「全力で、相当の時間を仕事に費やしたにもかかわらず、自分が大統領候補リストに載っていないことに非常に失望しています。@PaulKagame、なぜ出馬させてくれないのですか?あなたが私をだまして選挙運動の権利を奪ったのは、これで2度目です」
6月7日、現政権を批判し、国内の人権状況などの改善を求めるグループ「国民救済運動」(PSM)を率いる実業家ダイアン・ルウィガラ氏はXでそう発言した。
After all the time, work and effort I put in, I am very disappointed to hear that I am not on the list of presidential candidates. @PaulKagame why won't you let me run?
— Shima Diane Rwigara (@ShimaRwigara) June 7, 2024
This is the second time you cheat me out of my right to campaign.
Ndababaye.
1994年7月、ジェノサイド終焉後に樹立された新政府で、カガメ氏は副大統領兼防衛大臣に就任した。少数派ツチで反政府勢力の「ルワンダ愛国戦線」(RPF)リーダーだった同氏は、多数派フツ出身ながらツチ主導の暫定政府で大統領を務めたパストゥール・ビジムング氏以上に実権を行使していた。
カガメ氏は、2000 年にビジムング大統領を辞任させた後に大統領に昇格。2003年、2010年と2017年に実施された大統領選挙では、カガメ氏はそれぞれ95%、93%と98.8%と圧勝した。
これらの選挙を、ベルギー人のルワンダ研究者は「茶番劇」、そしてルワンダ出身の国際人権法学者ジョセフ・セバレンジ氏は「やらせ」と呼んでいる。
1997~2000年にルワンダ政府で、大統領、副大統領に次いで3番目の地位の議会議長を務めたセバレンジ氏は、ルワンダの選挙がまるでサッカーの試合のようなものだと言う。なぜなら、「主催者は競争相手でもあり、他の競争相手を選び、人々に試合に参加するように命じる。誰もが事前に決められた勝者を知っているが、試合が本物であるかのように振る舞わなければならない」からだ。
元RPF高官によると、RPFが民主的な選挙実施に消極的なのは、人口で勝るフツの過激派を権力の座に就かせ、少数派ツチを再び危険にさらすのではないかという懸念があるためだ。
今回の選挙でカガメ氏に対抗して出馬が許された候補者は、前回2017年と同様に、民主緑の党のフランク・ハビネザ氏と、無所属のフィリップ・ムパイマナ氏の2人のみ。得票率はそれぞれ1%以下にとどまった。 両者は立候補を表明後、嫌がらせや脅迫を受けたという。
カガメ氏はいかに権力基盤を強化したか
カガメ氏とRPFは、巧みかつ、さまざまな方法で権力基盤の強化を図り、権力の座に居続けることができた。
まずRPFが1994年に政権奪取した際に、カガメ氏は自らのために政府内に副大統領職を設置した。1990年代前半の内戦中にルワンダ政府とRPF間に調印されたアル―シャ和平協定には、その両者で構成された新政府の発足が合意されたが、副大統領職は明記されていなかった。
次に、2003年憲法の101条は大統領の3選を禁じていた。この憲法に従えば、カガメ氏には2017年の大統領選挙の出馬資格はない。そこで、この制約を打破するために、2015年に憲法当該条文を改正した。
2017年、カガメ氏の大統領任期の延長を可能とするように求める国民の請願が大量に上下両院に送られた。その後、大統領任期を1期5年とし、2選まで可能とする(ただし、移行期間として7年の任期を1期置き、カガメ氏の出馬を認める)案が圧倒的多数をもって両院で可決された。
最終的に憲法改正案は国民投票に付され、98.3%の賛成をもって採択された。人権活動家らは、憲法改正の請願者の一部が署名を強要され、憲法改正に反対する人々が迫害されたと批判した。
