前日まで降っていた雨が上がり、熊野の山々の稜線(りょうせん)から蒸気のような雲が立ち上っている。
雨にぬれた森の緑は、さらに色を濃くした。アメリカ・コロラド州から来たバーバラ・カラマニアンさんは、82歳とは思えない軽い足取りで木々の間を進んでいく。後ろから娘のロリさん(58)がついてくる。10月17日、ふたりが熊野古道・中辺路(なかへち)を歩き始めて今日で3日目だ。
「数年前、アメリカの雑誌で熊野古道を知った。森の写真と、巡礼路の歴史を知り、ぜひ訪れたいと思っていた」とバーバラさん。この日は「発心門王子(ほっしんもんおうじ)」から、熊野本宮(ほんぐう)大社に向かって約7.5キロの道のりを歩く。
前夜、泊まった民宿で、私はバーバラさんとロリさんに出会った。ふたりが熊野古道をどう歩くのか知りたくて、一部の旅程を一緒に歩かせてもらうことにした。天候などによっては、一部の急峻(きゅうしゅん)な道を避けて路線バスに乗り、歩き始めのポイントまで行く人もいる。バーバラさんとロリさんも、この日はバスで起点の場所へ移動した。
地元のバスの中は山歩きの装備をした海外の人たちでいっぱいだ。
バス停で降りて小さな集落を歩き始めた。日本の田舎の風景だが、外国の人たちの姿しかない。不思議な光景だ。森へ入ると、中は薄暗い。木々の根元をシダが覆い、この地域に雨が多いことを感じさせる。
歩きながら、バーバラさんは「熊野古道の歴史については勉強してきた」と言う。「この道は、エンペラーやサムライだけでなく、商人も庶民も、1000年以上にわたって歩いてきた。熊野古道にひかれたのは、こうした長い歴史のある巡礼路だったから」
何もない道のようだが、好奇心旺盛なバーバラさんは次々と目新しいものを見つける。地域の開墾の歴史を書いた石碑を見ると、「こんな大きな石をどうやって運んだのかしら」「ここにはなんて書いてあるの?」。道ばたに並ぶ地蔵に、「みななぜ赤いエプロンをしているのかしら」。
次々と飛んでくる質問に、私もしどろもどろになる。
バーバラさんは、ときどきチョウに目を奪われている。黄色い2匹の小さなチョウが横切ると、足を止めて言った。「きっとだれかに会いに来たのね」。アメリカでは、チョウは死んだ人の生まれ変わりと考えられているのだという。
バーバラさんの話を聞いて、熊野がかつて「死者の国」だったという話を思い出した。
仏教民俗学者で熊野の研究者として知られた五来重(ごらい・しげる)の著作には、「古代人は死者の霊のこもる国がこの地上のどこかにある」と考え、熊野はまさに死者の国ととらえられていた、とある。来世の安楽を得ようと、入水、投身、焼身自殺などが行われた時代もあったらしい。不気味に聞こえるが、バーバラさんの話の後では、少し風景が違って見えてくる。
ブロンドの髪をピンクに染め、冗談を言って周りを笑わせるバーバラさんだが、「山を歩き始めたのは、苦しい時代があったからだった」と話し始めた。40歳の時に離婚し、働きながら1人でロリさんとその弟ジョンさんの2人の子どもを育てた。「生活が苦しかったから、週末に近くの山でハイキングをしたり、キャンプをしたりするくらいが楽しみだった」
やがて子どもたちは成人し、ロリさんは弁護士になった。そして80歳を超えたいまも、子どもたちと海外に足を延ばし、ハイキングをしながら、その土地の文化を楽しむ旅を続けている。中国では万里の長城に登り、カンボジアでは農村地帯を、タイではジャングルを歩いた。来年はアイルランドを巡る予定だという。
「自然の中を歩き、その土地の暮らしや文化を知り、人と出会う旅が何より面白いのよ」
バーバラさんは「日本に来て、アメリカ人への反感がないことに驚いた」と明かす。戦時中は、家族みなが何らかの軍事産業に携わり、国を支えたことが誇りだった。「つらい時代だった。だれにとっても」。約80年後、バーバラさんは熊野古道を歩いている。そう考えると、年月を感じずにはいられない。
ロリさんは、この旅は自分たちにとっての巡礼みたいなものだと話す。
「宗教的な意味はないけれど、初めて訪れた日本で、文化や歴史を一から学びながら歩くことが、巡礼をしているような気持ちになる」
昼の休憩後、本宮へと向かうふたりと私は別れることになった。バーバラさんは「会えて楽しかったわ」と温かいハグをしてくれた。
ふたりがその後どんな旅をしたか、私はつぶさに知ることができた。ロリさんがフェイスブックに詳細に記録していたからだ。熊野那智(なち)大社に着いた翌日、ロリさんはこう書いた。
「長く歩いた最終日は、素晴らしい1日だった。特に、八咫烏(やたがらす)について知ったのが面白かった。日本で書かれた記録によると、八咫烏は3本の脚を持つカラスで、初代の天皇を熊野から大和へと導いたそうだ。八咫烏は目的地へ人を送り届け、願いをかなえるらしい。ネイティブ・アメリカンの文化にあるレイブン(ワタリガラス)の伝説を思い出した。母と私はこの旅を通じて、素晴らしい人びとに出会うという夢をかなえている」
2024年、訪日外国人の数は過去最高の約3500万人になるとの予測もある。観光地や繁華街は海外からの旅行者でいっぱいだ。だが、山と森、そして小さな集落だけの熊野古道にも遠く海外から人が集まる。
山を歩き、民宿に泊まり、また次の宿を目指す。そんな旅を体験するために歩いてみた。
世界遺産に登録20年
熊野古道は熊野本宮大社、熊野速玉(はやたま)大社、熊野那智大社の「熊野三山」などへと通じる参詣道の総称。熊野三山や高野山などとを結んでおり、紀伊半島の南半分に枝分かれするように広がる。
平安時代から鎌倉時代まで、政治権力を握った上皇が熊野詣(もうで)をする「熊野御幸(ごこう)」が広がり、これが庶民や武士にも広がって、「蟻(あり)の熊野詣」と呼ばれる「ブーム」になった。
多くが、京都から紀伊半島の西側を海岸線沿いに南下し、紀伊田辺に出る。田辺市によると、そこから東に内陸部の山へ入り、熊野本宮大社に詣でる。さらに、熊野川を舟で下り、熊野速玉大社に詣で、海岸線沿いを歩いて熊野那智大社に参拝するのが「中辺路(なかへち)」。そして、歩いて熊野本宮大社へ戻り、京都へ帰った。
途中には「王子」と呼ばれる神社や祠(ほこら)が数多くあり、いまはそれを目印に歩く。田辺からさらに海岸線を南下して熊野那智大社へと向かう「大辺路(おおへち)」や高野山から熊野へと向かう「小辺路(こへち)」というルートもある。
2004年、熊野古道を含む「紀伊山地の霊場と参詣(さんけい)道」がユネスコの世界文化遺産に登録された。登録された地域は和歌山、奈良、三重の3県にまたがっている。