ルワンダのジェノサイドの前、最中、そしてその後に何が起き、どのような影響を及ぼしたのか。問題の通説には、次の四つが挙げられる。
しかし、これらの通説はいずれも事実に反しているか、単純化しすぎている。30年経った現在もルワンダのジェノサイドには不明な点が多く、物事を単純に見ることを避けなければならない。
この記事では、ルワンダのジェノサイドの実態を理解するために、民族対立と、加害者と犠牲者に関する誤解について説明したい。その前に、ジェノサイド発生前に起きた主な出来事について簡潔にまとめる。
ルワンダの歴史的背景
ルワンダにはかつて、ツチの王が支配する王国が存在していた。この王国は、19世紀末に植民地化され、ドイツ領東アフリカに組み込まれた。第1次世界大戦後には国際連盟の委任統治領として、そして第2次大戦後には国際連合の信託統治領としてベルギーに支配された。
1959年、多数派フツのエリートが「少数派ツチという一つの人種」によって政治的に独占されていた封建制度に異議を唱え、ツチの王制を打破し、共和制を確立させる「社会革命」が起きた。多くのツチがルワンダ国外に避難し、その内の一人が現大統領のポール・カガメ氏だった。
1962年にベルギーから独立し、グレゴワール・カイバンダが大統領に就任する。南部出身のカイバンダが北部を優遇しなかったことから、1973年、ジュベナール・ハビャリマナ氏はクーデターで政権を掌握し、ハビャリマナ氏の出身地である北部に政治権力を集中させた。と同時に、ハビャリマナ政権はカイバンダと同様、「ツチ至上主義(Tutsi supremacy)」の復活から国を守ると主張した。
「社会改革」を逃れたルワンダのツチ難民を受け入れた周辺国の中で、ウガンダは最も政治的に不安定で、1970~1980年代に3度のクーデターと内戦による政権交代を経験した。当時のミルトン・オボテ政権下でツチ難民に対する迫害が起きたこともあり、難民たちの中でルワンダへの帰還の希望が芽生えた。オボテ打倒のためにも、1981年からカガメ氏や他のツチ難民がヨウェリ・ムセベニ氏(現ウガンダ大統領)のゲリラ戦に参加し、1986年にムセベニ氏が率いる反政府勢力が軍事勝利した。
1987年、ウガンダ在住のルワンダ難民らが、RPFという政治的・軍事的組織を結成した。1990年にRPFがウガンダからルワンダに侵攻し、ルワンダ政府との間で内戦が続いた。1993年に和平合意が結ばれた後も戦闘は続いた。
1980年代後半から1990年前半まで、ルワンダはさまざまな政治的・経済的危機に同時に直面していた。RPFの侵攻とともに、民族対立が悪化し、国内避難民数が増加した(後述)。その他、RPFの侵攻を受けて政府の軍事費が1989年、国内総生産(GDP)の1.9%から1992年、7.8%に増加した。これらの危機が国を弱体化させ、ジェノサイドを実行する可能性を広げた。
1994年4月6日夜、多数派フツ系ハビャリマナ大統領が乗っていた飛行機が⾸都キガリの国際空港に着陸する直前に地対空ミサイルで撃墜され、大統領は暗殺された。その数時間後に大量殺戮が始まった。同年7月、少数派ツチ系のカガメ将軍率いるRPFが軍事勝利して政権を奪取した。
通説「ジェノサイドの原因は民族対立」は本当か
ルワンダの民族対立は、ジェノサイドにどのように影響したのだろうか。
ルワンダには、フツ、ツチ、そしてトワという三つの集団がある。トワは前者二つと異なり、政治的な活動に関わっていないため省略する。
それぞれの集団の区分は、エスニック(民族)、職業や社会階級的なものとして解釈された。19世紀末以降、ルワンダを支配したヨーロッパ人たちは、ツチを白人に近いハム系*、フツをバントゥー系黒人と認識し、前者が後者を征服してきたと理解した。その認識がドイツ、そしてベルギーの間接統治政策に影響を与えた。またツチ指導者も、自らがフツよりも優秀だと認識するようになった。他方、フツのエリートはフツこそがルワンダ人で、ツチは外国人だと認識していた。
