1. HOME
  2. World Now
  3. 漫画「いちえふ」が文庫本で復刻 作者の竜田一人さん、覆面脱いで語った15年の思い

漫画「いちえふ」が文庫本で復刻 作者の竜田一人さん、覆面脱いで語った15年の思い

World Now 更新日: 公開日:
漫画「いちえふ」(文庫版)と作者の竜田一人さん(覆面姿)
漫画「いちえふ」(文庫版)と作者の竜田一人さん(覆面姿)=関根和弘撮影

東日本大震災によって引き起こされた東京電力福島第一原発事故から3月11日で15年となる。事故後、現場で作業員として働き、その体験を描いた竜田一人(かずと)さん(61)=ペンネーム=の漫画「いちえふ 福島第一原子力発電所労働記」(講談社、全3巻)がこのほど、文庫版(同、上下巻)として復刻した。竜田さんはこれまで「雇い主に迷惑がかかる」として公の場では覆面姿だったが、今回は素顔を明かして取材に応じた。作品や原発、被災地への思いを聞いた。(聞き手・関根和弘)

――直接お目にかかるのは本当に久しぶりですね。以前の取材では「雇い主の会社に迷惑がかかるから」と覆面で取材に応じていましたが、今回は素顔を明かしても大丈夫なのですか。

もはや顔を隠すことに意味がないと思いまして。当時は再び原発作業員として働きに行こうと考えていて、漫画家であることがばれて雇い主の会社に迷惑がかかったら申し訳ないなと思っていたのですが、いつまでも「覆面漫画家」では読者にも失礼だろうと。

それに漫画が注目されるようになってから工事会社や東京電力、被災地で知り合いが増えて素性も知られてしまったこともあり、今回の文庫本化を機に覆面を脱ぐことにしました。

――文庫本は単に過去の連載の復刻ではなく、新作エピソードもありますね。文庫本化のいきさつを教えてください。

担当の編集者が文芸の部署に異動になったのがきっかけです。そこでは小説などの文庫本を扱っているのですが、その編集者が漫画を文庫本化したら面白いのではと考え、原発事故から15年の節目だったこともあり、「いちえふ」を選んでくれました。

追加のエピソードは、文庫本のために新たに現場を「取材」して描きました。2025年8月、この編集者と一緒に福島第一原発を視察させていただき、それをもとに構成しています。私が作業員として原発で働いていたのが2014年の年末までですから、それ以来の現場となりました。

漫画「いちえふ」の文庫版
漫画「いちえふ」の文庫版(左が上巻、右が下巻)=関根和弘撮影

――当時とはかなり変わっていましたか。

だいぶ変わりました。まず服装。原発に入る格好と言えば白い防護服で、当時は私たち作業員も着用していたのですが、2025年の視察では一部エリアを除いて着る必要がなくなっていました。

一番驚いたのは、海側のエリアです。原子炉建屋と海の間のエリアは、報道などでもほとんど紹介されたことはなく、我々作業員だけが目にしていたと思うのですが、私が働いていたころは津波で壊された施設のがれきや車が折り重なっていて、ぐちゃぐちゃの状態。それがきれいに舗装されて鉄板も敷かれ、高い防潮堤もできていました。

あの状況は漫画家としても描き残しておきたいという気持ちがあって当時、作品でも描きました。印象的な変化だと思い、同じ場所を新エピソードでも紹介しています。違いを見比べて欲しいです。ここまでするには本当に大変だったろうなと思います。作業員の方々に感謝ですよね。

原子炉建屋と海の間のエリアについて現在(上)と過去(下)の変化を描いた漫画「いちえふ」文庫版のコマ=©竜田一人/講談社
原子炉建屋と海の間のエリアについて現在(上)と過去(下)の変化を描いた漫画「いちえふ」文庫版のコマ=©竜田一人/講談社

――作業員として働いたのは2014年が最後とおっしゃいました。それ以降は働こうと思わなかったのですか。

勤めていた会社から何度か誘っていただきましたし、自分も働きたい思いはあったのですが、親の介護や新型コロナウイルスの感染拡大などが重なってその都度お断りせざるを得なかったんです。そうこうするうちに声もかからなくなりました。

