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人も思いも 太平洋を越えて結ばれる被災地と世界

World Now
福島県広野町広野中学校3年生の下校前の教室/photo: Ikeda Masanori

外に出たからみえた、僕たちの町

「車の数がハンパない。道路は8車線あった」「いや10車線だよ」「200メートルごとに駅がある」「サンセットがきれいだった。ひろーい海。広野の海も広いけど、ちょっと違ってた」

サンディエゴの話題になると、中学生たちの話は止まらない。

福島県の海沿いにある広野町の中学3年生14人が昨年9月、太平洋の反対側、米カリフォルニア州に飛んだ。公益財団法人国際草の根交流センターが主催するプログラムに、日米の団体や企業の支援をうけて、無償で参加したのだ。

日本語を学ぶ高校生と話したり、大学や企業を訪問したり。海外は初めての生徒も多かったが、2人一組で米国人家庭へのホームステイも体験した。

高校生とバスケットボールをした大和田瑠華(15)は、「英語は苦手だったけど、意外と通じるんだ」と自信をつけた。渡辺金四朗(14)が関心をもったのは自然エネルギー。現地で海の波や地熱を利用した発電が注目されていると知った。「日米で技術協力ができたらいい。ロボットの動力源にもできるかも」

チャレンジできる気がする

石田大地(15)は、片言の英語でも聞き取ろうとしてくれる、現地の人の優しさに感激した。「日本では困っている外国の人を避ける人も多い。相手の気持ちに応えるのが人としてのマナーなのに、米国に行かなかったらずっと気づかなかった」

日下雄太(15)は米国でおなかをこわし、両親や祖母が作ってくれる和食っていいなと思った。そして、自分の町のことを考えるようになった。「広野町に貢献したい、町に人を戻したいなって」

東日本大震災が起きたとき、日下たちは広野小学校の5年生だった。約20~30キロ離れた福島第一原発で事故が起きた後、全町民が一時避難を余儀なくされた。日下も、いわき市や新潟・柏崎市の親戚の家に避難した。広野町の実家に戻ったのは中学2年になる直前だった。小学校のとき50人いた同級生は、中学生になったいま17人。町民の6割以上はまだ町に戻っていない。

避難先のいわきにはいわきの魅力が、米国には米国の魅力があった。「じゃあ、住みたくなるような広野の魅力ってなんだろう」。町の外に出て初めて、日下は考え始めた。

これまで広野町には高校がなく、隣のいわき市などに進学していた。だが、今年4月、「県立ふたば未来学園高校」が町に新設される。広野町のある双葉郡だけでなく、県内全域から生徒が集まってくるだろう。

勉強も町おこしも、何か大きなことにチャレンジできる気がする。そんな力を子どもたちは感じている。

留学経験で町に力を、高校生ツアー

米国訪問の後、いわき市でバスツアーを続ける高校生たち/photo: Suzuki Akiko

ふるさとの力になりたい――。海外で強く感じた思いを、様々な人の後押しで実現した若者もいる。高校生がルートを考え、添乗員として市内の見どころや復興の様子を案内する「トモダチトラベルエージェンシー」、略して「TOMOTRA」だ。旅行会社HISを通じてこれまで7回バスツアーを実施し、東京や九州などから、170人がいわき市を訪れた。

メンバーはいわき市の高校に通う10人。学校も学年もばらばらだ。共通するのは、通信大手ソフトバンクが費用を負担し、これまでに被災地の高校生500人を海外に派遣した事業に参加したことだ。米カリフォルニア州バークリー市に3週間滞在し、リーダーシップや地域貢献について学んだ。

「集客をしないと、経済的に豊かにはならないんだ」。2012年の夏、第1期の派遣事業に参加した白岩春奈(18)は、つくづく考えた。海外を訪れるのは初めて。数人のグループで米西海岸の街を見て回り、課題の解決策を英語で発表した。頭には地元いわきのことがあった。

映画「フラガール」の舞台になったいわき市は、低迷する炭鉱の町から、観光事業で復活した経験をもつ。だが震災の影響で、2011年の観光客数は約367万9000人と、震災前の3分の1近くまで減っていた。「私たちに何が出来るだろう」。思いついたのが、高校生ツアーだった。

帰国後、仲間の10人で声をかけると、市内で商売をする人たちが協力を申し出てくれた。ソフトバンクの紹介で、HISが12年末にいわき市で開いた社内会議に招かれ、約800人の社員を前にバスツアーの案を発表した。聞いていたHIS社長の平林朗(47)は、その場で実施を決めた。いわき市は、東北の旅行先としては仙台や松島の陰に隠れた存在だ。だが「この店のメロンパンがおいしい」など、地元の高校生ならではの情報がつまったプレゼンは新鮮だった。

「いわきのリアル」伝えたい

平林自身、高校卒業後、20歳で米国へ渡り、約5年間、建設現場の作業員やウェーターのアルバイトをした経験を持つ。海外に飛び出した彼らを応援したいとも思った。バスツアーは乗客が十数人集まれば成立する。赤字にならないよう、プロの大人が知恵を出せばいい。

