オリンピックの舞台には「魔物」が住んでいる。2連覇を果たしているオリンピックの申し子の羽生でも突然、猛威をふるってきた魔物の牙になすすべがなかった。
SPのプログラムは19世紀のパリで数々の傑作を残した作曲家、カミーユ・サンサーンスの「序奏とカプリチオーソ」。親交のあるピアニスト、清塚信也さんが羽生のためにピアノバージョンに編曲し、自ら演奏した。
滑らかな旋律を身体にしみこませ、ジェフリー・バトル、シェイ=リーン・ボーンの振り付けによって、高難度のジャンプやステップをなじませたはずだった。
しかし、この日の演技では、高得点配分となる冒頭の4回転サルコーが抜けてしまい、1回転ジャンプに。その後、全ての要素をハイレベルで積み上げたが、冒頭ジャンプの大きな加点ポイントが抜けてしまい、結果は自己ベストの111.82点にははるかに及ばず、100点も超えられなかった。
演技が終わった後、羽生は4回転サルコーを跳ぼうとしたリンク内の地点を触って確認すると、「はまってしまった」と嘆いた。
演技前練習で他のスケーターが作った小さな穴に踏み切りの際につまずいてしまった。それでも、跳ぼうとしたが「頭が防衛に行っていた」形となって、ジャンプが抜けてしまったのだ。
羽生は演技後のインタビューにこう答えた。
「いやあもう、しょうがないなあという感じです。自分の中でミスはなかったなと思っている。正直、皆さんより僕が一番ふわふわしている。ちょっと嫌われたなと思っています」
【#北京オリンピック】インタビュー🙋♂️
— gorin.jp (@gorinjp) February 8, 2022
⛸️#フィギュアスケート
男子 ショートプログラム
まさかのSP8位発進となった #羽生結弦 選手が、不運に見舞われた最初のジャンプについて語りました。#Beijing2022 #gorinjphttps://t.co/oOdJnrK5cR pic.twitter.com/yMbs4WCED5
一方、オリンピック初出場となる2018年平昌大会で、SPの演技の全てのジャンプを失敗したチェン。北京大会は失ったプライドを取り返しに来た舞台だった。
SPのプログラム「ラ・ボエーム」の調べに乗り、冒頭の高難易度の4回転サルコージャンプ、そして基礎点が1.1倍になる演技後半の4回転―3回転ジャンプも見事に決めて、出来栄え点(GOE)でも大きく加点した。
結果は4日前の団体戦SPで出した自己ベスト111.71点を上回る113.97点。これまでの羽生の世界記録を塗り替える完璧な演技だった。
チェンは中国系アメリカ人で両親が中国生まれ。本人はアメリカ生まれだが、「陳巍」という中国名も持つ。自分のもう一つのルーツである祖国で、「北京にチェンあり」を世界に示した。
この世界新記録の圧巻の演技に、1990年代の人気テレビドラマ「HOTEL」の名セリフの「姉さん、事件です」のフレーズにもじって、ツイッター上では「#ネイサン、事件です」で大いに盛り上がっている。
ここに興味深いデータを示す。
故郷・仙台で4歳からスケートを始めた羽生がシニアデビューを果たしたのが15歳のときの2010年、グランプリ(GP)シリーズのNHK杯だった。最初のシーズンこそ、4試合に出場し無勝利だったが、翌2011―12シーズンから成長曲線を描く。
2年目のシーズンにはGPロシア杯を含む2勝。そして、18歳を迎えた3年目の2012―13シーズンには、GPファイナル2位に入る。そして、高橋大輔、織田信成、小塚崇彦ら実力者を兼ね備えた全日本選手権ではついに優勝を果たし、トップスケータ―の仲間入りを果たした。
羽生は今季で12シーズン目となるが、この間にオリンピック、世界選手権、GPファイナル、四大陸選手権を全て制覇するキャリアゴールデンスラムを成し遂げた。男子では4人しかいない偉業だ。
これまで、全日本選手権を含む個人戦に57大会に出場し、積み重ねた優勝回数は30回、優勝確率は.526で、現役のトップスケータ―では脅威の数値を誇る。史上最高の選手を意味する「GOAT」((Greatest Of All Timeの頭文字をとった言葉)と呼ばれるゆえんだ。