今は年齢的に求人の条件と合わず、体力も衰えてきたので、もう現場に入るのは難しいかなと思っています。でも、また働けるものなら働きたいという思いはずっとあります。

――作業員としてではなく、プライベートで被災地を訪れることはあったのですか。

作業を離れてからも、家庭の事情などで難しくなる前までは月1回ぐらい訪問していました。福島県いわき市を中心に、飲みに行ったり、釣りに行ったり、知り合いを訪ねたり。音楽活動で行くこともありました。スナックや喫茶店などでギターを弾きながら演歌を歌うんです。「流し」の歌手みたいに。

訪問先も楢葉町や富岡町、大熊町、双葉町などに広がり、行く先々で知り合いも増えていきました。

――現在の漫画家としての活動を教えてください。

実は、漫画はほとんど描いてないです。1年に1度ぐらい、「福島第一廃炉国際フォーラム」※)のパンフレットに数ページ描く程度。

「いちえふ」以外の作品も描いていません。ファンの方からは「新しい漫画も読みたい」と言われることがありますが、正直、燃え尽き症候群と言いますか、やり切った感がありまして。たとえ「一発屋」になるとしても、それでもいいかなと。

※)廃炉作業の現状を地域住民らに知ってもらうための催し。作業の技術的戦略を立てる政府出資の原子力損害賠償・廃炉等支援機構が主催。

――10年ほど前に取材させてもらったとき、竜田さんは「今後も原発で働きながら描き続けたい」と言っていました。

結局、現場に行けていないので、こんな言い方は失礼かもしれませんが、作品にする新しい「ネタ」がないんです。当時のように緊急に紹介しなければならない事態が起きているわけではないので。

――ただ、作品では作業の話ばかりでなく、プライベートで過ごした被災地での出来事も紹介していますよね。そういうエピソードを続編として描く予定はあるのでしょうか。

ないことはないんでしょうが、すべては私次第なんでしょうね。うまい具合に作品にまとめられれば……。ただ、本当にありがたいことに「楽しみにしています」という声もいただくので、待ち続けていただければと思います。

――以前取材したときにもうかがったのですが、どうして漫画という形で原発の事故現場を伝えようとしたのですか。漫画が描きたかったのか。現状を伝えたかったのか。

やっぱり漫画家なので、「描きたい」という思いはありましたよね。せっかく現場まで行って興味深い体験をし、ものすごい光景を目の当たりにしたので、漫画にしたいなと思いました。その上で伝えたいという思いもありました。

東京電力福島第一原子力発電所の4号機の原子炉建屋
東京電力福島第一原子力発電所の4号機の原子炉建屋。水素爆発で壊れた壁から、事故前に定期検査ではずされていた原子炉格納容器の黄色いフタや、薄緑色の燃料交換装置が見えた=2011年11月、福島県大熊町

――先ほど「新しい『ネタ』がない」とおっしゃいましたが、それはある意味、状況が落ち着いたといえるのでしょうか。

そうですね。だいぶ落ち着いたんじゃないでしょうか。現場自体は作業を着実に進めるしかないですし、色々とトラブルがありながらも進展している。現場を知る私からみたら、関係者の皆さん、すごく頑張っているなと。

世の中も落ち着いてきた気がします。ああだ、こうだといちいち騒ぎになることがなくなりましたよね。

取材に応じる漫画「いちえふ」の作者、竜田一人さん。今回初めて素顔で取材に応じた
取材に応じる漫画「いちえふ」の作者、竜田一人さん。今回初めて素顔で取材に応じた=2026年3月、東京都文京区の講談社、関根和弘撮影

――それは放射能をめぐるデマや風評被害ということでしょうか。

現場の作業員として嫌だったのが、過酷な労働現場で虐げられているとか、ホームレスを連れてきて働かせているとか、ひどい話になると、作業員がバタバタ死んでいるとか。かつてはそんなデマが飛び交ったこともありました。

逆に作業員を過度にヒーロー扱いする風潮にも違和感がありました。実際働いているのは極めて普通の人。

――デマや風評の関連で聞きます。当時はTwitter(現X)が情報入手先としてはとても注目を集めたと思います。もちろん、デマや風評の拡散も問題視されましたが、現代ではフェイク動画や画像がAIによって容易に作れるようになりました。竜田さん自身、SNSで情報の発信や収集をかなりしてこられたと思うのですが、SNS空間におけるこの15年の変化をどうみますか。

