――TOMOTRAが始まったいきさつを教えてください
HISでは2011年の東日本大震災の直後から、毎年、被災地の会場を借りて、千人ほどの社員が参加する内々の会議をやっています。11年は福島県の会津若松市で開き、12年は、12月にいわき市の温泉施設スパリゾートハワイアンズで開きました。このときに、ソフトバンクが実施する「TOMODACHIプロジェクト」で米国に3週間滞在したいわき市の高校生が、彼らの考えるツアーのアイデアを発表してくれることになりました。ソフトバンクからの紹介でした。
10人の高校生が、パワーポイントやショートムービーを使って発表しました。彼らは震災後、いわき市に観光客が来なくなり、野菜なども売れなくなった現状を深刻に考えている様子でした。冒頭、近親者が行方不明のままの高校生もいるといったことを淡々と話すところから始まり、シュンとした雰囲気になるのかなと思ったのですが、その後、「それでもいわき市にはこういういいことがあるんですよ」と。ここのやきとり屋がおいしいとか、このパン屋のメロンパンがおいしいとか、住んでいる人じゃなきゃわからないことをリアルな高校生の目線で発表してくれたのです。最後は、「若い世代の僕たちが頑張るんだ」と締めくくっていました。発表を聞いたHISの社員も、何人か感動して泣いていました。後から聞けば、高校生たちは2カ月ぐらいかけて準備をしていたようです。HISが後押しするから、そのツアーをみんなでつくってやろうよ、という話になりました。私がその場で決めました。
――ツアーの実施を決めたのは旅行商品として可能性があると思ったのですか、それとも違う理由で?
震災の復興支援をしたいという思いはありました。高校生には、バスを手配したり、赤字になったら責任を負ったりといったことはできません。それなら私たちが器をつくればいいじゃないかと考えた。バスツアーは、一定人数のお客さまが集まれば実施できます。そういう意味でヘッジ(危険回避)がかかっている。若い人たちが、続ける努力をしてくれさえすれば大丈夫だと思いました。旅行業に携わる者として、お客様を送客することで支援するというモチベーションもありました。
もう一つは、SNSを駆使するいまどきの若者の発信力が強みになると思ったのです。いわき市では、高校生の7割ほどが首都圏の大学に進学するそうです。それなら、首都圏の先輩たちにツアーのPRをしてもらい、いわきに残る高校生たちが案内役をやればいいじゃないかと。実際に、東北出身の先輩たちがずいぶん協力してくれたようです。
――それまで、HISではいわき市内を周遊するようなバスツアーはあったのですか?
ありませんでした。あの時期は、宮城県の仙台とか松島のほうが観光地としての人気は高かった。震災直後は、いわき市最大のコンテンツであるスパリゾートハワイアンズもいったん閉鎖するほど、集客が難しい時期でした。さらにいうと、いわき市を掘り下げたバスツアーをつくるという発想自体、これまでありませんでした。
復興のために、このまま何もせずにいてはいけないという強い思いを、いわき市のたくさんの人が持っていたのだと思います。地元の高校生たちが、ツアーで立ち寄る施設や食堂、役所などに交渉に行くと、みなさん協力してくれました。若い高校生たちが頑張っているのだから、その思いを実現させようとしてくれたのでしょう。若い人たちには強い思いやアイデアはあっても、どうやって実現したらいいかなかなかわからないものです。そういう意味では、周りがちょっと後押しすることが大事なのだと思います。
――TOMOTRAのメンバーは、米国の研修旅行に行ったことがきっかけで動き出しました。平林さんも若い頃、外国で過ごしたそうですね。
私は20歳から26歳まで、米国で暮らしました。やはり後押ししてくれる人がいたんです、「米国に行ったほうがいいんじゃないの」って。父親でした。TOMOTRAの高校生たちも、ソフトバンクのプログラムが背中を押してくれなければ、そう簡単にUCバークリー(カリフォルニア大学バークリー校)を訪問するなんてできなかったんじゃないでしょうか。
