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ベルリンの壁崩壊35年 統一の歓喜が失望に変わった理由 「東側」の人々が抱えた苦悩

ニッポンあれやこれや ~“日独ハーフ”サンドラの視点~ 更新日: 公開日:
歓声をあげながら「ベルリンの壁」を越える東ベルリン市民=1989年11月、東西ベルリン通過地点、朝日新聞社
歓声をあげながら「ベルリンの壁」を越える東ベルリン市民=1989年11月、東西ベルリン通過地点、朝日新聞社

「勘違い」で崩壊したベルリンの壁

35年前の1989年秋、長年政権に対して不満を抱えてきた東ドイツの人々の怒りはピークに達し、数週間前から現地では「言論の自由」や「外国への自由な渡航」を求めるデモが行われていました。

11月4日にはドイツ民主共和国の首都だった東ベルリンのアレキサンダー広場で50万人以上が「言論と集会の自由」を求める大規模なデモに参加しました。

ベルリンの壁が崩壊した背景には、間違いなく人々の国に対する不満がありましたが、壁が壊れた直接の原因は当時、社会主義統一党中央委員会の報道官だったギュンター・シャボフスキー氏による「勘違い」でした。

当時、東ドイツ政府は人々の不満を受けて「旅行許可に関する出国規制緩和」を決めましたが、当時これはまだ「政令案」であり、閣議決定したものではありませんでした。すなわちまだ正式な政令ですらなかったのです。

しかし11月9日の夕方に行われた記者会見中、シャボフスキー氏はあろうことか「11月10日からの旅行許可に関する出国規制緩和」ではなく「ベルリンの壁を含め、直ちに全ての国境通過点から出国が認められる」と誤って発表してしまいました。

記者会見で国境開放を発表した社会主義統一党中央委員会の報道官ギュンター・シャボフスキー氏=1989年11月9日、ロイター
記者会見で国境開放を発表した社会主義統一党中央委員会の報道官ギュンター・シャボフスキー氏=1989年11月9日、ロイター

実はシャボフスキー氏は事前の会議を途中で中座していたため、詳細を完全に把握しきれておらず、事実関係について勘違いしたまま記者会見に出席し、そのまま誤って発表をしてしまったのです。

記者会見は東ドイツの国営放送、及び西側メディアでも生中継されていました。自由を切望していた東ドイツの人々はシャボフスキー氏の発言を知ると、東西ベルリンの境にあった検問所に殺到します。最初は数百人だったのが瞬く前に数千人に増え、9日の21時を過ぎた頃には数万人が集まっていたと言われています。

群衆は数時間に渡り「シャボフスキーが国境を開けると言っていた」「ゲートを開けろ」と国境警備隊に詰め寄ります。国境警備隊は上の指示を仰ぎますが、待たされるばかりで明確な指示は得られませんでした。

壁の前に集まった群衆は興奮状態で、暴走や圧死による事故の発生を恐れた検問所の責任者だった国境警備隊のハラルト・イエーガー氏はついに上官に「人が多いためこれ以上、検問所の維持はできない」「今から通行を許可する」と手短に伝え、ゲートを全て開けることを指示。そしてゲートが開いた瞬間、「ドイツ民主共和国」という国家は事実上、消滅したのです。1989年11月9日の22時45分のことでした。

1989年11月9日、ベルリンの壁が実質的に崩壊した。通行が自由になり、翌10日明け方近くまで両国市民で埋め尽くされた東西ベルリンの通過地点。後ろは東側の監視塔
1989年11月9日、ベルリンの壁が実質的に崩壊した。通行が自由になり、翌10日明け方近くまで両国市民で埋め尽くされた東西ベルリンの通過地点。後ろは東側の監視塔=1989年11月10日、東ベルリン、朝日新聞社

その約1年後の1990年10月3日、東ドイツの地域の各州がドイツ連邦共和国に編入され東西ドイツは統一しました。

その頃、ドイツ全土がEuphorie(高揚感、多幸感)に包まれていました。「ドイツのこれから」について懸念の声もあったものの、全体的な雰囲気としては東でも西でも多くの人が「壁がなくなって本当によかった」「新たなスタートが切れる」と心の底から喜んでいました。