2011年の段階で、生成AIがこんなに進歩していなくて本当によかったと思います。AIで生成した画像などは、それだけで真偽を見抜くのが難しくなっていますから。

全体的なリテラシーを磨くしかないのでしょうが、ちょっと乱暴に言うと、直感も大事だと思います。感情を揺さぶろうとしてくる動画や文章は警戒した方がいいと考えるとか。あとは誰がその情報を流しているのか、どんな意図があるのかという背景についても考える必要もあるでしょう。

とはいえ、私にとっては、SNSは役に立った側面の方が強いと感じています。原発事故が起きたときは、Twitterがきっかけで色んな意見を知ることができ、確かなデータや根拠を見つけることができ、正しい情報を入手するのに役に立った経験があります。

確かに、デマも拡散することがあるんですが、それを否定する情報が出てくるのもSNSの特徴です。一概にSNSがけしからんとは言えないし、逆にSNSの方がマスメディアより信用できるわけでもないです。

X(旧Twitter)の竜田一人さんのアカウント

――先ほど状況が落ち着いたとおっしゃいましたが、裏を返せば経験や記憶の「風化」についてはどう思いますか。

風化と一言で言ってしまうと「けしからん」「風化させるな」みたいな論調が出てきますが、間違った放射能への恐怖がなくなったり、風評を気にせず済むようになったりした点では、いい意味での風化ではないかと思います。

ただ、一部にはまだ「福島悲惨」「現場は大変」みたいな状態で止まっているひとがいるので、情報を更新して欲しいなと思いますね。

――廃炉作業についてはどう見ていますか。政府や東京電力は2051年までの完了を掲げているものの、燃料デブリの取り出し作業など、個別の工程では遅れが相次いでいます。

よくここまで来たなというのが率直な感想です。燃料デブリもほんのわずかですけど、あの中から取り出せただけでもすごいなと。確かに何百トンもあるデブリのうち、取り出せたのはグラム単位ですが、現場を知っている立場から言わせてもらえば、すごい進展だと思います。

処理水の処分ができたのも大きいです。放射性物質に触れた汚染水からセシウムなどをALPS(多核種除去設備)で取り除いた処理水を、国際的な安全基準に沿って海洋放出できたわけです。ついにこの段階まで来たのかと。

全体的な廃炉作業の期間については、正直、誰も正確なことはわからないでしょう。前例のない事態なわけで、数年遅れが生じているからといって文句を言っても仕方がないと思います。原子炉周辺のコアな部分の汚染物質についてはすでに封じ込めができているので、むしろよくやっているなと。

東京電力福島第一原発。事故前の敷地は豊かな緑に覆われていたが、事故後は処理水を保管するタンク群に取り巻かれている
東京電力福島第一原発。事故前の敷地は豊かな緑に覆われていたが、事故後は処理水を保管するタンク群に取り巻かれている=2025年2月、福島県大熊町、朝日新聞社ヘリから

――文庫本化を機に「いちえふ」を初めて手に取る人もいるかと思います。そんな人たちにメッセージをお願いします。

事故のあとに生まれた若い世代の人にとっては、この作品は取っつきにくい部分もあるかもしれません。それでも興味を持ってくれる人はいますし、意外に上の年代の方でも作品自体を知らなかった人はいます。

また、かつては精神的につらくて読めなかったけど、年月がたって読めるようになった人もいるようです。この作品を読んで気が楽になった、心の重荷が下りたと言われるとうれしいですね。

――今後、福島とどう関わっていきたいですか。

友だちがたくさんできたので、遊びに行って、歌を歌って、飲んで、魚釣りをして、という感じですね。出会った人がいい人ばかりで、定期的に交流したいと思っています。

建て替え前のJR竜田駅を見上げる竜田一人さん。ペンネームの「竜田」はこの駅名にちなんだ
建て替え前のJR竜田駅を見上げる竜田一人さん。ペンネームの「竜田」はこの駅名にちなんだ=2014年10月、福島県楢葉超、関根和弘撮影