この憲法改正により、カガメ氏は2034年まで合法的に大統領の座にとどまることが可能となった。しかし、そのまま終身大統領となることもあり得る。
その他、ルワンダに存在していた政党や活発な市民社会が1991~1993年、ジェノサイド、RPFの政権奪取、その後の軍事化、民族二極化と弾圧の結果、少しずつ消滅した。
RPFが1994年に新政府を樹立してから、政府当局は野党議員やジャーナリスト、その他の批判者に対して、恣意的逮捕、拷問、虐待、表現や結社の自由の権利を侵害し始めた。
そのため1995年初めから、多くの政治家、公務員や軍関係者らが亡命した。そこには前述のジョセフ・セバレンジ元議会議長も含まれる。ルワンダ国内の野党は排除されたため、亡命した政治家がヨーロッパを中心に政治運動を創設するようになった。
世界各国の政治権利や市民の自由を調査しているNGOのフリーダムハウスによると、ルワンダは「不自由(Not Free)」な国としてランクされ、2024年時点で100満点の内23点しか得点していない。同国の不自由さとは、下記の欠如を指す。自由で公正な選挙、野党が選挙運動を行う機会、自由なメディア、そして司法の独立だ。
これまでの各大統領選挙においてカガメ氏が圧勝できた要因として、ルワンダ政府による有力者の封じ込め、得票率の操作などの選挙不正、そしてRPFを批判する者の暗殺(未遂・計画)が挙げられる。それらを説明したい。
有力な対抗馬への立候補妨害
ルワンダの選挙法は、「誠実な人」(person[s] of integrity)のみが候補できると定めている。それはすなわち、ジェノサイドやジェノサイド・イデオロギー、差別、分裂主義、汚職の罪で有罪判決を受けていない人を指す。
2008年に制定されたジェノサイド・イデオロギー罪の処罰に関する法律は、ジェノサイドを否定したり、ジェノサイドのイデオロギーを助長したりする行為を禁ずる。しかしこの「イデオロギー」は、「RPFの戦争犯罪や人権侵害の疑惑の言及が含まれている」と指摘されている。つまり、RPF批判の封じ込めが合法化されていることになる。
そのためフツ、ツチ関係なく、RPF批判をする有力な対抗馬の立候補が妨害されている上に、RPFを支持してきた主な政党のみが選挙への登録が許されている。
上記のルウィガラ氏や他の野党党首数人は、分裂主義やジェノサイド・イデオロギーを助長していると非難されているため、彼らはルワンダ政府にとって当然「誠実な人」ではない。
ルウィガラ氏の父は、1990年代前半の内戦中、RPFに財政協力をしていた著名な実業家だった。が、その後RPFへの支援を拒否したために、カガメ大統領と緊張関係が生じて、2015年に「交通事故死」したとされる。遺族は、この死は政治的動機を有すると疑っている。
ルウィガラ氏は、カガメ大統領下の「悪いガバナンス」による不正行為や弾圧を批判してきた。2017年の大統領選挙に出馬を表明したとたんに、同氏のヌード写真がソーシャルメディア上に出回った。その目的は、同氏の評判をおとしめる誹謗中傷だと疑われている。ルウィガラ氏は写真は加工されたフェイクと述べている。
また無所属の候補者として立候補するには、少なくとも600人の登録有権者の署名と身元確認の詳細を提出する必要があるが、同氏の代理人が全国を回って必要な署名を集めた際に、脅迫されたり逮捕されたりした。
選挙委員会によると、2017年の選挙でルウィガラ氏の出馬が認められなかったのは、署名の真正性に疑義があったためだが、同氏はその疑惑を否定している。その後、ルウィガラ氏は偽造と反乱扇動の罪で逮捕・起訴され、妹と母も反乱罪で起訴され、1年以上も母親らと刑務所に収監されたが、2018年に無罪判決を得た。人権団体によると、どちらの容疑も政治的な動機によるものとみられる。
今回の選挙において、選挙管理委員会いわく、ルウィガラ氏が犯罪歴の陳述書の代わりに裁判所の判決のコピーを提出し、また同氏が提出した支援有権者の身分証明書の一部は、該当者が存在しないか、選挙人名簿のものと一致しなかった。ルウィガラ氏は、委員会のこれらの指摘は政治的動機に基づいていると主張している。