西ドイツで生まれ育った人々の「上から目線」

でも実際には最初から「ボタンの掛け違い」があったのです。

東ドイツの人々が「自由」を手にして喜んでいたのは事実です。でも当たり前ですが、彼らは「自分たちが育った国の思い出や価値観」を忘れたわけではありませんでした。

何十年間もドイツ民主共和国という国で生活をし、そこで教育を受け、仕事をし、生活を営んできたわけです。壁の崩壊とともに新しいスタートを切ったとはいえ、東ドイツの人にとって「過去は全部否定すべきもの」ではありませんでした。

ところが、もともと西ドイツで生まれ育った人たちは当たり前のように「新しい体制になったのだから、東ドイツの人は過去のやり方は全部忘れるべきだし、忘れるはず」と簡単に考えがちでした。無邪気ともいえますが、残酷ともいえます。なぜならば、その考え方の背景には「同じドイツ連邦共和国の「新たな国民」(それは東ドイツ出身の人)となった人たち」に対して、「あなたの東ドイツでの思い出に価値などない。早く忘れて」という明らかな「上から目線」が見られたからです。

当時、ドイツでよく聞かれたジョークには東を「おちょくる」ものが多々ありました。

筆者は当時の西ドイツであるミュンヘンで育ちましたが、冷戦時代はもとより、壁が壊れてからしばらく経っても、周囲の人がよく「バナナ・ジョーク」を言っていたことを覚えています。

「バナナ・ジョーク」とは、「バナナがなぜ曲がっているか知ってる?それは東ドイツを避けるように遠回りをしてきたからバナナはアーチ状になったんだよ」というもので、いたるところでこのジョークを耳にしたものです。

そのジョークの背景には実際に冷戦時代の東ドイツでは「バナナを手に入れることが困難」という事実がありました。バナナを手に入れるためには主に資本主義の国から輸入をする必要がありましたが、東ドイツの政府は政治的および金銭的な理由から「バナナ」を東ドイツに輸入しませんでした。

同じ共産圏のキューバから当時の東ドイツにバナナが入ってくることはありましたが、古くてあまりおいしくなかったと言われています。そのため冷戦時代の東ドイツでは自由の象徴として「バナナを食べたい」と考えていた人々が多かったのもまた事実で、東西ドイツの統一後は、東ドイツだった地域のバナナの消費量が一時は一気に上がり、西ドイツの消費量を上回りました

東ドイツのスーパーマーケットの果物売り場に山積みにされたバナナ。「ベルリンの壁」が崩壊した直後、西ベルリンを訪れた東ドイツの女性がテレビのインタビューに「バナナが安くてたくさん買えるのがうれしいと答えていたが、いまは「西」のスーパーと変わりがない
東ドイツのスーパーマーケットの果物売り場に山積みにされたバナナ。「ベルリンの壁」が崩壊した直後、西ベルリンを訪れた東ドイツの女性がテレビのインタビューに「バナナが安くてたくさん買えるのがうれしいと答えていたが、いまは「西」のスーパーと変わりがない=1990年9月ごろ、東ドイツ、朝日新聞社

そのような「事実」があったのは確かなのですが、もともと西側で生まれ育った人は、そのような現実をちゃかしジョークにしていました。

「東の人と会う時はバナナでもあげておけば喜ぶんじゃない?」と決して好意的ではない発言もよく聞かれたものです。それは明らかに物質的に恵まれなかった国で育った人のことを「下に見る」行為でした。

困ったことに、もともと西ドイツにいた人たちの多くは自分たちが「上から目線」であることを自覚していませんでした。でも東ドイツで生まれ育った人たちは最初から、この西ドイツの人たちの「上から目線」に傷ついていましたし、苦々しく思っていたと言われています。

「築き上げたものが失われた」と感じた東の人々

共産圏時代のドイツ民主共和国時代に就業していた人の多くがドイツ統一後に職を失いました。国の体制が変わったことによる会社の破産清算、倒産、閉鎖が相次いだためです。

結果的として壁の崩壊後、東ドイツでの失業率が高くなってしまいました。そんな状況のなか、東ドイツでは多くの人々が「こんなはずではなかった」と失望が広がります。

社会学者のRaj Kollmorgen氏はシュピーゲル誌(2024年、10号)のインタビューの中で「不安が募るのは当たり前です。職を失えば同僚などとのつながりもなくなってしまいます。統一後の東ドイツで「今までの社会の中でのつながり」を失った人は多かったのです」と語っています。

