西ドイツの人はベルリンの壁崩壊後も東ドイツの人に対して「あなたたち東ドイツ人はこういう人である」と何かとレッテルを貼ってきました。
フンボルト大学ベルリン移民統合研究所(BIM)の社会学者Daniel Kubiak氏は「東ドイツのアイデンティティー」について研究しています。
Kubiak氏は、東ドイツの人が自分自身について持つ自己感(自己像)というのは、ドイツの西側の州の「あなた(東ドイツの人)はこうである」という決めつけによって影響を受けていると指摘します。
結果として、東ドイツ人自身も、壁がなくなってから何十年も経つのに、「東ドイツ人としてのアイデンティティー」をむしろ強く感じるようになった面もあります。
「東ドイツ」といってもアイデンティティーは多様
ドイツの主要メディアには東ドイツ出身者が少ないため、メディアが「東ドイツ当事者の声」を拾う時は、そのスポットの当て方が偏っていると言われてきました。「前編」に書いたように「東ドイツは右寄りである」ということを中心にスポットが当たることが少なくありません。
Kubiak氏はシュピーゲル誌(シュピーゲル誌、2024年、10号)のインタビューで「東ドイツの人に共通する唯一のことは『東ドイツ』の部分です」と語っています。
学術的にも、現在「誰が東ドイツ人であるか」の定義はありません。ドイツの経済商業誌Handelsblattでは「『東ドイツ人』というのはザスニッツ(北東部の島にある港町)やゲルリッツ(ポーランドとの国境の都市)、ズールといった(東ドイツの)地域に生まれた人々のことなのか?それとも先祖が東ドイツにいて、(両親や祖父母などが)今でも東ドイツの地域に暮らしている必要があるのか?それとも本人にドイツ民主共和国の時代を経験したという要素も必要なのか?それとも自分のアイデンティティーが『東ドイツ』であることなのか?」と疑問を呈しています。
つまり厳密にいうと、東ドイツ人という定義はそもそもなく、「東ドイツ」といっても多様だということです。
壁が壊れた前の東ドイツで育った人は多かれ少なかれ「似たような経験」をしてはいるものの、当たり前ですが、考え方は多様です。前述のKubiak氏はこう結論づけています。「東ドイツ人というふうに、断定して言い切る形での東ドイツ人というのは存在しないのかもしれません」
声を上げ始めた当事者たち
今は「自分で発信できる時代」です。近年、SNSやポッドキャストを通して東ドイツの地域出身の人が自ら「東ドイツ人という存在とはどういうものなのか」「東ドイツ人のアイデンティティー」について積極的に発信するようになりました。
近年ドイツでちょっとした有名人になっているのは、アーティストのデニー・フレデ氏と大手企業勤務のアレキサンダー・デルノ氏の男性2人です。ケルンに住んでいる彼らは2020年から2人で「Ostkinder 80/82」というポッドキャストをやっています。日本語に訳すと「東キッズ80/82」です。
2人は子供時代を「旧共産圏だった東ドイツ」で過ごし、ドイツ統一後の2000年代の初めに(西側である)ノルトライン=ヴェストファーレン州に移り住みました。
そんな2人は定期的にポットキャストで、時には自分たちの幼少期も振り返りながらostdeutsch sein (東ドイツ人であること)をテーマに軽いタッチで自分たちの経験を発信しています。
2人のポッドキャストが始まったのは「コロナ禍」が一つのきっかけではありましたが、実際にはもうずっと前に「きっかけ」はありました。
2人とも東ドイツからノルトライン=ヴェストファーレン州に引っ越しをした時から「自分は周りの人とは違う」と疎外感を感じていました。そして「自分が周りのドイツ人とは違うこと」について、周囲の人たちが必ずしもそれを歓迎していないことにも気付いていました。だから「自分たちにはostdeutsch(東ドイツ)というアイデンティティーがあり、西ドイツで育った人とは違う」という思いこそが実は「本当の意味でのきっかけ」でした。
「東ドイツの方言」で積極的に発信
フレデ氏はシュピーゲル誌のインタビューで次のように語っています。「同性愛者である僕は地元ゾンダースハウゼン(旧東ドイツの町)にいた頃は大変でした。保守的な土地柄なのでいじめられました」