ルウィガラ氏の他に、「すべての人に発展と自由」の野党政治家のヴィクトワール・インガビレ氏も2010年と2024年の選挙で出馬が妨害された(2017年は投獄中だったために立候補できなかった)。
インガビレ氏は2010年の大統領選挙に出馬するために、長年生活していたオランダから単身帰国した。ジェノサイド・イデオロギーを助長し、分裂主義を扇動し、国を不安定化させる武装集団を結成した罪で同年起訴された。そのため、自身の野党登録ができないまま、8年間を刑務所で過ごした。
15年の禁錮刑判決を受けていたインガビレ氏は、カガメ大統領から恩赦を受けて2018年に釈放された。が、ルワンダの選挙法によると、6カ月以上投獄された人は公職に立候補することを禁じられている。2024年3月、キガリの裁判所は、同氏の大統領選挙出馬の請求を却下した。その他、インガビレ氏の党員5人が2017年以降、不審な状況で死亡または失踪した。
2003年の大統領選挙においては、ジェノサイド終焉後に発足された政府下の首相だったフォーステイン・トワギラムング氏(故人)が、カガメ氏の最大のライバルだった。1995年8月に内閣府会議で激論の後に氏は首相を辞職し、ベルギーに亡命した。その後、氏は選挙出馬のために帰国したのだが、国家保安官が氏の運転手と秘書に対して殺害を脅迫したために、何度か選挙運動を中断することを余儀なくされた。
投票用紙すりかえと得票率の捏造の証言
アメリカとコモンウェルスが派遣した選挙監視団によると、2003年と2010年の選挙も、それぞれ恐怖と脅迫の中で実施され、集計における透明性の欠如など、不正が指摘された。
選挙管理委員会はRPFの要員によって構成され支配されているため、不正は容易だとされる。不正の一例を紹介しよう。
カガメ氏の元ボディーガード2人の証言によると、投票日の2日前に、国軍が兵舎にて何百個もの投票箱に投票用紙を詰め込んだ。トワギラムング氏に投票した人に対して、ある役人が「時間を無駄にするな」と言って、カガメ氏に印を付けた投票用紙に取り換えられた。
カガメ氏の元側近の亡命者4人も、選挙の結果が事前に決定されていたことを明らかにした。
亡命者の一人が、英BBCのドキュメンタリー番組「Rwanda’s Untold Story」(2014年10月1日放映)のインタビューで、2003年の選挙が「やらせ」だったと述べている。
RPF元官房長「何が起きたかというと、我々は単に数字を出し合ったのです。私も関与していました」
BBC記者「つまり、何パーセントにしようかと話し合ったのですか?」
RPF元官房長「そうです。カガメは100%欲しかったようですが、他の人たちはそんなにいらないと言った。最終的にカガメは95%で落ち着きましたが、彼自身それだけ得票していないことを知っています」 BBCドキュメンタリー「Rwanda's Untold Story」
さらに筆者がルワンダ政府の元要員に聞き取り調査をしたところ、2010年の選挙の際に、ルワンダ政府関係者がコンゴ難民キャンプにて難民約1,000人に投票用紙に指紋を付けるよう強要した。これらの投票用紙は、カガメ氏以外の他の候補者に投じられた正当な票と入れ替えるために、ひそかに選挙管理委員会の事務所に運ばれた。
ルワンダ政治家の暗殺(計画)
RPFが率いるルワンダ新政府の「悪いガバナンス」や人権侵害については、1994年以降、現地の政治家が何度も指摘してきた。ガバナンスの改革に努めた政治家2人を紹介したい。
ルワンダ議会議長(1997~2000年)を務めたセバレンジ氏は友人に勧められて野党に入党し、たまたま空席が出た下院議員に選ばれ、さらに議長の職に就くことになる。絶対的な権力を持つRPFが、操りやすいと見てセバレンジ氏の議長就任を支持したといわれる。
