今大会で表彰台を独占すると言われるワリエワを初めとする3選手、さらには2018年平昌大会で名勝負を演じたアリーナ・ザギトワ(19)とエフゲニア・メドベージェワ(22)も「トゥトベリーゼ一門」の門下生だ。コーチを務めるモスクワの養成学校「サンボ70」にはきら星のごとく、ロシア全土から逸材がそろい、厳しい練習が繰り広げられる。
かつて、練習でミスを連続するメドベージェワをしかり、氷上を引きずりまわしたことさえあるという「氷の心を持った雪の女王」はソ連邦崩壊の混乱による貧困生活や、移住先のアメリカでの爆弾テロに遭遇するなど波乱万丈な人生を送ってきた。
金メダルを生み出す「虎の穴」でどんな指導が行われているのか、世界各国のフィギュア界が注目している。
北京オリンピックでは、冬季大会の花形であるはずのフィギュアスケートのリンクに暗い影が落ちている。
大会12日目の2月15日に行われた女子個人戦ショートプログラム(SP)。昨年末のドーピング検査で陽性反応が出たワリエワが出場することが決まり、国際オリンピック委員会(IOC)や世界各国のメディアを巻き込んで、連日、大きな騒動となった。
ジャンプの綺麗さ、ステップの品やかさで他選手を圧倒することから「絶望」という異名がついた、トルコ系民族タタール人15歳の少女は、大会期間中に昨年末のロシア選手権中に禁止薬物のトリメタジジンが検出されたことが明るみになった。
スポーツ仲裁裁判所(CAS)の裁定によって、女子個人戦での出場が可能となった。
世界のメディアがカメラを向けて彼女の一挙手一投足を追う展開に、ずっと側に寄り添ってきたのがトゥトベリーゼだった。リンクで泣きそうになるワリエワを抱きしめて 励ました。ロシアのメディアにきっぱりとこう言った。
「私たちは常にワリエワといる。誰も置き去りにはしない。彼女にまったく罪はない。いま、勝利をつかむことが難しいけれども、ワリエワはここ3年間で最高の状態にある。彼女は代表チームのエースであり、今、試合に参加する選手の中でもトップを走っている。だからターゲットになったのだ。どんなドーピングでも4回転を跳ぶことの助けにはならないし、音楽的な演技を表現する能力を授けたりはしない。彼女は我々の人生に美しさをもたらしている。彼女の演技はスポーツではなく、芸術なのだ」
出場継続をめぐってCASが行なった公聴会で、トリメタジジンが検出されたことについて、ワリエワの弁護士は「祖父の心臓病の薬をあやまって口にしたことが陽性反応の原因だ」という。
トゥトベリーゼは練習では厳しいが、常に自分の門下生のことをかばう。過酷さゆえ、メドベージェワも北京大会出場のメダル候補の17歳のアレクサンドラ・トゥルソワも一度、養成学校「サンボ70」を一度離れているが、彼女の元へまた戻ってきている。
世界で勝ちたいと思う少女たちにとってトゥトベリーゼへの信頼感は抜群で、平昌大会で金メダルを取ったザギトワも「エテリと出会ったことが人生で一番の幸運だった」と公言してはばからない。
トゥトベリーゼが世界のフィギュアシーンに登場したのは2014年ソチ大会で団体戦金メダルを獲得したユリア・リプニツカヤを育てたことだった。
リプニツカヤは地方都市エカテリンブルクの出身で、母親と一緒にクルマの中で寝泊まりしながらモスクワを訪れたのをトゥトベリーゼが受け入れた。
ワリエワと同じトルコ系少数民族のタタール人であるザギトワもモスクワから1200キロ離れたロシア中央部イジェフスクからやってきて門を叩いた。
サンボ70の練習は過酷だった。まだ世界レベルに達していないメドベージェワがかつてリンクでジャンプを何度も失敗するのを見て、こう叱った。
「失敗するのが好きなの?じゃあ、転倒するのを手伝ってあげる」
そして、氷上を引きずり回した。それでもメドベージェワはそのエピソードを振り返り、記者にこう言った。
「なぜ、あなたがたはエテリ・ゲオルギエブナ(=トゥトベリーゼの敬称)がとても恐ろしく、意地悪だと思っているの?私たちはお互いよく知っているし、気持ちが通じ合っている」
まだ15歳にも満たない少女たちを厳しく指導するやり方は国内でも批判が起こった。ツイッター上には「トゥトベリーゼは国辱だ」とのハッシュタグも存在する。それでも非難されるたび、自分の指導方針については「親が子供をしつけるのと一緒だ」と反論した。
「選手たちは簡単な道を探して、課せられたタスクをなんとかやらないように済ませる。そんな時はしかり飛ばす。私は親のように選手たちに振舞っている。コーチが選手を監督することをやめたらもう愛ではないのです」
