職先は廃棄物問題の関わりで、水処理や廃棄物処理のプラントメーカーに就職したんですが、学生時代に行ったマレーシアのことが忘れられず、グローバルな森林問題に関わりたいと約4年後にNPOに転職しました。
NPOでは2カ月に1回くらい、インドネシアのカリマンタン(ボルネオ)島に渡って現地の協力団体と一緒に生物多様性を重視した熱帯林を再生させる取り組みを行っていました。
教授とは、2007年7月のmore treesの法人格の設立前夜、どう運営していくかの検討を始めていたタイミングで広告会社の方を介してお会いしました。意気投合と言ったらおこがましいですが、「あ、こいつ面白いな」と思ってくださったのかもしれません。
お会いした当日にお礼のメールを送ったら、その翌日にすぐさま、「こちらこそありがとう。君のモチベーションさえ許すならば、『more trees』の事務局長になってくれないか」というメッセージを頂いたんです。断る理由がないので、すぐに「やらせてください」と返事をしました。
――坂本さんから声をかけられた時は、どんな気持ちでしたか。
坂本龍一という、非常に知名度が高くて発信力のある方が、森林という領域に関心を向けてくれたことが、僕としては何よりもまずうれしかったし、心強かったですね。
そんな彼が立ち上げた団体であれば、もっと森林保全の活動を加速することができるし、しかもこれまでに伝えることができなかった一般の消費者の方や、これまで森林に無縁だった方にも発信することができるという期待がすごくありました。
前職でインドネシアの植林事業に携わっていた当時から、日本企業を回って出資を募ったり、寄付を募ったりしても、なかなかうまくいかない部分があったんです。
インドネシアという遠い地域の問題を、どうやって「自分ごと化」して、日本の方に伝えていくかいう難しさも常々感じていたので、そこをブレークスルーするのに、坂本龍一さんが立ち上がったことはすごくポジティブに思えました。
インドネシアのみならず、日本国内も含めていろんな国や地域の取り組みにも、広がりが見せられると思いましたし、とにかく無限の可能性を感じました。
――more treesの、森林をただ守るだけでなく、企業活動や収益化と結びつけるというコンセプトは発足当初からあったのでしょうか。
よくよく解き明かしていくと、森林を破壊するメインプレーヤーも、逆にいい方向にもっていくのも結局のところ経済活動であり、産業界なので、企業に森林分野にしっかりとコミットしていただくことは、当初から教授との共通認識としてありました。
同時に、脱炭素化のために、森林が持っているCO₂吸収機能をしっかりと引き出していこうという議論でも盛り上がりました。
僕は当時、インドネシアで活動していたので、熱帯雨林が成長するとどのくらいCO₂を吸収するのかなどと質問されて、事前に用意した資料などを見せたら、熱心にメモを取っていました。さすが「教授」と言われるぐらい、すごく好奇心を持って耳を傾けてくださったことは、とても印象的でした。
「いいね。やろう」地域の人々に入っていった坂本さん
――坂本さんは、普段どのようにmore treesの運営に関わっていたのでしょうか。
この地域で植林がしたいとか、ここでやりなさいとかは一切言いませんでした。
逆に、僕が常々感じていたのは、たかが数年かもしれないですけど、インドネシアも含めて現地で活動していた僕の森林に関する知識や経験を、すごくリスペクトしてくれたことです。
かといって、ご自身が問題意識を持って立ち上げた団体なので、「お飾り」の代表でもない。組織をとても大事にして、最前線の肌感覚とか専門知識を持った上でのボトムアップ型の提案に対しては、基本的にもろ手を挙げてどんどん承認してくれました。
例えば、この次はこの地域と提携したいですと言ったら「いいね。やろう」と。もう常にそんな感じでした。
――坂本さんが代表で森づくりの連携協定を結びましょうというと、地域や自治体側も大賛成だったでしょうね。
大賛成どころか「激震」ですよね。いわゆる中山間地域で、山と向き合って暮らしておられる地域に教授が行って、地元の林業や森林分野にスポットライトを当てるので、教授が評価してくれたことに皆さんとても前向きになっていただいていましたね。
加えて、教授が地域を訪れた際は、必ず泊まって地元の方々と宴会をするんです。コロナ禍前だったので、村長さんや組合長さんのような方のみならず、地元で林業をやっている方や役場の職員の方など、いわゆる現場の方も含めて、数十人規模の大宴会をやっていました。
