羽生結弦は北京オリンピックの大舞台で、4回転アクセル(Quad Axel、4A)ジャンプに挑み、失敗したものの、国際スケート連盟(ISU)公認大会として、初めて公式ジャッジシートに「4A」が記録された。
そして、女子で、3A(Triple Axel)を初めて成功させたのは1988年の大会での伊藤みどりだった。同じ山田満知子コーチに師事した浅田真央は2014年ソチオリンピックでは「奇跡のフリー」で記録にも記憶にも残る3Aを跳び、世界のフィギュアファンの心を震わせた。
アクセルジャンプを進化させた日本人スケーターは世界のどのアスリートにも負けない練習量と飽くなき向上心を持っていた。彼らはフィギュアスケートをレベルアップさせた功労者として、スポーツ史を塗り替えたのである。
奇しくも男子フリースケーティング(FS)のあった2月10日は「アクセル」の生みの親、ノルウェーの名スケーター、アクセル・パウルゼン(Axel Paulsen)の命日の翌日にあたる。パウルゼンが1A(1回転アクセル)を国際大会で初めて跳んだのは1882年。最高難度のアクセルはパウルゼンの挑戦を称えて、名付けられた。
🧐#フィギュアスケート #羽生選手 の挑戦で話題になった4回転アクセル、この「#アクセル」という名前の由来は #ノルウェー人 だとご存じですか❓
— ノルウェー大使館 (@NorwayinJapan) December 28, 2021
1882年🇳🇴のフィギュア選手アクセル・パウルセンが国際大会で初の1回転半ジャンプを跳んで以来、#アクセルジャンプ と呼ばれ進化してきました⛸️ pic.twitter.com/ZTfAjq9NvD
羽生はそれからちょうど140年後に北京のリンクで、再び「アクセル」を世界に轟かせた。パウルゼンも天国でさぞかし、究極の高みを目指す27歳のスケーターの姿に嬉しさを抱いたに違いない。
アクセルは6種類あるジャンプのうち、唯一、前向きで踏み切る。左足外側のエッジを使って跳び、ほかのジャンプと同じ後ろ向きで降りるため、半回転多い。
スピードのついた状態で回転をつけて跳ぶことは難しく、負傷の恐れもあるので、多くのスケーターが習得に苦労してきた。
パウルセンが1Aを1882年に跳んでから、1948年の2Aの成功まで66年かかっている。3Aは1978年なので、2Aから3Aの到達には30年と進化の時間は半減した。しかし、4Aは3Aの成功から44年が経過しているが、これまで誰も成功していない。
一方、女子での1A成功は1920年、2Aは1953年。3Aは1988年のNHK杯で伊藤みどりが初めて成功を収めた。
ISUが公式ツイッターで「あともう少しで着氷していた」といった羽生の4Aは、どれほどの僅差だったのか?
メーテレで解説した世界選手権銀メダリスト、小塚崇彦さんが、クリーンな着氷ができる回転まで「6分の1」、滞空時間にすると「0.03秒」だったと説明し、今後の展開をこう予測した。
「周りの選手も『自分にも(4Aが)できるのでは』と背中を追わせてくれる存在には間違いないです」
それだけ、羽生の挑戦が世界のスケーターに与えたインパクトは計り知れないものだった。
2006年トリノ大会金、世界選手権で3度の王者に輝いたロシアのレジェンド、エフゲニー・プルシェンコは初日のショートプログラム(SP)で8位に沈んだ羽生を励まし、FSが終わった後はこんなメッセージをインスタグラムで送った。
「ユヅル・ハニュウよ。君が残したものは永遠に私たちの心の中に残るだろう。君の勇気とプロフェショナリズムは終わりがない」
この言葉には自らの経験がにじんでいた。2010年バンクーバー大会で、無難に収めれば金メダルの可能性が高まったかもしれないが、「フィギュアスケートの進化」のために、彼は果敢に4回転ジャンプに挑んだ。結果は失敗し、銀メダルになったのだが、果敢に挑んだ北京大会での羽生の姿はかつての自らの境遇と重なったのだろう。
地元でオリンピックを迎えた中国のエース、金博洋は交流のある羽生にこんなコメントを送った。フィギュアスケーターズ・オンラインが伝えている。
「ユヅルは27歳の年で、3度目のオリンピックに参加することを選んだ。彼は高みを目指し、4Aを跳ぼうと試みた。これは誰もがまねできない特別な何かだ。オリンピックとスポーツマンシップの精神を示してくれた」
新しいオリンピック王者も例外ではなかった。圧倒的なスケートを見せつけたネイサン・チェン(アメリカ)もこう言った。
「4回転アクセルが成功するまではもうあと少しで、もう時間の問題だと思う。ユヅがスポーツを進化させようとしたのを見ることができて、とてもわくわくした」
アクセルは8年前にも世界中を虜にした。
2014年のソチ大会フィギュア女子FSで浅田真央がラフマニノフの名曲に乗って跳んだトリプルアクセル(3A)は今でも世界中のファンの間で語り草になっている。
浅田も羽生と同様、SPで失敗。16位と出遅れ、一時、失意に陥ったものの、気力をふり絞ってFSに挑んだ。浅田のプログラムの振付を担当したロシアの名コーチ、タチアナ・タラソワは当時、ロシアのテレビ局の試合解説のため実況席にいた。