最も負けている相手は4歳年上で、2018年に引退したパトリック・チャン(カナダ)だった。しかし、チャンには2014年、2018年のオリンピックという大舞台で勝っている。
次に負けているのが、今大会のライバルであるチェンだった。
羽生VSチェンの公式戦での直接対決はこれまでに10回ある。うち1回は2017年4月に東京で行われた国別対抗戦であり、個人が競う大会ではないが、SP、FSともにポイント数では比較対象が可能で、この場合の直接対決数に含む。
羽生より5歳年下のチェンは羽生金メダルの2014年ソチオリンピック時はまだジュニアクラスだった。2016―2017シーズンからシニア入りし、それから羽生とのライバル物語が始まったのである。
以来、GPシリーズ、世界選手権、平昌オリンピックなどの世界最高峰の試合ではどちらかが優勝しているので、2人が顔を合わせる大会は、文字通り、近年のフィギュア男子の頂上決戦といえる。
初対決は2016年11月のGPシリーズ・NHK杯だった。
21歳で迎えた羽生は地元日本で、そつなく演技をまとめ、合計301.47点で優勝。まだ17歳のチェンはこの大会で羽生と30ポイントの差をつけられたが2位に入り、1か月後のGPファイナル(仏マルセイユ)での出場権を勝ち取る。
マルセイユでの2回目の対決も羽生が貫録を見せて優勝したが、ここでチェンはFS197.55点を叩きだし、いきなりFSでの羽生越えを世界に見せつけた。
そして、2017年2月に韓国・江陵で行われた四大陸選手権では、5本の4回転ジャンプを全て成功させて、ついに合計ポイントでも羽生を追い越し、優勝を果たした。
このシーズンしめくくりとなる国別対抗戦でも羽生の合計ポイントを僅差で上回った。このシーズンは羽生の3勝2敗だったが、羽生の前に立ちはだかる若きチェンの存在感は大きなものだった。
そして、羽生は2018年平昌大会で圧巻の演技を見せて、オリンピック連覇を成し遂げる。チェンはSPで全てのジャンプを失敗し、屈辱の17位に落ち込んだ。
しかし、FSでは4回転ジャンプを6本挑戦し、うち五つを成功、羽生を上回るFSでは1位の215.08点の記録を残した。
気になるのは、平昌オリンピック以降、3回ある2人の直接対決で一度も羽生が勝てていないことだ。そして、この3年間の国際大会で羽生が唯一敗れているのはこのチェンなのである。
複数の4回転ジャンプを身につけたチェンの強さは、羽生を圧倒している。
2019年3月、さいたまスーパーアリーナで行われた世界選手権、同年12月にトリノで行われたGPファイナル、2021年3月にストックホルムで行われた世界選手権で、いずれも合計320点越えを果たして、優勝。対する羽生は得意なはずのFSで差をつけられ、20~40ポイントの大差で負けている。
2人の対決の傾向として、羽生がSPのポイントでチェンを上回れば、勝利するというジンクスがあったが、2021年の世界選手権ではSPポイントで羽生が勝ったものの、チェンがFSで巻き返し、力負けしている。
そして、北京で迎えた羽生の3度目のオリンピック。SP8位というまさかの結果になってしまった。
オリンピック前に「五輪3連覇という権利を有しているのは僕しかいない」「前回、前回とはまた違った強さでオリンピックに臨みたい」と語っていた羽生。3連覇を成し遂げるためには、これまで練習してきた前人未踏の4回転アクセルの成功が必須になってきた。
それでも、演技後のインタビューで「コンディションはかなりいい。今日、そういう不運もあったんだけど、氷とも相性もいいと自分の中では思っているので、しっかり練習して決め切りたい。フリー頑張ります」と語っており、チェンを追い抜くことをあきらめていない。
運命のFSは10日午前10時30分すぎにスタート、チェンとの頂上決戦は午後2時30分ごろに帰趨を決する。