その時はサインや記念撮影にも快く応じていました。教授は5本指ソックスを履いていたんですが、お座敷で5本指ソックスの村人を見つけると、「君も5本指ソックスか」とか言って、足元だけで記念撮影したりしていました。
そうやって肩ひじ張らずに教授と一緒に、文字どおりひざを突き合わせて酒が飲めたことは皆さんすごくいい思い出だと今でも言っていただきますし、教授ががんの闘病に入った時も、寄せ書きを送っていただいたりもして、本当に地域にも愛される方でした。
教授も、忙しい中で移動もいとわず、宿泊して地域の方とお酒を飲むということを楽しんでいましたね。「音楽活動だけだったら、こういう人々は出会うことができなかった」と話していたと、人づてに聞きました。
闘病に入る前は、必ず教授が地域に行って協定式に臨んで夜は宴会をするのがお決まりのパターンだったんですが、その後に新たに協定を結んだ三つの地域には行けませんでした。闘病中も、「また行きたいなあ」ということはずっと言っていました。
「アカエゾマツの香りは…変イ長調」。軽やかに語った坂本さん
――坂本龍一さんが「森づくり協定」を結んだ北海道の町で、樹木の香りを音階に例えたエピソードがあったそうですね。
北海道の下川町で、アカエゾマツの枝打ち体験をする機会があった時、枝の断面の香りを教授がくんくんかいだのを、取材に来ていた新聞記者さんが見ていたんですね。その後の囲み取材で、教授に「香りを音階に例えると?」と質問したんです。
むちゃぶりされたな、と思って聞いていたんですが(笑)、教授は2~3秒置いて、わりとすぐに「変イ長調のよう」と返しましたね。僕も具体的にその音階が何なのかは分からなかったですが(笑)。
目指すのは、経済と環境の両方を追求した「オルタナティブな森」
――more treesがつくる森は、林業の森なのか、天然林の再生なのか、どちらなのでしょうか。
基本的には後者です。今、私たちは基本的に「多様性のある森」を意識しています。
一方で、経済活動を完全に諦めるわけではない森づくりを標榜しています。経済活動が100%目的の従来のスギやヒノキを主体とした林業ではない、「オルタナティブな林業」というんでしょうか。ちょっと欲張りかもしれないですけど、経済と環境を両方追求した森づくりを僕らは地域と一緒に目指しています。
地域によって求めるスタイルが違うので様々ですが、例えば2021年に協定を結んだ奈良県天川村では、ミカン科の薬用樹キハダを植えています。キハダは樹皮をむいて煎じると「陀羅尼助(だらにすけ)」という1300年の歴史を持つ胃腸薬の原料になります。
経済的な恵みも享受する場合も、全部伐採して「はげ山」にしないよう森の機能は維持して、いわば「利子」のような形で利用するスタイルを取っています。
また、2022年に協定を結んだ和歌山県田辺市では、県木・市木のウバメガシを植えています。ウバメガシは紀州備長炭の原料で、地域の自然環境にも産業にも切っても切れない存在ですが、戦後にスギやヒノキに取って代わられてしまったり、高級な炭の原料になるということで乱伐が進んだりした歴史があります。
だから、ウバメガシを中心とした多様な森にして、一部は備長炭の原料として地元の経済にも寄与する「両立」を目指した森づくりを始めています。
地域やエリアによっても、こっちは生産を目的にしよう、こっちは水源にしよう、場合によっては土砂災害防止の森にしようとか、さまざまな目的・目標があっていいと思っています。
それを地元の方と議論しながら、目標となる森の形を一緒に思い描いて設定して、そこに向かって必要な取り組みをバックキャスティングしながら行っていきます。
――背景にある問題意識を教えてください。
過疎化が進んだ地域でスギばかり植えても、誰が手入れをするのかとなります。それなら広葉樹を植えて、最初は草刈りが必要でも7年くらいすれば独り立ちしてくれるので、天然林に戻していこうという森もあっていいと思います。そのための資金、シードマネーをどうするか、というところで企業さんと自治体とのマッチングにも取り組んでいます。
実は、伐採して出荷した後の山はどうするのかという問題がより顕在化したのがここ5年ぐらいのことです。
僕らが活動を始めた当初は、まだ間伐、間引くところを推進することが国や自治体にとって喫緊の課題でした。それから10~15年たった今、戦後に植えたスギやヒノキが収穫可能期といわれる50年がたって、いよいよ手入れから収穫のフェーズになっているんです。
