赤を基調としたコスチュームはデビュー以来変わらない。今の主戦場である米英のリングで自分より体格の良い対戦相手を持ち上げて投げ飛ばす。表情豊かに小気味良く動き回り、高く足を上げて蹴りを入れる。観客に視線を送ると、「メイコ!」と声援が飛ぶ。
14歳で見たプロレス、衝撃の出会い
里村明衣子さん(44)がプロレスに出合ったのは14歳の時だ。故郷の新潟で、新日本プロレスのファンだった5歳上の姉に連れていかれた。「衝撃を受けた」。テーマ曲にのって派手に入場し、リング上で歌舞伎役者のように見えを切り、雄たけびを上げてぶつかりあい、技を掛け合う。
「全てがかっこいい。こんなふうになりたい」
帰宅して「私、プロレスラーになる!」と宣言した。雑誌やテレビで調べると、女子プロレスがあるらしい。コスチュームもより華やかで、輝いて見えた。
家族に本気だとわかってもらうために、毎日、スクワットや腹筋などを始めた。もとより運動神経は良く、柔道も習っていた。学校でも、文化祭のために描いた絵でただ一人女子プロレスを題材にして、先生にアピールした。学校の成績は良く、進学塾にも通っていたがプロレスのトレーニングに集中したいと辞めた。
老舗の全日本女子プロレスに入門しようと思っていたが、大スターだった長与千種さんが新団体を旗揚げすると知った。「うちはがんばればすぐスターになれる」という言葉にひかれ、中3の秋にオーディションを受け合格。高校に進む気はなかった。初めは反対していた家族も、里村さんの熱意を見て折れた。特別に3学期は学校に行かずに卒業させてもらい、長与の団体「GAEA JAPAN(ガイア・ジャパン)」に入門、デビューを果たす。
スポーツの枠を超えた「驚異の新人」
日本で男子のプロレスが人気を呼んだのは、1950年代からだ。力道山が空手チョップで活躍、人々は街頭テレビの中継に熱狂した。その後、ジャイアント馬場さんやアントニオ猪木さんが登場する。
女子プロレスは1970年代にビューティペアが出現し、ファンが急増した。1980年代には長与さんのクラッシュ・ギャルズが人気を呼ぶが、里村さんは目にしていない。
プロレスラーに必要なのはテクニックや強さなどアスリートとしての技量はもちろん、スターとしてのオーラと観客へのアピール力。俳優に近い面もあり、そこが「プロ」たるゆえんで、「スポーツ」の枠を超えている。試合は相手の両肩をマットにつけてレフェリーが3カウントを数えるフォール勝ちや、ギブアップで決まる。負けっぷりがいいから、弱いから人気が出る選手もいる。
里村さんはゴムまりのようにはね、力強いキックを繰り出す。身長157センチとレスラーとしては小柄だが、身体を大きく見せる表現力や優れた技量で「驚異の新人」と呼ばれ、すぐに頭角を現した。「努力ありきの天才。追い込むほど伸びるタイプ。まだ認めないよというと、泣きながらがんばってくる」。長与さんの里村さん評だ。
2001年、22歳の時に初めてチャンピオンとなる。順風満帆に見えたが、「ちっとも幸せじゃなくて、苦しかった」。寮生活だったが、「人間関係に時間を取られるのは嫌」と仲間に背を向け、道場との送迎車にも乗らないほど。トップに立っても、「私なんて器じゃない」と不安になり、パチンコにはまった。3カ月で60万円負け、貯金を使い果たして目が覚めた。その後、ケガで長期欠場中にガイアは解散を決める。
タッグマッチで組んだ、みちのくプロレスの新崎人生さんから声がかかった。
「仙台で女子プロレスを旗揚げしたら参戦してもらえる?」。新崎さんはみちのくプロレスの社長を引き継ぎ、拠点を仙台にしたばかり。「やります」と即答した。
ゼロから始める、というところに魅力を感じたのだ。新崎さんは言う。「プロレスは、リングで喜びや悲しみ、人生を表現するスポーツ。彼女はお客さんにそれを全身で伝えるすごい表現力があった。この選手をプロレスからなくすのはもったいないと思った」
2006年、センダイガールズプロレスリング(仙女)を旗揚げする。彼女の他に所属選手は新人4人のみ。女子プロレスは冬の時代。全日本女子プロレスも倒産した。それでも仙台に根を張り、地元の人々に愛され、お客さんやスポンサーもつくようになった。
震災や大けが……続いた苦難
そこに、東日本大震災が起こる。
興行ができなくなり、新崎は仙女から手を引くことを決め、里村が社長を引き継いだ。「自分はまだ100%出し切っていない。やめるなんてできない」
家賃3万円のアパートを事務所として借り、しばらくはリングも道場もなく公園で練習をした。前払い金のいらないライブハウスでトークショーを開き、稼いだ資金を元手にプロレスの聖地といわれる後楽園ホールで興行。大成功に終わった。
だが、苦難は続く。自分が看板なのに右足のすねを骨折。1カ月休んだ後に痛み止めを飲んで試合に復帰した。所属選手が自分以外に1人だけになってしまったこともある。
練習も日常生活も、ストイックさを求める里村に、選手がついてこなかったことがある。「どうしてわかってもらえないのか」。一人で悩んだ。
威圧感をなくし、一人ひとりと向き合うことが大事だと気づいた。選手に自分から話しかけ、営業に行って雰囲気が良い会社だと、どういうリーダーか調べ、経営者の本を読みあさった。やがて有望な選手も入ってきた。レスリングで世界大学選手権3位の実績がある橋本千紘らだ。橋本は今も仙女を屋台骨として支える。
日々綱渡りのなかで、里村の心の支えになっていることがあった。「海外への挑戦」だ。米国のリングに上がりたい。2011年にこれまでの経歴をまとめた試合映像をメールで世界最大のプロレス団体WWEに送った。すぐ「あなたは必要ありません」と返事が。だがあきらめず、翌年は地方の小さな団体に「自腹で交通費を出していきます」と売りこんだ。
名も知らぬレスラーに総立ち
そうやって実現したフィラデルフィアでの大会。300人ほどの小さな会場で、誰も自分のことを知らない。自分の名前がコールされても歓声は上がらず、リングを見てもいない。
だが、試合が進むにつれ観客の視線が次第に自分に集中してくるのを感じた。5分後くらいから歓声が上がりだし、やがて総立ちの盛り上がりのなか、10分で勝利を決めた。以降、オファーが来るようになった。
2014年には、アントニオ猪木から誘われ、北朝鮮で男子と共にプロレス興行をする。そんな積み重ねがWWEの目にとまり、2018年には声がかかって、女子のトーナメントに出場して4強に。同年には英国に参戦して王座についた。
2021年、WWE傘下の英国NXTUKから声をかけられ、選手兼コーチとして契約した。1年の約半分は海外で過ごすように。コーチとして、技のかけ方やタイミング、基礎トレーニングの方法などを教える。
技や表現力、試合の中身では米英の選手に勝てる自信がある。しかし海外の選手発掘や育成は日本とは全く違う。「五輪のメダリストなど、いろんなスポーツのトップアスリートがスカウトされて、プロレスでさらに活躍する。プロの専属コーチがいて、教育もしっかりしている。日本でもそんなシステムを作りたい」
44歳になり、引退の文字も頭をかすめる。「2023年になった時、選手をするのはあと1年かなと思ってた。でも、今はまだやり残したことがあると思っている」。まだまだ走り続ける。
(取材は2023年から2024年初頭にかけて行いました)