その後、フレデ氏はゲイの人にとって住みやすく、居心地が良いドイツ西部ケルンに引っ越しましたが、今度は「自分のアイデンティティーが西ドイツ人ではなく東ドイツ人である」ことに気付き、ケルンに「すんなり、なじむ」というわけにはいきませんでした。常に違和感を抱え続けていたのです。
ケルンに住みながら、フレデ氏は自分の東ドイツの故郷にも頻繁に帰っています。そんな中で、地元でも「ただ時間が止まっているわけではなく、オープンな方向に変わってきている」と感じていると言います。地元には父親がかつて住んでいた平屋の一軒家があり、フレデ氏はここを自分でリフォームしているのです。お気に入りのこの場所からポッドキャストを収録することもあります。
ポッドキャストでフレデ氏は、西に来た時点から話さないようにしてきた東の方言である東部チューリンゲン州の方言で話すことにしました。ケルンに住み始めて以来、ずっと「人前で東の方言が出ないように」と気にして、彼は長いあいだ自分の方言を封印してきました。でも今は「東ドイツ人のアイデンティティーとは何か」をテーマにポッドキャストで積極的に発信をしていく中で「東ドイツの方言で堂々と発信すること」を決めたのです。
「右翼化する東ドイツ」について
フレデ氏は「東ドイツ(の地域)について多くの人が危惧している右翼化」について、こう語っています。「もちろん(東側の)Rechtsruck(多くの人が「右」に走りがちな現状、「極右」も含む)については僕も危惧しています」
AfD(Alternative für Deutschland「ドイツのための選択肢」)の支持者は東ドイツの約30%ではあるものの、フレデ氏はこうも言います。「チューリンゲン州にいても体感としてこの30%の人に出会ってしまった、という経験をしたことはありません。逆にいうと、AfDを支持していない層が70%もいる、という喜ばしい現実もあるわけです。その70%は僕に勇気を与えてくれています」
一緒にポッドキャストをしている彼の友達のデルノ氏も似た意見です。デルノ氏が腹立たしいと感じているのは、ドイツのメディアで「東」が語られる時「(極右などの話ばかりで)東ドイツの良いところがほとんど取り上げられないこと」です。たとえば東ドイツの一般の人の社会奉仕やボランティア活動についてメディアが取り上げることはほとんどありません。
デルノ氏はこう続けます。「AfDは東ドイツの党ではありません。AfDの存在は東だけではなく、ドイツ人全員にとってある種の挑戦状なのではないでしょうか」
前述通り、ドイツのメディアは長年「東ドイツの地域は右翼的」と報じてきました。確かに西側の地域よりもAfDの支持率は高くなっています。でも近年、前述のポッドキャスターのように東ドイツ出身の当事者の発信が増えたこともあり、「東ドイツ=右翼ではない」ことにもスポットが当たるようになりました。2024年9月、実際にそれを証明するかのようなニュースがありました。
そのニュースとは、東部ザクセン州の州議会選の選挙結果です。選挙の前、ドイツでは「東部の州でAfDが当選する」とメディアを中心に国中が予測をしては大騒ぎをしていました。でも、ふたを開けてみれば、メルケル元首相が率いたキリスト教民主同盟(CDU)が約1ポイントの僅差で勝っています。州都ドレスデンでは、CDUに投票した人は前回2019年より4.1%も増え、30.9%になりました。(2番目はAfDで22%です。)
そしてブランデンブルク州ではショルツ首相も所属する社会民主党(SPD)が勝っています。そもそも同州では1990年のドイツ統一以降ずっとSPDが州議会で第1党の地位を維持しています。長年「次の選挙ではAfDが勝つかもしれない」と言われつつ、ずっと中道左派のSPDがトップなのです。
ただ、チューリンゲン州ではAfDが勝ち、2013年の結党以来、初めて州レベルで第1党になりました。
「東ドイツの地域」にとどまらない「東ドイツらしさ」
前編に書いたように、壁がなくなった後、西ドイツで生まれ育った人々の中には、ドイツ民主共和国の頃の生活やエピソードは「なるべく早く忘れたほうがよい」と考える人が多くいました。
そんななか、前述のポッドキャスターのフレデ氏も今なおケルンに住みながら「東ドイツのアイデンティティー」について考え続ける人の一人です。
彼はチューリンゲンでは「個人を見てもらえる」と感じています。そして次の興味深い発言をしています。「1989年に壁が壊れて以来、何百万人もの人が東ドイツの地域を去り、西側のドイツの色んな地域に住んでいます。そう考えると、ドイツ全国に『東ドイツ』が存在しているといえます。東ドイツのメンタリティーや文化は東ドイツの地域にしかないと考えるのは、少し浅い考え方かもしれません」