山にまたスギやヒノキを植えるのか、それなら誰が手入れをするのか、50年後の材木の市場価値は保証できるのか――。植える樹木をスギやヒノキ以外にも分散させた方が経済的にも環境的にもリスクヘッジになるんじゃないかとお伝えすると、賛同していただける地域や事業体が多いです。
最後のやりとりは、いつもの「いいね」
――差し支えなければ、坂本さんとの最後のやりとりを教えてください。
最後にやり取りしたのは亡くなる2カ月ほど前の今年1月下旬で、僕の誕生日のお祝いのメッセージをくださったんです。
闘病中なので、なかなか以前のような活動報告とか、次こういうことをやりたいですなどという連絡は控えていたんですが、そういう連絡をご本人からいただいたので、お礼と併せて今こういうふうに国内外でプロジェクトが進んでいますし、これからこういうふうにやりたいですという展望や現状をご報告しました。
いつものように「いいね。頑張ろう」みたいな感じでコメントを頂いたのが最後でした。
――more treesの公式サイト上の追悼文で、坂本龍一さんが生前、環境問題との向き合い方について”Think pessimistically, act optimistically”(考えるときは悲観的に、行動するときは楽観的に)という言葉を口にしていたと紹介していました。
10年ほど前、随所で言っていた言葉です。
環境活動って、昔も今も、環境に負荷をかけないように我慢をすることが非常に多いわけで、それを突き詰めて、地球環境の現状とか展望を知れば知るほど暗くなってしまうんですけど、かといって思考停止に陥って何もしないとか、自分一人が節電したところで地球は変わるのかと思い悩まず、行動するときはポジティブに、できれば楽しく、節電することで節約になるぜみたいに、前向きに取り組むようなスタンスが大事だと言われていたんです。
いつかの取材で隣でそう言っているのを聞いて、「ああ、なるほど」と思って、個人的にはそれがすごく刺さりました。
教授からは、たくさんの重みのあるメッセージを頂きましたけど、一つ挙げるなら、僕はこれを挙げたいと思って、追悼文で紹介させていただきました。
危機感は持たなくちゃいけない。だけどそこで「何もできない」「無力だ」と思考停止になるんじゃなくて、ポジティブに前向きに一歩を踏み出す、しかもできるなら皆さんと一緒に楽しく楽観的に、というこの言葉はmore treesという組織そのものの、ポジティブなメッセージにも通じると思っています。
「坂本龍一のmore trees」にならないよう、活動を伸ばしたい
――坂本さんが亡くなり、登記上はmore treesの代表理事ではなくなったわけですが、今後のmore treesの展望についてお考えを教えてください。
今後、代表をどうするかは協議中ですが、more treesのファウンダー(創立者)としては残り続けますので、今後、代表がどなたになろうと、その「イズム」は残り続けます。
僕としては悲観している場合ではなく、教授が残してくれた「more trees」というポジティブなメッセージと”Think pessimistically, act optimistically”というフレーズも胸に刻みつつ、今まで以上に活動もしっかり伸ばして発展させていく、より多くの人を巻き込んでいくことが、僕ら事務方ができる教授への、せめてもの弔いなんじゃないかなと思っていますし、せめてもの恩返しだと思っています。
ただ、僕らも途中から「坂本龍一の立ち上げた団体です」と積極的に言わないようにしていたんです。
教授がもし代表を退くとなって、後ろ盾を失った瞬間に活動が崩れてしまうのは、(森づくり協定を結んだ)各地域に対しても良くないと思っていましたし、教授としても不本意なはずです。
森作りはすごく息の長い仕事なので、「坂本龍一のmore trees」にならないように、事務局としては、いかに活動のクオリティーで知名度を上げて、周囲に知っていただけるかだと思っています。
最近関わっていただいている企業さんも、「え!坂本さんが設立した団体なんですね」と後から言っていただいたりすることもあって、それって教授の知名度に過度に依存しないという意味では、事務局としても理想なのかなと思っています。教授がやっているからとか、YMOのファンだから寄付します、というきっかけも、ありがたいんですけれど、そうじゃない人たちとのつながりがいっそう大事だなと思っています。