人口に占める割合は、フツが8割、ツチが2割程度と大きな差がある。
ジェノサイドの起源は、ツチとフツが「数百年にわたって抱いていた本質的な『部族憎悪』」だとする説がある。
確かにハビャリマナ氏は政権奪取した後、ベルギー植民地時代に制度化された民族証明書を破棄せず、ツチの排斥運動も組織的に行われていた。また多くのツチは民間部門、特に商業や開発プロジェクトにおいて雇用されていたが、教育や政府の雇用において差別されていた。
ただ留意すべき点は、ツチとフツそれぞれの集団内部でも対立や冷遇があったことだ。
1950年代後半、ツチの伝統的指導者と革新的エリートの対立が起きた。ツチ系のカガメ氏が率いるRPFは、1959年の「社会革命」の際に国外に避難せず国内に残っていた同胞ツチを「フツの協力者」としてみなし、ルワンダに侵攻した際に殺害した。またハビャリマナ政権時代、権力と土地資源をめぐる競争の中で、南部のフツは高等教育へのアクセスという点で差別されていたため、北部のフツのエリートと南部の貧しいフツの農民の間に亀裂が生じた。
このような多層的な対立構造があったにしても、フツとツチは共存し、婚姻関係も通常だった。
が、フツとツチ間の民族対立が急激に悪化したのは、1990年にRPFがルワンダに侵攻してからだ。その要因は主に2点ある。
第一に、農民であるフツ住民計約100万人が国内避難民キャンプで生活していたが(当時のルワンダの人口は700万人だったため、7人に1人の割合)、若い農民にとって、土地を失い、3年間食料配給に頼らざるをえなかった経験は屈辱的だった。そのため、穀倉地帯の北部から追放された彼らの中で、ツチ主導のRPFに対する憎しみが高まり、フツ主導のルワンダ政府による国内避難民の徴兵は容易だった。
第二に、1993年10月、隣国ブルンジで、フツのメルシオル・ンダダエ大統領がツチ軍人らによって暗殺された(カガメ氏の命令だったと言われている)。彼は同年7月に初のフツ大統領に就任したばかり。この暗殺によって、ルワンダの野党は武装なしには無力であることを確信した。またツチに不信感を持つフツ系ブルンジ人30万人が、ルワンダに難民として避難した。このため、当時のルワンダには、フツの国内避難民と難民がいたことになる。それがRPFとツチへの憎悪の高まりにつながり、ブルンジ難民もツチに対する殺戮に参加した。
ジェノサイド前夜、フツ系大統領を暗殺したのは誰か
では、ジェノサイドの引き金となったと言われるハビャリマナ大統領の暗殺の責任者は誰なのだろうか。
1997年、ルワンダ国際刑事裁判所(ICTR)の弁護士で調査官のマイケル・ホーリガンは、RPFの現役と元メンバー3人から、当時のカガメ副大統領とその部下が大統領機撃墜に直接関与していたことを知らされた。
ICTRの第2代判事ルイーズ・アルブールは、当初この情報に興味をそそられたが、後に、ICTRの任務は、撃墜後に始まった大量殺戮の出来事に限定されてしまう。ICTRの時間的管轄が1994年1月から同年12月までで、4月6日に起きた大統領機の撃墜を明確に含まれているにもかかわらずだ。
ホーリガンの調査とRPFの離反者や西側当局者からの証言をもとに、2006年、フランスの判事が大統領機の撃墜を実行した疑いのあるルワンダ人9人に逮捕状を発行した。撃墜の際、フランス人パイロットとクルー計3人も殺害されたため、遺族が判事に事件の調査を依頼したのだ。カガメ氏は大統領として免責特権を享受していたため、逮捕状を発行できなかった。逮捕状の発行により、ルワンダは2006~2009年、フランスと国交を断絶した。
2009年、カガメ氏の元側近だったRPF元参謀長は、フランス主導の調査に対してRPFが実行したと証言。しかし、フランスがルワンダとの外交関係を回復に向けて働きかけていた時期と重なり、その他の主要なRPF 関係者から証言を得ないまま、調査は中断された。