「東ドイツがすぐそこにある」のはドイツの中だけにとどまりません。東ドイツのザクセン=アンハルト州の出身で政治学者のStefan Krabbes氏は数年前からベルギーに住んでいます。彼はドイツの世間が持っている「東ドイツは右寄り」というイメージを払拭するためにSNSで#DerAndereOstenというハッシュタグを作り、東ドイツについて発信しています。
Der andere Ostenとは日本語に訳すと「(みんなの想像とは)ちょっと違った東ドイツ」です。
このハッシュタグを用いて多くの東ドイツ出身者が「自分の体験した東ドイツ」をアップしています。政治的なことも含まれますが、東ドイツの食事や音楽、ワインに関する投稿もあります。投稿者の中には東ドイツ在住の人もいれば、東ドイツ出身者だけれどKrabbes氏のように今は違う土地で生活している人もいます。
「ほんとうの統一」までの長い道のり
ベルリンの壁が壊れたとき、筆者は13歳で当時の西ドイツのバイエルン州に住んでいました。テレビでは連日ニュース映像が流れていましたが、南ドイツであるバイエルン州はベルリンとは地理的に離れていることもあり、学校の先生も周りの大人もどこか「人ごと」だったような印象があります。
壁が崩壊した後、東ドイツから転校生が来るわけでもなく、通っていたギムナジウムでも特に統一後のドイツについて、特別な授業はありませんでした。東ドイツの人とのかかわり方について何かを習ったこともありません。
つまりドイツにいながら東ドイツとの接点はほとんどありませんでした。振り返ってみると、こういったことが後の「温度差」につながっているのではないかと思うことがあります。
温度差といえば、こんな話もあります。日本人は壁の崩壊前に生まれたドイツ人に会うと割と気軽に「東ドイツ出身ですか?それとも西ドイツ出身ですか?」と聞く人が多い気がします。でも実は、ドイツ人同士で「西ドイツ出身ですか?東ドイツ出身ですか?」と聞くことは「暗黙の了解でタブー」です。
ある日本人女性がかつてドイツの会社で働いていた際、純粋な興味からドイツ人の同僚に「東ドイツ出身ですか。西ドイツ出身ですか」と聞いたところ、それを見ていたドイツ人の上司から今後は聞かないようにとたしなめられたことがあると話しました。念のために言うと「どこの街の出身なのか」を質問することに問題はありませんが、「西?それとも東?」という聞き方はタブーだとされています。
現在にいたるまで「東ドイツ」に関して色んなムーブメント(イニシアチブ)がありますが、その中でも大きな影響力を持つのが“Wir sind der Osten”(和訳「我々が『東』だ」)というメラニー・シュタイン氏というジャーナリストやプレゼンターであり心理学者でもある女性が立ち上げたネットワークです。
彼女自身は自分のことを説明する言葉としてostdeutsch(東ドイツ、または東ドイツ風)という言葉を使うのは「ざっくりしすぎていて正確性に欠ける」という考えです。
シュタイン氏はこう言います。「私はブランデンブルク州に生まれ、メクレンブルク・フォアポンメルン州で育ち(どちらも東ドイツ)、その後、ケルン(西ドイツ)とウィーン(オーストリア)で大学に通いました。私自身は自分のことをMecklenburgerin(東ドイツのメクレンブルクの人)だと思っていますし、ヨーロッパ人、そして北ドイツ人でもあると思っています。つまり、どれもが私のアイデンティティーなのです。自分の(東ドイツの)地元を離れたり、ドイツを離れたりした場合でも、地元や故郷に対する思いや愛は変わらないことが多いのです。東ドイツではないところにも東ドイツ人はいるわけです」。これは前述のフレデ氏、デルノ氏やKrabbes氏にも通じる話です。
シュタイン氏は「かつての東ドイツだった地域」を語る時、また「東ドイツ出身の人のアイデンティティー」について考える時、複眼的に見るようにしてほしい、と訴えています。
当事者たちの発信によって、その声がドイツ中に届くようになり、「今になって東ドイツの心を理解した」という人も多いのです。統一から30年以上経って、ドイツはようやく「本当の意味での統一」を成し遂げつつあります。