壁の崩壊後、約200万人が東ドイツだった地域から、もともと西ドイツだった地域に移り込んでいます。新たな地で運良く仕事にありつけても、「すんなりとなじむ」というのは困難でした。見下されることを恐れ、東ドイツの方言をなるべく封印しようとしていた人も多くいました。

「かつて東ドイツだった地域」の右翼化

その一方で、壁の崩壊後、もともと東ドイツだった地域は徐々に「右翼化」していきます。

失業率が高く、生活の質が上がらないことについて「こんなはずではなかった」という思いを強くする人が増えました。ドイツ民主共和国(東ドイツ)の時代、「東ドイツに定住する外国人」はあまりいませんでした。東ドイツは、社会主義国家だったため、同じ社会主義国であるベトナムや北朝鮮から留学生が来ることはあっても、彼らは「何年かすると国に帰る外国人」でした。

それに対して西ドイツでは日本が高度成長期を迎えたのと同じ時期、西ドイツも高度成長期を迎えており「仕事はたくさんあるが労働力が足りない」という問題が生じていたため、1960年代から1970年代にかけてイタリア、スペイン、ギリシャ、当時のユーゴスラビアやトルコから多くの労働者がドイツに住むようになりました。

数で多かったのが後者のトルコ人で、彼らの多くは後にトルコから家族を呼び寄せドイツに定住します。移民以外にも、西ドイツは昔から独裁政権下で政治的に迫害された人、戦争や内戦が起きているアフリカや中東諸国からの難民を数多く受け入れてきました。西ドイツでは「外国人が長くドイツに住むこと」は珍しいことではなく、西ドイツの人はある意味「外国人慣れ」していたわけです。

右翼政党「ドイツのための選択肢」(AfD)の共同党首を務めるクルパラ氏は、東部ゲルリッツの広場で開いた選挙集会で「私は右側に住めて幸せだ」と書かれたTシャツを掲げた
右翼政党「ドイツのための選択肢」(AfD)の共同党首を務めるクルパラ氏は、東部ゲルリッツの広場で開いた選挙集会で「私は右側に住めて幸せだ」と書かれたTシャツを掲げた=2024年8月31日、ドイツ東部ゲルリッツ、ロイター

しかし東ドイツの人々が壁の崩壊後に自分たちが「取り残されている」と感じている中で、外国人に対する不満が大きくなります。「自分たちが『統一後の新しいドイツ』にまだまだうまく統合できていない」「国からのサポートも十分ではない」と感じているにもかかわらず、その間にも外国からはどんどん難民や移民がやってきます。

たとえばシリアからやってきた子だくさんの難民家族が、ドイツ政府の支援を受けて広めのマンションや一軒家に住んでいることがあります。それは家族の規模に応じた広さの家であるわけですが、(一部の)東ドイツの人からすると「なぜドイツとは本来縁のない人、『きのう今日でドイツにやってきた外国人』を国(ドイツ)は手厚くケアするのか」「なぜ昔からドイツに住んでいるドイツ人の自分たちは放ったらかしにされているのか」という考えにつながりました。

「もともと西ドイツだった地域」に比べ「かつてはドイツ民主共和国だった地域」では右翼政党「ドイツのための選択肢」(AfD)が多くの支持を得ていました。この政党は外国人排斥などを訴えているためドイツの連邦憲法擁護庁(BfV)の監視下に置かれています。

東ドイツの人に人気がなかったメルケル元首相 

東ドイツの人の中には、壁が崩壊してからも今まで通りの質素な家に住み、「毎日を生きていくことに精いっぱい」だった人が少なくありません。そんな中で、人権弾圧や紛争を逃れてきたとはいえ、いきなり「外国」からやってきた人がドイツで手厚い支援を受けていることに「納得できない」という人も東ドイツには多くいました。東ドイツの人々が「忘れられた」「取り残された」という思いを強くする中で失望が深まり、人々が一体となって不満を抱えていたわけです。こういった状況についてシュピーゲル誌はTrotziges Wirgefühl(和訳「ふて腐れた我々意識」)という表現をしています。

ドイツに多くの難民を受け入れることを決断したメルケル元首相はドイツ民主共和国(東ドイツ)の出身でした。メルケル元首相はドイツに多くの難民を受け入れることを決断しました。しかし東ドイツだった地域では「メルケル氏は東ドイツ出身なのに、外国人を優先して東の人たちのためにはあまり動いてくれなかった」と感じている人が少なくありません。

