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姓で名乗ると「とても違和感」 ゴルフ、アイス……ニックネームで呼び合うタイ人たち

World Now 更新日: 公開日:
ゴーウェル・タイ語スクールのネーン先生(左)とチーズ先生
ゴーウェル・タイ語スクールのネーン先生(左)とチーズ先生=2025年4月、東京・銀座、西尾能人撮影

タイでは、家族や親しい友人同士、場合によってはかしこまったシチュエーションでも、ニックネームで呼び合う。動物の名前から外来語由来のものまで、ユニークで印象的なものもの多く、幼いころからずっと使い続ける人も少なくない。もちろん、姓も本名もある。それでも、ニックネームを大切にするのはなぜなのか?

「チーズ先生」「はい、サワディーカー(こんにちは)」

東京・銀座にある「ゴーウェル タイ語スクール」。マンツーマン指導が売り物で、受講者から講師への質問は日本語でもOKだ。「チーズ」は、先生のニックネームだ。

ゴーウェル・タイ語スクールのチーズ先生
ゴーウェル・タイ語スクールのチーズ先生=東京・銀座、本人提供

在籍する24人の講師全員が、ニックネームで呼ばれている。

チーズさん(33)の名は、乳製品のチーズからとった。「私を妊娠中、母が普段はあまり食べないチーズをたくさん食べたからだそうです」。

同僚のネーンさん(39)の場合は、タイで売られている粉ミルクの商品名から、両親がつけたという。

ゴーウェル・タイ語スクールのネーン先生。ニックネーム(ネーン)と本名(スックスコン)と姓(チャイガーンジャナウィワット)をタイ文字で書いてくれた
ゴーウェル・タイ語スクールのネーン先生。ニックネーム(ネーン)と本名(スックスコン)と姓(チャイガーンジャナウィワット)をタイ文字で書いてくれた=2025年4月、東京・銀座、西尾能人撮影

「私が赤ちゃんのとき、ネーンの粉ミルクだけは、飲んだときにアレルギー反応が出なかったからだと言われました」。2人とも、赤ちゃんのころからのニックネームを今も使い続けている。

当然ながら、2人には本名もある。チーズさんは、スパヌット(上品な女性)、ネーンさんは、スックスコン(よい香りで幸せになる、の意味)。発音は難しく、使われる言葉も難しくなる。

姓は、さらに長い。チーズの姓はイムプラユーン。「笑顔の家族」という意味だ。ネーンは、チャイガーンジャナウィワット。「勝つ」「金(きん)」「発展」という言葉を組み合わせている。家族が貴金属にかかわる仕事をしてきたからのようだ。

ニックネームの「チーズ」を本人に書いてもらった
ニックネームの「チーズ」を本人に書いてもらった

本名は公的な書類や、ビジネスで使う。ビジネスでの電子メールや文書では、ファーストネームを使うことが普通だという。

一方、ニックネームは仕事でも使われる。チーズさんは以前の日本の勤務先で、名刺の本名表記「スパヌット・インプラヌーン」の後に「(チーズ)」と付けていた。

ネーンさんも、以前の会社で取引先と本名であいさつした後で、「ネーンと呼んでいただいても結構ですよ」と言っていた相手との親近感を増し、雰囲気を和らげる効果もあるようだ。

こちらは「ネーン」さん。本名はニックネームよりずっと長い
こちらは「ネーン」さん。本名はニックネームよりずっと長い

これに対して、姓はあまり出番がない。フォーマルな場で、かつフルネームを使わないときは、ファーストネームで呼ぶのが基本だからだ。たとえば、親子で首相になったタクシン元首相、ペートンタン現首相はどちらもファーストネームで呼ばれている。姓はチナワットだ。

チーズさんも、日本の別の会社で働き始め、「イムプラユーンです、と姓で名乗ったときに、とても違和感があった」と振り返る。

タイ出身でタイ史が専門の重富スパポン神田外語大学元教授(71)によると、タイ人の初めての王朝であるスコータイ朝(13~15世紀)ができてから長い間、庶民の多くは音節が一つだけの短い本名で呼び合っていた。姓はなかった。

乳幼児死亡率が高かった昔は、「幼くして死んでしまうのは、かわいい乳児を悪霊が連れ去ってしまうから」という土着の信仰から、悪霊を欺くために、「ムー(ブタ)」「マー(イヌ)」など動物の意味や、「ウアン(太っている)」などあまり望ましくないような意味を持つ名前をつけることもあった。

タイのタクシン元首相(左)と次女のペートンタン首相
タイのタクシン元首相(左)と次女のペートンタン首相。姓はともに「チナワット」という=朝日新聞社

国民に姓と名を持つことを義務づけたのは、現在のラタナコーシン朝(1782年~)の6代目、ラーマ6世が1913年、姓名法を施行したときだ。英国への留学経験のあった国王は、タイが近代国家として発展するために、国民一人ひとりを把握する手段として西洋のように姓が欠かせないと考えた。

姓は、個人を識別するため、重ならないことが推奨された。タイ人の多くが信仰する仏教などで使われるサンスクリット語やパーリ語由来の言葉を組み合わせたので、長く難しくなった。

姓は国勢調査の基本単位ともなり、「家」ごとに付けられた。この際、親しい知人が同居中の場合も同姓になったという。スパポンさんによれば、「姓は血縁が必須ではなかった。タイ人が姓より名前を使うのは、名前の方を長く使ってきたのに加え、こんな経緯がある」という。

他人と重ならない長い姓をつける中、ファーストネームも同様に長くなった。生まれた曜日や時間などをもとに縁起の良い名を仏僧につけてもらうほか、最近では、民間の命名サービスや親が参考にする「名付け本」もある。

ただ、身内の間でふだん使うには、長くて呼びにくい。村の中で短い本名で呼び合っていた伝統が、ニックネームという形で復活し、広がることになった。

神田外語大学の重富スパポン元教授
神田外語大学の重富スパポン元教授=2025年5月、東京都台東区、小暮哲夫撮影

あだ名は、呼びやすさ、響きなどで決める場合が多く、現在では外来語由来も多い。たとえば、「ゴルフ」「ベンツ」「アイス」などユニークだ。「ミミ」「アキ」など日本語から来たものもある。

タイ人たちは、どうとらえているのだろう。

チーズさんは「同じニックネームの人に会ったことがない」と言い、ニックネームは「自分の名前」だという意識が強いと言った。本名はと言えば「ニックネームほど自分らしいとは感じない。フォーマルな印象があるのと、チーズの方をよく使っているから」と言う。

ネーンさんの場合は、同じニックネームの女性は少なくないというが、「小さいときから使ってきたから愛着がある」。一方で、「本名は親の希望が込められている。お坊さんにお願いしてつけてくれたのでずっと大事にしたい。かしこまった場では使うため、社会的な自分を表すものでもある」と話した。

ニックネームと本名の関係について、スパポンさんは、時代の変遷があると指摘する。

「50代以上のタイ人は、自分のアイデンティティーとして、ニックネームより本名が大切、と感じるのでは。ただ、下の世代は、ニックネームが本名と同じか、それ以上の位置づけになっているかもしれない」

一方で、成長して大人になると、本名に込められた意味もわかり、その大切さを理解する、という一面もあるという。「だから、ニックネームと本名、どちらかがなくなるようなことはないと思います」