TOMOTRAのバスは朝7時に新宿を発車。高校生たちはいわきから乗り込む。1泊2日のツアーは2万円前後。古代から歌に詠まれた「勿来関(なこそのせき)」で和歌をつくり、被災した商店主らが集まる「夜明け市場」でランチ、和紙の紙すき体験などを盛り込んだ。

旅の最後に、津波で多くの人が亡くなった沿岸部で、乗客に、高校生がそれぞれの思いを話す。整備の進みつつある海岸で白岩は、「この場所もいわきのリアルです」と伝えた。

ツアーを「卒業」したメンバーもいるが、白岩の翌年、翌々年に米国派遣に参加した生徒が加わり、活動が続いている。2期生の佐川加奈(17)らは、この春のツアーを準備中だ。新たな訪問先を探し、南米原産の果物フェイジョアを日本で唯一、専門に栽培する市内の農場などと交渉している。

旅行にとどまらない。地元の野菜をPRしようと、市内の畑に県外の人を招く「TOMODACHIファーム」を始めたメンバーもいる。そのひとり、2期生の小林知世(17)は「臨床心理士になりたい。海外の大学にも興味がある」という。災害看護を勉強できる米アラバマ州の大学に留学を希望する生徒や、別のNPOの活動でニューヨークを訪問する予定の生徒もいる。

高校生たちは公共施設などに集まり、わいわいがやがやと、次の計画を練っている。白岩は言う。「前はこんなに地元を知ることも、海外に目を向けることもなかった」

米国で使った名札やカードキー。大切な思い出の品だ/photo: Suzuki Akiko

寄付金も派遣を後押し

福島県では多くの自治体が子どもたちを海外に送り出している。震災前から途切れることなく続けた地域もあれば、新たに始めた自治体もあり、2014年は360人以上が派遣された。これに加え、正確な人数は分からないが、国内外の企業や個人の寄付金、外国政府が後押しする例も多く、海外と被災地のつながりが生まれている。

全村避難が続く飯舘村は、11年夏から、自然エネルギーの利用や農村観光の事情を学ぶため、ドイツなどに中学生の派遣を続ける。「村の子どものために」と集まった義援金を活用している。海外派遣には「村のために何ができるか、国際的視野から考えられる人に育ってほしい」(教育長の八巻義徳)との期待が込められている。

相馬市は、当時の駐日メキシコ大使の訪問をきっかけに12年夏、小中高校生22人がメキシコに招待された。北塩原村は、台湾のダンサーが慰問に来たことをきっかけに交流が始まり、12年度から中学生を台湾へ派遣している。

二本松市の県立安達高校は12年末、人権や環境学習に取り組む「ユネスコスクール」に加盟。カタールや米国を訪問し、市内のJICA研修施設で学ぶ海外研修生とも交流してきた。校長の渡辺昇は「以前、短期留学は年に1、2人だったが、この3年で20人以上が飛び出した」と話す。

米日カウンシルと東京の米国大使館が主導する「TOMODACHIイニシアチブ」は、3年間で福島、岩手、宮城の各県から計2130人を米国へ派遣した。寄付金を若者の教育に使ってほしいという被災地の意向をふまえたという。米国の文化交流団体ジャパン・ソサエティーも、3年間で計25人を1年間の留学に送り出した。財源は、震災後、数週間で1400万ドル(約16.6億円)に達したという米国からの寄付金だ。OECD(経済協力開発機構、本部パリ)事務総長の来日をきっかけに生まれた「OECD東北スクール」では、福島を含む1都4県の84人の若者が「東北の未来」を考え、14年8月にパリで彼らの声を届けた。

天栄村に来た「ライスキング」

「よい取り組みも発信してこそ」と語るリン photo: Suzuki Akiko

ザザー。1キロの玄米が、筒状の放射性物質測定器に投入される様子を、カメラを肩に抱えた男性が撮影していた。昨年12月、福島県南部の天栄村を台湾のテレビ局・中天電視の記者2人が訪ねた。「食の安全」を特集する1時間番組の中で、放射性物質検査にとりくむ福島県の様子を紹介するという。

「この機械は幾らするんですか」「規制値以上のセシウムが出たことは」。記者が次々と質問する。「1台400万円。コメが規制値を超えたことは一度もありません」。村の産業振興課長、吉成邦市(55)が答えた。

通訳を買って出たのは、台湾系米国人のコメ輸入業者デビッド・リン(64)。サンフランシスコを拠点に、日本、米国、台湾の間でコメの輸出入を手がける企業の会長だ。台湾には、日本国内25地域のコメを毎年100〜150トン輸入。台湾で流通する日本産米の7割を手がける。リンは、年4回は日本の産地を訪ね、コメの生育状況や味を確認して台湾に紹介している。その影響力の強さに、台湾進出を模索する日本のコメ業界では彼を「ライスキング」と呼ぶ人もいる。