今やロシア一、いや世界一の名コーチになったトゥトベリーゼのライフヒストリーは盛んに特集が組まれ、多くの国民が知っている。昨年末にロシアで放映されたテレビ番組では、独占インタビューに応じ、その中でも彼女はこんなことを言った。
「私は選手たちに事実しか言わない。私が選手たちを指導しなければ、メダルはもらえない。選手たちが有効に練習できなかったら、悔しく感じる。私たちは選手たちに幸福感をもって、表彰台にあがってほしいのです」
高得点を稼げる最高難度のジャンプやステップのために、基礎を徹底して教え込む。表現力を磨くために、ロシアンバレエのレッスンも受ける。さらに、トゥトベリーゼが10代の門下生に指導しているのは、試合だけでなく、練習の時も化粧をして、容姿を整え、リンクに上がることだ。
トゥトベリーゼは美を競い合うフィギュアスケートには、まるで戦場に立つ兵士のように「戦闘的メイク」をして見せることが必要だといった。
「女性が自分の容姿や美に気を配っているときは、背筋も伸び、歩き方でさえ違ってくる。フィギュアスケートの選手も一緒。少女たちがリンクで、自分を美しいと感じれば、トレーニングにも精が出るのです」
トゥトベリーゼの言葉は常に芯が一本通っている。それは彼女が味わってきた数々の試練や苦難に起因する。
1974年、5人きょうだいの末っ子としてソ連時代のモスクワに生まれた。トゥトベリーゼはジョージア人、アルメニア人、ロシア人の3つの民族の血筋を持つ。4歳でフィギュアスケートを始めた。運動神経も良く、最初は女子シングルスの選手だったが、背中にけがをしてしまい、アイスダンスの種目に転向した。
高校生となった1980年代末、おりしもソ連時代末期と重なり、多くの人たちが稼ぎが少なく、生活が苦しかった。トゥトベリーゼも大会に出る資金がなくなり、現役選手であることをやめた。
ソ連崩壊を前後して、18歳でアメリカに渡った。生活費を稼ぐためだった。フィギュアスケートのショー興行「アイス・カベイズ」の一員となり、アメリカ全土をまわった。給料の一部をモスクワに残る両親に仕送りし、裕福な生活ではなかった。
そうして、21歳の時に危機一髪の出来事に遭遇する。1995年4月にオクラホマシティで168人が死亡、800人以上が負傷した連邦政府ビル爆破事件が滞在していた場所のすぐそばで起こったのだ。
破片したガラスなどを浴びたが、なんとか重い傷を負うことはなく、生き残ったのである。昨年末のトゥトベリーゼの特集番組でこのシーンが出てくる。
トゥトベリーゼの母親は映像を見て「最初、ニュースの映像を見て、娘が犠牲になったと思った。後に電話がかかってきて、『ママ、大丈夫よ』と連絡してきたが、実際は大丈夫ではなかった」と当時を振り返っていた。
そうした傍ら、4年間、アメリカでもコーチの経験を積み、1999年にモスクワに帰ってきた。最初は無料でコーチ業を務めるとしてあちこち職探しをしたが、相次いで断られた。ここでも苦労した。モスクワ郊外のリンクでなんとかして就職口を見つけ、次第に指導方法が評判を呼んだ。
2003年からロシア連邦フィギュアスケート連盟モスクワ支部の一員となって、モスクワ市内の小学校などでも働き始め、40歳になる前の2013年に「サンボ70」のコーチとなった。トゥトベリーゼがリプニツカヤを育てたことが大きなきっかけになって「サンボ70」は急発展し、今や世界一の金メダル養成学校となっている。
トゥトベリーゼは娘一人を持つシングルマザーだ。2003年アメリカに滞在している時にネバダ州で生まれた。ロシア風ではない「ディアナ・デービス」という名前を名づけた。父親は誰かをこれまで明かしたことはない。母親は1人で育てた。
デービスは幼い時から「感音難聴」を患った。それでも母親は2歳のときからリンクに娘を連れて行った。見よう見まねで滑ると、みるみるうちに上達した。最初は母親と同様、シングルスの選手だったが「耳の問題がある人は1人で滑るとケガする確率が高い」として、母親の勧めでアイスダンスの選手になった。
トゥトベリーゼは娘にも容赦しなかった。ザギトワやメドベージェワが滑る「サンボ70」のリンクで指導し、厳しい練習を課した。ロシアメディアに「私は娘が人生にちゃんと適応して育つようできることを全てしなくてはならない」と語ったことがある。
グレプ・スモルキンとペアを組んだチームは昨年末、ロシア選手権で2位に入り、北京大会の出場資格を得た。そして、北京大会アイスダンス種目は14位という結果に終わっている。
母親のトゥトベリーゼはこの結果によほどうれしかったのか、インスタグラムで2人の写真を上げて「素晴らしいデビュー戦」と祝福している。