軍や治安機関所属の選手たち
東京五輪のロシア人金メダリストの調査は、プーチン政権下の「国家」と「スポーツ」の強固な関係ぶりを鮮明に示した。プーチン政権がトップアスリートを広告塔にして、侵攻継続によって揺らいでいる政権基盤の強化につなげている実態や、他方で、国際大会に出場したくても戦争にノーと言えず、出場できないロシア人選手の苦しい胸の内も浮き彫りにした。
前回東京大会は2021年夏に開催された。自国開催の2014年ソチ冬季五輪後に内部告発された国家ぐるみのドーピング問題が原因となって、ロシア人選手は国家の代表ではなく「ROC(ロシア・オリンピック委員会)」の所属として個人資格での参加が余儀なくされた。ロシア国営メディア「タス通信」によると335人が出場した。
ロシアはそれでもお家芸の体操やフェンシング、レスリング競技などで好成績を収め、金メダル20個、銀メダル28個、銅メダル23個の合計71個のメダルを獲得した。
今回のパリ大会には、ロシア人が「個人の中立選手」(AIN=Individual Neutral Athletes)として15人がエントリー。ウクライナ侵攻を積極的に支持しないことが条件で、プーチン政権の意向に従わなかったことになる。国内では参加者に対して批判の声が出たが、テニス女子ダブルスでミラ・アンドレーエワ選手(17)とディアナ・シナイデル選手(20)が銀メダルを獲得した。
熱狂の渦に包まれたパリ大会の期間中、東京大会のロシア人金メダリストたちはどうしているのかを調べた。金メダル種目には団体などがあるため合計で35人のアスリート数になる。多くの選手が東京大会8カ月後に始まったウクライナ侵攻が原因となって、国際スポーツ連盟が「制裁措置」を発動し、五輪や世界選手権を含む国際大会への参加が禁止されていた。
35人のうち9人が、ウクライナへの軍人侵攻を担うロシア軍やプーチン大統領直轄のロシア国家親衛隊などといった軍や治安機関に所属しており、スポーツの政治利用とも言えるプーチン政権の特徴が浮かび上がった。
IOCは昨年12月、中立の立場であるロシア人選手の出場を認める方針を示したが、侵攻を積極的に支持しないことや、軍・治安機関に所属しないことを条件にした。将校や兵士のアスリートらは早々にパリ行きの切符は失われた。
東京大会の体操男子団体で金メダルを獲得した4人のうち3人の選手は、軍・治安機関に所属。国内で「キング」の愛称を持つ体操界のスター、アルトゥル・ダラロヤン選手(28)や跳馬が得意なデニス・アブリャジン選手(32)は、ロシア国家親衛隊に所属している。
早々に大会不参加が決まったアブリャジン選手は今年3月、「なぜスポーツが政治の人質になっているのか」とIOCの決定を非難していた。
4人の団体メンバーのうち、エース格のニキータ・ナゴルニー選手(27)は東京大会では個人総合でも3位に入り、優勝した橋本大輝選手とコロナ禍での戦いとなったことに対し、健闘をたたえ合う姿が日本のメディアにも大きくクローズアップされた。
しかし、東京大会の後、軍の一員としてウクライナ侵攻への関与をさらに深めるようになっていた。今ではプーチン大統領や他の主要閣僚と同様に、米国、ウクライナ政府が定めた個人制裁リストに名を連ねる立場だ。
ナゴルニー氏は現在、ロシア国防省傘下の青少年団体「ユナルミヤ(青年軍)」トップの同組織参謀総長を務めている。若者たちへの愛国教育を強めるプーチン政権は全国各地にユナルミヤの支部を組織し、8歳から18歳までの若者の数百万人が所属しているという。各支部では基礎的な軍事訓練も行われており、団体を「卒業」した若者は軍の正規兵となり、ウクライナの前線へと派遣されているともいわれている。
ナゴルニー氏をユナルミヤのトップに置いたことは、オリンピックのスターである本人の社会への影響力を利用し、侵攻の正当化を図りたいという政権の思惑が感じられる。
中立選手での出場を自らも拒否したナゴルニー氏はパリ大会で体操競技が始まった直後の7月27日、SNSを更新し、「オリンピックは人々だけでなく全ての国々を団結させるが、残念ながらそのような状況にはない。このような事態はオリンピック史上、最悪の出来事の一つとして記録されることは間違いない」とメッセージを綴っている。
スポーツは国威発揚の手段
東京大会金メダリストにとどまらず、ロシア人アスリートには軍・治安機関所属の者が少なくない。背景には、自らも柔道家であるプーチン氏が、ソ連時代にならってスポーツを国威発揚の手段として積極活用してきたことがある。スポーツ省を軸に、アスリートの強化は国家の管理下に置かれた。