私は米ロサンゼルスに5年住み、その後、1年弱インドネシアに住んだのですが、東京も含め3カ所に住んだ経験があると、4カ所目を訪ねた時の理解は深くなると感じます。こんなふうに宗教観が違うんだなとか、文化の違いなどに気がつき、受け入れやすい。初めはなかなかわからないものですよね。
若いときに異文化や異国を経験することには、いい意味があると思います。昔とはずいぶん変わったものの、ロサンゼルスにはまだ治安が悪いといわれるエリアはあるんですが、若い頃は、そういうところに住むことや、危険といわれる地域への恐怖感みたいなものがあまりなかった。でも、いま行くとちょっと怖い。大人になると、やはり先入観にとらわれてしまうのかもしれませんね。
――海外経験から平林さんが得たものは何ですか。
私が米国に留学に行ったのは1980年代。ロサンゼルスもニューヨークと同じく「人種のるつぼ」みたいな街で、米国人の次にメキシコ人が多く、巨大な韓国人街があったり、チャイナタウンやリトル東京もあったりする。そういうミックスの社会なので、仲良くなった人たちはマイノリティーが多かった。学校はすぐにやめてしまい、フリーターになってアルバイトをしました。英語はネイティブじゃないし、親類縁者もいない。それでもやれる仕事というと、主にマイノリティーの人たちが携わっている仕事だったんです。いろんな仕事をしました、建設現場で手伝う仕事とか、不動産会社の電話受付とか、ウェーターとか。そこで見聞きしたいろいろなことは、とても大きかったと思う。
だから、日本からどんどん海外に出た方がいいと思います。海外に出てマイノリティーになり、日本に帰るとマジョリティーになる自分を見つめることも大事だと思うのです。
――TOMOTRAではいわき市に関わっていますが、旅行のプロとして、東日本大震災の被災地・東北が観光地として力を取り戻すにはどうしたらいいと考えますか。
日本は「観光立国」を目指そうと声を上げていますが、その一方で、日本人の海外出国者数は約1700万人(2013年)。1億2千万人の人口に対しておよそ14%です。年間に海外へ行くのは、10人のうち1人ちょっとだけ。のべ人数なので、実際は半分ぐらいしか行っていないでしょう。お客さんは海外から来るわけですから、自分たちも海外の現場を知らないと、アピール下手になりかねないのではないでしょうか。少子化の流れが止まらない中で、観光業界で期待できるのは外国人旅行者の増加です。海外から東北へ行ってもらうには、そのあたりに、まだまだ改善の余地があると思うんです。助成金や補助金は潤沢にありますが、生かし切れていないと思います。
――原発事故の影響をうけた福島県の観光推進にはどんな方法が考えられるでしょうか。
観光PRにはいろいろなやり方があると思います。日本の自治体はかなり独立独歩で、県ごとというよりも、むしろ市町村ごとに観光客誘致に取り組もうとします。日本全体でアピールする構造になっておらず、横串がさしにくい。旅行の行程は本来、県をまたいだり、市町村をまたいだりしてつくるものです。観光立国で外国からの観光客数2000万人、3000万人を目指していくというのであれば、やり方を改善しないともったいないですね。例えば福島の観光地と、栃木の日光東照宮、 那須を組み合わせたツアーを企画するといったこともできるでしょう。
去年、日本を訪れた観光客は約1300万人。その多くが、東京に宿泊しました。関西まで足を延ばす人は多いのですが、例えば、栃木の那須や福島の会津若松といったすばらしい場所には、ほとんど行っていないんです。雪が見てみたいという外国人は多いです。雪がたくさん降るのは、福島も含め群馬、栃木、茨城あたりから北のエリアですよね。魅力は十分あります。また、国によっても震災後の日本に対する考え方は違うようです。例えばタイなど、東南アジア諸国や台湾は、親日であると同時に「信日」といった意識も強い。日本政府が大丈夫っていうんだから、被災地の観光も安全だと信頼する人が多いようです。こうした地域の人たちに積極的にアピールすることも必要だと思います。