それと並行して、ルワンダ政府の調査報告書が2008年、2010年、2017年に公表された。それらには、フツ過激派が撃墜の責任者と結論づけたり、フランスが旧フツ政権と民兵を訓練し、武器を提供し、大統領機撃墜を助長したりしたと主張している。
さまざまな証言の相違はあるものの、RPFが大統領機を撃墜し、大量虐殺を引き起こしたことを示す証拠は確かにある。
また証言の大半、特に最も詳細な証言はRPF元要員から得ている。それらの証拠と証言は以下の通りだ。RPFが物資や武器を調達する上で、内戦中にウガンダを後方基地として使用したこと。ロシア製の地対空ミサイルの発射装置はキガリのRPF支配地域で発見されたこと。カガメ氏と彼の側近が1993年末から1994年初めまで会議を3回開催し、地対空ミサイルの訓練などについて計画され、撃墜後、カガメ氏らが喜んでいたことなど。
その他、PKOの国連ルワンダ支援団(UNAMIR)のベルギー大佐によると、大統領機の撃墜後、約3万人で構成するRPF部隊が所定位置に着き、攻撃を開始した。このような大規模な攻撃は事前に数週間の準備期間を要するため、RPFは即、戦闘できるように、武器や食糧を十分に備えていたはずだと述べている。ルワンダ軍も撃墜直後に道路にバリケードを設置したが、これは大統領が出入国する際の通常の手続きであり、RPFの準備とは大違いだ。
ICTRは、当時のルワンダ政府が大統領撃墜を計画したり関与したりいた証拠はなく、またRPFが大統領機の撃墜を実行したと結論づけ、RPFが意図的にジェノサイドに火をつけたと指摘した。
通説「フツが加害者、ツチが犠牲者」
「多数派フツが加害者、少数派ツチが犠牲者」。この通説は広く浸透している。
例えば、2023年10月、国連人権高等弁務官事務所ニューヨーク事務所長のクレイグ・モクヒバが国連宛ての書簡で、イスラエル軍による「パレスチナ人のジェノサイド」は「お手本のような事例」だと指摘し、そのジェノサイドに対する国連の沈黙に抗議した。
書簡では、ジェノサイドに際して国連が文民保護の義務を果たせず生じた犠牲の例にボスニアにムスリムやミャンマーのロヒンギャ族などと並んで”(ルワンダの)ツチ”を挙げている。
ではどのように「フツが加害者、ツチが犠牲者」というナラティブが生まれたのだろうか。
ジェノサイドが起きた翌年の1995年4月から毎年、ルワンダ国内外で実施されている記念式典では、当初、ツチだけでなく、フツやトワの犠牲も認定されていた。実際に、ジェノサイドに加わった者にはフツもツチもいれば、ツチを保護したフツもいた。
しかし、ジェノサイドの公式名称は段々と排他的になり、2003年に制定されたルワンダ憲法が2008年に修正されてから、「ツチに対するジェノサイド」という呼称が強いられた。同時に、ツチの集団犠牲とフツの集団加害が強調された。
このナラティブに関して、日本でほとんど知られていない、あるいは十分に議論されていない要因を五つ挙げてみたい。
第一に、ロンドンに拠点を置いたNGO「アフリカン・ライツ(African Rights)」がジェノサイド終結から2カ月後に、組織として初めて750ページもある実質的な調査結果を公表したのだが、 この作業を短期間に実現できたのは、RPFが全面的、かつ積極的に情報を提供し、このNGO職員に給与まで支払っていたためだ。 本調査は、ジェノサイドの公式説明である「英雄的なツチの反乱軍は、フツのジェノサイド加害者に対して正義の戦争を戦った」という見方を補強した。またRPFが犯した人権侵害は単なる報復殺人であり、RPFは民間人を組織的に殺害することを意図した政策を持っていなかったことも強調している。
第二に、RPFが偽旗作戦(false flag operation)を実行していたことだ。