オリンピックでメダルを獲得すれば、スポーツ大国ロシアの存在感を国際社会に示したとして、プーチン氏から直接、勲章が授与される。一生分の生活が保証されるというソ連時代の「ステート・アマ」のアスリート養成態勢が整えられていった。軍や治安機関には近代的な練習施設が整備され、コーチ陣も充実。ジュニア時代に頭角を現した若きアスリートはメダル量産を現実にするため、軍や治安機関にリクルートされた。
こうしたケースは女子選手も例外ではない。
東京大会女子射撃で金2、銀1を獲得したヴィタリナ・バトサラシキナ選手(27)はロシア国家親衛隊中尉の将校だ。パリ大会でも、射撃競技の運営母体となる国際射撃連盟(ISSF)はその肩書を問題視し、バトサラシキナ選手の参加を認めなかった。
幼いころ祖父と一緒に狩猟に出かけて銃の撃ち方を学んだというバトサラシキナ選手。現役選手としては技術、体力、精神力としても脂が乗っている状態だが、プーチン政権が軍人侵攻を止めない限り、今後も国際大会への出場はできない見込みが高い。
バトサラシキナ選手のコーチは今年5月、バトサラシキナ選手の境遇を慮(おもんぱか)り、「アスリートやコーチの信用を失墜させることは誰もすべきではない」と述べている。
フェンシング女子サーベル種目のソフィア・ベリカヤ選手(39)は2012年ロンドン大会から2020年東京大会まで3大会連続でメダル5個(金2、銀3)を獲得したフェンシング界のレジェンドだ。
陸軍中央スポーツクラブ(CSKA)に所属しており、ロシア連邦軍の軍人に授与される勲章も獲得。公式ホームページには当時のショイグ国防相から贈り物を授与される2ショットの写真が掲載されている。
余談だが、サッカー元日本代表の本田圭佑氏(38)がかつて所属したロシア・プレミアリーグのCSKA(チェスカ)モスクワはソ連時代の軍組織のサッカークラブを基盤にしている。
現在もCSKAはロシアを代表するスポーツクラブで全国各地に施設があり、多くの軍人アスリートが所属している。
ベリカヤ選手もプーチン政権の意向にならい、パリ大会の出場を阻んだIOCの方針に真っ向から非難した。パリ大会開催前にはロシアメディアに対し、「このような態度は不公平だ。国歌と国旗は自分が育った国と国民のシンボルだからだ」と語った。
東京大会金メダリストのうち、公に戦争を批判したことのあるのは、テニス混合で優勝した アンドレイ・ルブリョフ選手(26)とアナスタシア・パブリュチェンコワ選手(33)の2人しかいない。
AINとしてパリ・オリンピックに参加したロシア人選手には、テニス競技が多い。これは、世界ツアーを転戦としながら、ランキングポイントや賞金を稼ぐプロテニス界の実態によるところが大きい。ロシアではなく海外に生活の拠点がある選手も多くいる。
パブリュチェンコワ選手は2022年2月のロシア軍の本格侵攻直後に声明を出し、「個人的な野心や政治的動機は暴力を正当化することはできない」とプーチン政権を批判した。欧米メディアは「勇気あるコメント」と評価した。
しかし、ロシア人アスリートはプーチン大統領を積極的に支持する者が多数派だ。調べると、今年3月に行われたロシア大統領選挙で、ナゴルニー氏やベリカヤ選手、さらには父親がロシア・オリンピック委員会会長で、フェンシング女子代表の一員であるソフィア・ボズドニャコフ選手(27)ら少なくとも5人の東京大会金メダリストはプーチン大統領の立候補推薦人になっていた。
プーチン大統領がスポーツ選手の有名人を広告塔に使って、選挙戦を有利に進めた実態がここにも表れている。
プーチン政権はオリンピックに匹敵するような独自のスポーツの国際大会「フレンドシップ・ゲームズ」の開催を計画している。IOCが平和や多様性社会、国際協調を促進するオリンピック・ムーブメントは、国内の締めつけを強化するプーチン政権を前に抗うことが難しい現状を突き付けている。
出場を阻まれた選手の中には、苦しい胸の内を明かす者も少なくない。
ロシア軍大尉クラスの女性将校でもあるマリア・ラシツケネ選手(27)は東京大会陸上女子走り高跳びの金メダリストでオリンピック連覇も期待された。しかし、パリ大会ではやはり軍歴によって出場がかなわなかった。
パリを目指し、血がにじむような努力を重ねたにもかかわらず、出場を阻まれたことに涙を流す毎日が続いたという。
パリ大会陸上競技が始まった8月2日、ロシアメディアの取材に「陸上競技を(テレビで)見ることはできない。とてもつらい。私たちがそこにいる可能性があったのだ。そうすべきだったという考えは、私の傷口に塩を塗りこむだけだ」と話している。