人口約6000の天栄村は、コメの食味を競う全国コンクールで2008年から金賞を7年連続受賞する、知る人ぞ知る米どころだ。「天栄米」のおいしさに、リンは以前から目をつけていた。

「コメは村を守る作物」

役場に勤める吉成も、おいしいコメ作りに力を入れてきた農家のひとりだ。きっかけは07年。日本のコメ市場開放に備えて世界各地でコシヒカリが作られている状況をテレビ番組で知り、ショックを受けた。「コメは農地、景色、村を守る作物。日本一を目指さないと村は滅びる」。農家仲間と肥料や土の研究に取り組んだ。

海外にも目を向け、リンの仲介で初めて台湾にコメ600キロを発送したのが2011年2月末。吉成も台湾に飛び、台北のデパートの店頭に立って、天栄米のおいしさをアピールした。台湾産のコメの3倍、他の日本米の3割増しの値段なのに完売。「やっと軌道にのった」。手応えを感じた矢先に、東日本大震災が起きた。台湾は今も、福島県を含む5県の、酒類を除くすべての食品の輸入を停止している。

原発事故後も、吉成たちはコメを作り続けた。天栄村は原発から約70キロの距離にある。田んぼの放射線量を計測し、セシウムを吸着する高価な素材を田んぼにまいたり、水路に置いたり。放射能汚染ゼロを目指そうとする取り組みは日本のドキュメンタリー映画にもなった。来日していたリンは、この映画を見て感銘をうけた。「ここまでやっているとは」

今回、台湾のテレビ局に声をかけたのはリンだった。一行は、天栄村の田んぼの様子も視察。コメの全量全袋検査や、地元食材で作る給食を出す小学校、福島県産米を使う会津の酒蔵なども取材した。農産物直売所に持ち込まれるリンゴまで細かく砕かれ、検査される様子も撮影した。番組を見た消費者の意識が変われば、台湾当局の方針も、少しずつ変わるかもしれないと期待する。

「再開に道筋をつけるのは簡単ではない。でも、食品の安全のために取り組んでいることを発信しなければ、海外の人は福島に負のイメージを持ち続ける。応援したい、長いつきあいですから」。リンはそう話した。

(鈴木暁子)

事故対応に海外の技術

photo:The Asahi Shimbun

東京電力福島第一原発での事故後の対応には、多くの外国企業の技術が使われている。

事故直後、「まるで戦場だった」(東電関係者)原発には、次々に米企業の軍事技術が投入された。

ハネウェル社の無人偵察機「T-Hawk」は原子炉建屋などを撮影した。イラクなどでも使われた機種だ。爆弾処理や偵察用のアイロボット社の自走ロボットは、2011年3月12日に最初に水素爆発を起こした1号機の建屋内部の様子の確認に使われた。同社はお掃除ロボ「ルンバ」でも有名だ。

2001年の米同時多発テロ現場にも投入されたキネティック社の遠隔操作型ロボットは、その2日後に爆発した3号機付近でのがれき撤去作業の際に、線量を測定した。

軍事以外の技術も重要な役割を果たした。

50メートルを超えるアームを持ち「ゾウ」や「キリン」の愛称で呼ばれた独プツマイスター社のコンクリートポンプ車は、事故炉の燃料を冷やすため、建屋の上から水をかけた。チェルノブイリ原発事故現場での作業実績もあるスウェーデンのブロック社の操作型のロボットはがれき撤去などで活躍した。アイロボット社やプツマイスター社は、操作の指導や訓練も行った。

原発事故では、事故炉の冷却で大量のセシウムを含む汚染水が発生した。人類の経験したことのない事故を収束させようと、今も廃炉や汚染水対策には世界から様々な知恵を集めている。

汚染水の浄化には当初、仏の原子力大手アレバ社の除去装置が使われた。電力の約8割を原発が作る国。高い技術や豊富な知見を期待された。ただ、発生する廃棄物の量が多く、現在は事実上、使われていない。一方、同時に稼働した米の放射性廃棄物処理会社キュリオン社製の装置は、改造を経ながら今も現役だ。

汚染水は今も増え続ける。現在の浄化装置では、放射性物質トリチウムは取り除けない。国は除去技術を確立しようと、14年に検証試験に参加する企業を募集。6カ国29件の応募の中から審査を通った米ロの2企業が挑む。

研究機関や電力会社などでつくる技術研究組合「国際廃炉研究開発機構」も、溶融燃料の取り出しに向けた、調査方法や取り出し技術を国内外から募った。これまで米仏ロに英独、カナダ、ベルギーの計7カ国から、情報が寄せられている。

日本発の新発明もある。千葉工業大学はロボット「クインス」に原発事故に対応できる機能を加えた改良版を作製。東電が4号機からの燃料取り出しのために作った、東京タワーとほぼ同量の約4000トンの鋼材を使った建屋カバーには、約1年という工期の短さもあり、海外から高い評価が寄せられた。

(小坪遊)