シュピーゲル誌(2024年、10号)はメルケル元首相が「自分が東ドイツ出身であることに必要以上にスポットが当たらないようにしていたのではないか」と分析しています。自らのバイオグラフィー、つまり「自分が東ドイツ出身であること」を用いて「政治的に動くこと」をメルケル氏自身が良しとしていなかったのではないか、と言われています。

任期中、メルケル氏が「東ドイツ」に触れることはそれほど多くありませんでした。ただ首相としての任期の終わりが近づいてきた頃、彼女は一度こう語りっています。それは2021年のドイツ統一記念日のスピーチでのことでした。

首相退任を目前に、ドイツ統一31周年の記念式典でスピーチを行ったアンゲラ・メルケル首相(当時)
首相退任を目前に、ドイツ統一31周年の記念式典でスピーチを行ったアンゲラ・メルケル首相(当時)=2021年10月3日、ドイツ東部ハレ、ロイター

メルケル元首相は「ある本の中に、私が東ドイツで育ったことがBallast(和訳「重荷」余分な重荷、重いわりには価値がないという文脈で使われる)であるかのようなネガティブな書き方がされていました。でも、統一前の東側の人生や生活に価値がないというような見方には同意できません」と言い切っています。この時メルケル元首相はこうも語っています。「(壁がなくなった後に)東ドイツの人は新しい道を歩もうとしましたが、多くの道は残念ながら『行き止まり』でした」

当時、多くの東ドイツの人がメルケル氏のこの言葉に共感した一方で、「なぜもっと早いタイミングで東ドイツの人々に寄り添うことをしなかったのか」という複雑な思いを抱く人もいたと言われています。

いつからかドイツでは「Neue Bundesländer(壁崩壊後の旧東ドイツの地域を指す言葉。日本語に直訳すると「新連邦州」「ドイツの新しい州」または「新しくドイツに加わった州」)といえばAfD支持。右寄りで外国人が大嫌い」というイメージが定着してしまいました。

東ドイツの地域に住む人々を代弁するかのように2018年にはザクセン州の厚生大臣だった社会民主党(SPD)のPetra Köpping 氏が「Integriert doch erstmal uns!」(「まずは我々を統合しろ!」)というキャッチーなフレーズを使いドイツで議論を巻き起こしたこともありました。このフレーズには「外国人の統合だけでなく、東ドイツの人をまず優先的に統合しろ」という意味合いがありました。

ドイツでは「多様性」が謳われていますが、たとえばドイツの多くの企業で「外国人」「女性」「身体障がい者」「LGBTQ」などに配慮することはあっても「東ドイツ出身者」は、どこかないがしろにされてきたところがありました。

ドイツの企業などが「東ドイツ出身者」への理解を深めるようになったのはつい最近のことですが、それも一本筋ではいかない部分があります。

今年2月、連邦首相府が採用に関する求人を出した際に「移民背景のある人間、そして東ドイツの人の多く応募してほしい」と呼びかけたところ、「移民背景の人と東ドイツの人を一緒くたにするのはいかがなものか」と物議を醸しました。

東ドイツ出身でザクセン=アンハルト州の首相であるReiner Haseloff氏は「壁が崩壊してほぼ35年が経ち、東西ドイツが統一してだいぶ経つのに、東ドイツの人は移民と同列に語られるのか?」と不快感をあらわにし、Bundesbeauftragten der Bundesregierung für Ostdeutschland(和訳=東ドイツ担当連邦政府受託官)のCarsten Schneider氏に苦情を言いました。連邦首相府に東ドイツ出身者が少ないことから、前述のような求人が出された背景があるわけですが、「多様な人材を募集する」ことも一筋縄では行かないのです。

このようにいわゆる「西側の感覚」で「良かれと思ってやったこと」が当事者の不評を買うこともあり、統一後35年経った今もなかなかシビアな状況なのです。

1989年11月9日のベルリンの壁崩壊の混乱の最中、誰一人亡くならなかったのは本当に奇跡的なことです。それでも東西ドイツが統一したことによって、自動的に誰もが幸せになったわけではありませんでした。

後編】では近年、声を上げ始めた東ドイツ出身者の声を紹介するとともに、統一から30年以上が経ち、ようやく本当の意味での統一を成し遂げつつある現在のドイツの状況についてお伝えします。