これは、あたかも敵によって実施されているように見せかける軍事作戦だ。ジェノサイドを煽るために、RPF内の軍事諜報局の要員がフツ民兵に潜入し、路上バリケードにいた民兵によるツチの殺戮を手助けした。 フツ民兵に潜入した要員は、背が低く、仏語を話すフツが選ばれた(一般的にフツはツチに比べると背が低く、1994年以前のルワンダの公用語は仏語だった。RPF要員はウガンダなど国外で生まれ育った元難民が圧倒的に多く、英語を話す人が多い)。
また難民キャンプを拠点にルワンダを攻撃したという報道も、実は偽旗作戦だったことが元RPF要員の証言で明らかになった。
奇妙なことに、この民兵の指揮系統はRPF本部下にあった。つまり、RPF自体がフツ民兵を創設した可能性が強いことを意味する。
第三に、アメリカ人研究者2人が1998、1999年、ルワンダでさまざまな統計を収集したところ、フツの犠牲者数の方が多かったという結果が出た。1991年時点で60万人のツチが存在していたが、ジェノサイド後もその半数が生存していた。ジェノサイドの死亡者数は、この研究によれば80万~100万人だったため、死者の半数以上がフツだったと計算した。 その研究者がその調査結果をルワンダで発表した後、同政府から24時間以内に出国を求められ、「歴史否認主義者」のレッテルが貼られた。彼らはジェノサイドが起きたことを否定していないにもかかわらずだ。
ただ、当時のツチの人口数と死亡者数は明確な統計はなく、現在も議論が続く。いずれにしても、フツの犠牲者数はツチのそれに匹敵するか、それ以上の可能性は高い。
第四に、ジェノサイド指導者を訴追するために、1994年にICTR、そして2001年に草の根裁判集会である「ガチャチャ法廷(Gacaca)」が設立されたが、どちらもフツのみが訴追された。ICTRは2002年、RPFに属する容疑者を初めて起訴する準備をし、それを主任検察官のカルラ・デル=ポンテがカガメ大統領に伝えたところ、彼は「あなたは終わりだ」と激怒したという。デル=ポンテはICTRの調査が妨害されないように国連本部に訴えたが、コフィ・アナン国連事務総長は「これはすべて政治だ。あなたは全く正しいが、安保理が政治的な決定を下す」と述べた。その後、デル・ポンテのICTRの任期は、ルワンダ政府のロビー活動と英米の支持によって更新されなかった。
さらにICTRでは、カガメ氏の批判者である難民の証言者が失踪し続け、その多くが拉致され、拷問され、殺害された。ガチャチャ裁判においても、一般人がルワンダ政府の公式説明に合わない真実を話す自由がなく、その真実を話した人は殺害されたり、国外に逃亡したりした。弁護側の証人や裁判官も同政府に脅迫された。
第五に、国際社会の黙認だ。国連総会で2020年4月20日、ジェノサイドが始まった4月7日を「ルワンダにおけるツチに対するジェノサイドを考える国際デー」と称する決議 が採択された。 その直後、英米政府のそれぞれの国連代表部が「フツも他の人たち(注:トワ)も犠牲になったため、ツチのみが犠牲になったという表現に同意できない」と表明した。しかし、その見解は現在、黙認されているようだ。(4月7日を「ルワンダのジェノサイドを考える国際デー」と称する決議は2003年12月にすでに国連総会で採択済みだ)
ツチとフツの両者の一部が殺戮に関わり、両集団が犠牲になったことを考えると「ダブル・ジェノサイド」と呼ぶこともできる。偽旗作戦が実行されたことを考えると、「ジェノサイド」という呼び方は正確ではなく、内戦の延長線と位置付けた方が適切だという声もある。
以上のことから、ルワンダのジェノサイドを「民族対立」という単純な構図からとらえることはできない。カガメ氏も救世主どころか、戦争犯罪人と認識されるべきだと考える。
また1996年、隣国コンゴで勃発し、現在も続く紛争に関しては、ルワンダのジェノサイドが飛び火したことが知られている。その詳細について、(PKO)部隊の行為に関する通説とともに、次稿で解説する。