ガシャコン、ガシャコン、ガシャコン……。伊達市月舘町の里山にある「三和織物」の工房に、複雑な模様を織るジャカード織機の音が響いた。織元の4代目、大峡健市(63)がオレンジ色と黄色の糸で織り込んでいたのは、鮮やかな刺し模様が入った「刺し子織」の生地だ。「半世紀前の織機で織っています。手機(てばた)と同じような風合いが出ます」。昔ながらの織り方にこだわる大峡の刺し子織から、震災後、新たな「作品」が次々と生まれている。
「刺し子」とは、強度や保温力を高めるため布地に糸を縫いつける技法。冬の寒さが厳しい東北地方で古くから盛んで、様々な刺し模様が生み出された。大峡は高校を出てすぐに、民芸運動の創始者、柳宗悦(むねよし)のおいで染織家の柳悦孝(よしたか)に師事。1979年、独自の刺し子織で日本民芸館賞を受賞した。悦孝の「一流の素材と道具を用いて、長持ちするものをつくる」との教えをモットーに、主に受注販売を続けてきた。
だが、原発事故で生活は一変した。工房と自宅は高い放射線量が検出され、5カ月は滋賀県に避難。さらに会津若松で1年余りを過ごした。「どうせ仕事ができないなら」と、岐阜、滋賀、新潟、群馬などの伝統織物を見て回り、丈夫で美しいという、ほかにはない刺し子織の価値を改めて実感した。
2013年夏、工房に戻った。しばらくすると、被災地を支援する企業などから、刺し子織の手帳カバーやポーチをつくる提案などが舞い込むようになった。昨年10月、紺地に白い北欧風の文様を織り込んだ大峡の生地でつくったブルゾンが、世界への発信を目指して年2回開かれる「東京コレクション」に出品された。「どこでどうやってつくられた生地なのか」。ブルゾンは評判を呼び、パリコレが開かれる時期に合わせ、1月に新たな作品がパリで展示されることになった。
震災で、ひとの心の温かさを身に染みて感じた一方、被災者の弱みにつけ込んで、安値で買いたたくような注文もあった。厳しい試練だったが、新たな可能性も開けた。「心がこもった、自分でなければつくれないものを届けたい」。いま、そんな思いを強くしている。
木製玩具を南会津のブランドに
森林が土地の93%を占める南会津で木製の玩具をつくる「マストロ・ジェッペット」の職人たちも、震災を乗り越え視線を世界に向けている。2010年、木工製品の加工所や製材所の経営者に、神奈川県在住のデザイナー富永周平(42)が加わって立ち上げた。木箱に入った動物や積み木、乳児の歯固めなど16種類のおもちゃをつくる。あかべこや起き上がり小法師の発祥とされる地で育まれた技術力と、子どものころからイタリア暮らしが長い富永のデザイン力が生んだ玩具は、海外でも評価され欧米やアジア9カ国で売られている。
道のりは平坦(へいたん)ではなかった。海外に踏み出そうとした矢先に震災が起き、半年ほど足踏みせざるを得なかった。ようやく11年末から翌年にかけて、香港、パリ、フランクフルト、ニューヨークの展示会やギフトショーに出品。10件の商談を取り付けたが、帰国後、理由も告げられずにすべて破談になった。「原発事故があった福島の企業だと知ったからだろうか」。そんな不安が、みなの頭をかすめた。社長の児山文彦(55)は「欧州のバイヤーからは、展示会で『福島の企業は駄目だ』と言われた」と振り返る。
「終わったな」。名刺の住所を福島県から変えるため、登記を神奈川県に移すことも検討した。だが、「森林の町である南会津の企業に意味がある」と踏みとどまった。福島第一原発から100キロ以上離れ、地域の放射線量が低レベルであることを文書で示すなど安全性を訴えた。いま海外での売り上げは、全体の1割程度にまで増えた。家具職人の武藤桂一(62)は「マストロ・ジェッペットの名と技術力を海外に発信でき、張り合いがある」と話す。富永の目標は、木の玩具を南会津のブランドとして根付かせることだ。「途方もない時間がかかるかもしれないが、一歩一歩、進めたい」
バローロなどの銘柄で知られるイタリアを代表するワイン産地、ピエモンテ州。州都トリノの住宅街にあるレストラン「KIDO-ism」は、日本人シェフ城戸貴志(39)の和洋の要素を合わせた創作料理が評判だ。
12月下旬、イタリア人男性2人が食前酒に注文したのは、福島県二本松市の「人気酒造」の日本酒。城戸の妻マリアが勧めた。2人は、口に含むと「まろやかでフルーティー」「きれいな水を使っている」とうなずきあった。
人気酒造は2007年にできた蔵元だ。震災直前に「ワイングラスでおいしい日本酒アワード」を開催するなど、業界に新風を送りこんできた。輸出先はロンドンなど十数都市に上る。代表の遊佐勇人(49)は、「トリノのように地元の味への愛着が強い場所で認めてもらいたい」。
福島の日本酒は全国7位の製造量を誇るが、震災の影響で12年は例年より1割強落ち込んだ。いまも66の蔵元のうち、4つは休業が続いている。一方、海外に活路を見いだそうとする蔵元もあり、県酒造協同組合によると、震災前の09年7月~10年6月で約190キロリットルだった輸出量は13年~14年で約290キロリットルへと伸びた。
各蔵元が情報交換
日本酒づくりでは、伝統を誇る蔵元同士が競い合っている。ただ、福島県では20年来、各蔵元と行政が一体となって人材育成や品質向上に取り組んできた。1991年に「清酒アカデミー」を創設し、若手杜氏(とうじ)が酒づくりの基本を学ぶ場をつくった。95年からは「高品質清酒研究会」を定期的に開き、各蔵元が酒を持ち寄って情報交換してきた。
震災後、それが生きた。津波で蔵を流された浪江町の鈴木酒造店に、南会津町の国権酒造が蔵の一部を間貸し。研究のため県ハイテクプラザに残っていた酵母を使い、11年5月には元の味の酒づくりを再開できた。ハイテクプラザ醸造・食品科長の鈴木賢二(53)は「オール福島でおいしい酒をつくる仲間意識が、さらに強まった」と話す。
ただ、原発事故に伴う不安が依然あるのも事実だ。海外展開に積極的な大七酒造(二本松市)は、英仏、オランダ語でも冊子をつくり、取引先に安全対策を説明してきた。社長の太田英晴(54)は、「事故後、売り上げ維持のため『福島の水や米は使っていない』とうたった蔵元はなかった。その覚悟を背負い、福島を元気づけたい」と話す。
(内田晃)