ところがセバレンジ氏はRPFの言いなりにはならず、法の支配の確立を目指した。カガメ副大統領に疎んじられたセバレンジ氏は、RPF政権を転覆させようと、退位したルワンダ王の軍と手を組んでいるという根拠なきうわさによって辞任に追い込まれた上に、カガメ氏による自身の暗殺計画を耳にし、アメリカに亡命した。
その後、セバレンジ氏の解任に異議を唱えたジャーナリストらが続いて亡命し、続いて首相が解任され、ビジムング大統領が辞任に追い込まれ、大統領の相談役は死亡した。こうしてカガメ氏は大統領の地位を手にした。
1994年7月に内務大臣に就任したセス・センダションガ氏(故人)も、RPF新政府による殺害や「失踪」、治安の悪化を絶えず非難し、13カ月の閣僚在任中に400通以上のメモをカガメ副大統領に送った。
特にセンダションガ氏が介入した新政府の罪の一つが、1995年4月、ルワンダ軍による国内避難民キャンプでの虐殺だった。その虐殺は、国連PKOとNGO職員の目の前で3日間にわたって続いた。国内避難民の遺体を数えたオーストラリア人のPKOによると、その数は少なくとも4000人に上った。
センダションガ氏は大惨事を止めようと虐殺現場に駆けつけたのだが、ルワンダ軍に追い返された。その後、氏は国際調査委員会の設置を要請したが、カガメ氏によって阻止された。1995年8月、センダションガ氏はカガメ氏と激論した後、他の3人の大臣とともに解任され、上記のトワギラムング氏とともに亡命した。1996年に暗殺未遂にあった後、1998年、亡命先のケニアにて、ルワンダ政府関係者とみられる者によって暗殺された。
センダションガ氏以外に、2021年時点で少なくともルワンダ難民13人がヨーロッパやアフリカでルワンダ政府によって暗殺されたという疑惑が存在し、その他に難民の暗殺未遂と誘拐なども発生している。
このようなルワンダでの不正選挙、政府的弾圧、人権侵害が何度も報道・報告されているにもかかわらず、国際社会は長年、それらを黙認してきた。
その一つの要因として、国連が「ジェノサイド中、介入しなかった」「見捨てた」という間違った罪責感を持ち続けていることは既に指摘した。
それに加えて、人権団体らによると、ルワンダがアフリカの平和維持活動への最大の貢献国の一つとして、南スーダンとスーダン(ダルフール)における国連PKO以外に、中央アフリカ共和国とモザンビークにそれぞれ二国間協定を結んで軍派遣と関係しているという。
このようなルワンダの多国籍軍への貢献が、人権状況に対する国内外の批判をかわすために利用されてきた。上記のインガビレ氏も「多国籍平和維持活動への軍派遣というルワンダの献身ぶりは、外交関係を強化しただけでなく、同国の成功例というナラティブを拡散してきた。しかし、この入念に作り上げられた公的なイメージは、現実を反映していない」と指摘している。つまりルワンダは平和維持活動への参加を政争の具として利用してきた。
繰り返される歴史に懸念
筆者は2017年2月、セバレンジ氏にワシントンDCで対面したことがある。当時、アメリカではドナルド・トランプ大統領が就任したばかりで、「トランプ氏も問題人物だが、カガメ氏はそれ以上にひどい」という話で盛り上がった。
そのセバレンジ氏は最近のBBCのインタビューで、ルワンダの「悪いガバナンス」についてこう指摘した。「歴史が示すように、国家元首が国家機関よりも強い国では、権力の交代が暴力的になり、政権後の混乱期につながることがある」
確かに歴史は繰り返されている。
1972~1994年に大統領だったジュベナル・ハビャリマナ氏 も自身の出身地である国内北部や側近を特別扱いする独裁主義だったが、経済改革が成功していたことから「無害(benign)」とされ、拠出国の間では評判が良かった。現在のカガメ大統領が率いる開発の成功例も同様の評判を得ている。
民主主義の方法であるはずの選挙が悪用され、国民を分裂する武器となっている。今後のルワンダの行方、そしてコントロールできない同国に対して国際社会が黙殺している態度に強い懸念を抱いている。