タラソワは半世紀以上も選手、コーチとしてリンクに立ち、この競技の発展を支えてきたレジェンドだ。そのタラソワにして、かつてフィギュア弱小国だった日本の少女の才能を認め、「男子のような演技をする真央は、私のスケートの概念を変えてくれた」と語らせるほどだった。
事実、コーチとして一緒に組んだ2010年バンクーバー大会で浅田は女子シングル史上初めて一つの競技会中に3度の3Aを成功させている。
ソチ大会のリンク。そんな愛弟子をタラソワはまるで自分の娘のように実況席から語り掛け、リンクに送り出した。浅田が3Aを成功して採点発表を待つスペース「キス&クライ」に戻ってくると、感動のあまり、声を震わせて解説した。
すべての演技が終了して、ソチのリンクに表彰台が設置された。優勝は愛弟子であるアデリーナ・ソトニコワ。彼女がリンクに現れた時、本来なら新女王へのコメントを添えるべきだったかもしれない。
しかし、タラソワの口から最初に紡ぎだされたのは、この表彰式にいない浅田に対してだった。タラソワは感謝の言葉を語った。
「真央、私のプログラムを踊ってくれてありがとう。夏に私の元に来てくれたわね。私はあなたのお願いを断れなかった。だから振付を引き受けたのよ。よくここまで頑張ったわね。本当につらかったでしょう?真央、あなたと一緒に取り組むことができた運命に私は感謝するわ」
ソチ大会にはまだ忘れ得ぬエピソードがある。
浅田の3Aにかける情熱と熱心な練習への姿勢は、フィギュア大国のロシアのスケーターたちにも大きな影響を与えた。
試合後のメディアセンターでのメダリスト記者会見で、コーチや選手に浅田の演技についてどう思うかを聞いた。最初に答えたのはソトニコワのコーチ、エレーナ・ブヤノバだった。
ブヤノバは「真央ほど練習に取り組むスケーターは見たことがない」などと、日々、自己犠牲する浅田の姿勢を絶賛し、思うような演技ができなかったことを悔やんだ。
ブヤノバの説明は長く、司会者がこれでもう十分だと思って、次の質問に行こうとした。しかし、ソトニコワが「私も答える」と司会者に目配せして、マイクを握った。FSで3Aを見事に跳んだ浅田の挑戦に向けられた感動的な言葉だった。
「私は真央を心から尊敬している。私にとって真央は模範でした。真央は我慢強くて、彼女が背負ってきた困難を乗り越えることができる人。私は真央と一緒の場にいることができて幸せでした。なぜなら、真央が卓越した人だったから」
現役を引退した浅田は今でもロシアのフィギュアファンや若きスケーターのアイドルとなっている。
かつて、日本人スケーターがオリンピックの表彰台にあがることは、遥か彼方の時代が長く続いた。しかし、今は世界のスケーターが模範となる選手がいる。男子では2018年、2022年と2大会連続で表彰台に2人の日本人スケーターがあがり、日本はまさしく、ロシアやアメリカと同様、フィギュア大国の仲間入りを果たした。
羽生の今回の4Aの挑戦は、ジャンプの最高難度の技「アクセル」をものにしようと、日本フィギュア界全体が底上げを図ってきたプロセスの延長線上にある。
羽生は、2010年バンクーバー大会でアジア人の男子シングル選手として史上初のメダルを獲得した高橋大輔の背中を追っかけて、実力を磨いた。そして、高橋から日本男子のエースを引き継いだ羽生が12シーズン第一線で踏ん張ったことで、宇野昌磨ら若手選手が育った。その貢献は計り知れないほどの価値がある。
今大会、中国では羽生フィーバーが起こった。人気を受け、FSから一夜明けた2月11日オリンピック公式新聞「24th」が1面に、羽生の演技中の渾身の1枚を大きく掲載し、「金メダリストにはなれなかったが、人々の心の中で王者になった」と伝えた。
#羽生結弦 は「人々の心の中で王者になった」 北京五輪公式新聞が一面で報道 https://t.co/H1eotu60c6 #スポーツ #sports #ニュース pic.twitter.com/qW3RyU4vG3
— スポーツ報知 (@SportsHochi) February 11, 2022
中国版Twitterの微博(Weibo)には、羽生を追ってきた記者の手記が記され、ファンから支持を受けた。こうメッセージが記されていた。
「この数日間、彼は美しさ、強さ、優しさ、勇敢さであらゆる人をとりこにしてきた。これこそ羽生結弦という四文字が持つ魔力なのかもしれない」
羽生の4Aの挑戦は、中国のファンの熱気とともに、世界中の人々の記憶にも刻まれた。
憧れの羽生の背中を追ってきて、今大会2位となり、冬季では日本人最年少のメダリストになった18歳の鍵山優真が10日の一夜明けメダリスト記者会見でこう答えた。
「羽生選手の4回転半ジャンプは成功はしなくてもその挑戦に大きな意味があると思いますし、僕にとっては大きな伝説に残ると思います」
才能があふれる鍵山は、将来5回転ジャンプを跳ぶことも考えているという。いずれ、鍵山も、フィギュア界全体のレベルを押し上げようとした羽生のアクセルの挑戦の偉大さを身に染みて感じる時が訪れるに違いない。
4年後の2026年ミラノ・コルティナ大会でも、また、世界のファンの心を熱くする銀盤のドラマが繰り広げられるだろう。