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「地球で最も危険」な格闘技、AV監督の経験で撮った 『迷子になった拳』今田監督

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「迷子になった拳」の今田哲史監督=鈴木暁子撮影

「地球上最も危険」と言われる格闘技をご存じだろうか? ミャンマーに古くから伝わる「ラウェイ」。禁じ手がほとんど許され、最後まで立っていれば両者とも「勇者」とたたえられる。そんな過酷で神聖な世界で、もがき戦う日本人選手らを追ったドキュメンタリー映画「迷子になった拳」が、3月26日から全国で順次公開される。16年ぶりにドキュメンタリー制作に挑み、軍事クーデター前のミャンマーの文化に触れた監督の今田哲史さん(45)に話を聞いた。(聞き手・鈴木暁子)

――一般にはあまり知られていないミャンマーの格闘技ラウェイを題材に、なぜドキュメンタリーを撮ることになったのですか。

偶然なんです。前の会社を辞めるとき、「格闘技やプロレスのドキュメンタリーを撮ってみたい」と話したのを記事に取り上げていただいたことがあって。それを読んだ制作会社の人から、やってみないかと声をかけられました。撮影に参加したのは2016年の暮れか17年の年頭だと思います。もともと格闘技やプロレスを見るのが好きだったので、いつか撮りたいと思っていたんです。言ってみるもんだなと思いました。

最初に発注を受けたのは、すでにミャンマーでラウェイに参加していた金子大輝くんだけを主人公に撮ってほしい、という内容でした。金子くんがこのままラウェイで勝っていく姿を撮ればいいのかな、ミャンマーのラウェイってどういう文化なのかな。そういったことを考えながら撮り始めたんですけれど、どんどん脱線していって。金子くんをただ「英雄」として描いたらちょっとうそくさいな、とは思っていた。危うさがある人で、そこが彼の魅力でもあるんですが。

金子大輝さんがラウェイで戦う直前の場面©映画「迷子になった拳」製作委員会

被写体は最初、金子くん一人しかいなかったんです。その後、選手も運営陣も面白い方にたくさん出会った。どの人が残っていくのか、わからないので全員撮っていった。「もう辞めます」「勝てないんで呼ばれなくなりました」という人が出てくる中で、渡慶次幸平さんがふるいに残りました。山場を作るといった演出はしなかったですね、勝手にいろんな事件が起きていって。

――格闘技って私にはあまり身近ではなかったのですが、試写を見て、不思議なほど感情移入してしまいました。

彼らは戦う姿を見せる人たちじゃないですか、リングの上で。自分が背負っているものとか、自分自身をリングに賭けるところがある。負けたら全部失うし、勝ったらいろいろ得るものがあるという人たちだから、その姿に心を動かされるんだと思うんですけどね。

普通に世間で生きていてもそういう瞬間はあると思うんですが、この人たちはわかりやすくリングの上でそれをやる。わざわざ見えるところでやるわけですから。感情移入するというのはそういう部分なのかなと思います。

■立ち続けていたら得るものがある

僧侶らも観戦するミャンマーでのラウェイの試合のシーン©映画「迷子になった拳」製作委員会

――格闘技が好きということですが、監督ご自身はリングには上がらない?

リングに上がることはないです(笑)。ただ僕も、映画学校に入るか、メキシコに行って選手としてルチャ・リブレ(メキシコスタイルのプロレス)のライセンスを取るか考えていた時期があるんです。でも僕は映画の方を選んだから、リングに上がる人たちのことは特別な思いで見ちゃう。20いくつの時の人生の選択肢で、どっちかをやりたいという思いがすごくあった。だから余計にリングに上がっている人たちに敬意を持つ部分はあります。自分ができないことをしてくれている、っていう。

――格闘技は見ているととても痛そうで……。なのに人はなぜ戦うのでしょう。

人はなぜ生きているのか、と同じことだと思うんです。なんで生きているのかって答えられないじゃないですか。でも生きている姿とか、戦っている姿っていうのは見えるわけだから。これに関してはそれぞれが考えればいい言葉だと思っています。

割とラウェイに挑戦する人っていうのは、格闘技界では一流にはなれなかった人が多くて。そういう人たちでも、戦いながら自分の居場所とか守りたいものをどんどん得ていくわけじゃないですか。僕も前の会社を辞めたとき、これからどうしようかというのはあったけれど、撮り続けていたら映画ができた。立ち続けていたり撮り続けていたり、戦い続けていたら、それぞれ何か得るもんがあるんじゃないの、僕らはできましたよ、ぐらいの思いはあります。

特に僕が前にいた業界は、本当は映画を撮りたいなんていう人がいたんですよね。自分もどこかで、ちゃんとドキュメンタリーをもう1回撮らないとな、という思いはずっとあって。それが10年以上かかった。映像自体は僕はあきらめなかったというか、続けていたんで。その意味でも、そういうところを見て欲しいというのはありますね。

■AV監督だった自分 選手に重ね

――前の会社はアダルトビデオ(AV)の制作会社で、10年間監督として活動してきたのですね。今作品は16年ぶりのドキュメンタリー制作でした。

日本映画学校(現・日本映画大学)の卒業制作で、群馬県のハンセン病療養所で暮らす人々の今を追った「熊笹の遺言」(04年)を上映し、ドキュメンタリー系のAVを撮る制作会社に行きました。意識としては、ずっとドキュメンタリーを撮っていたんです。AV女優さんに「なんでAVに出たんですか」などとインタビューする、昔は多かったジャンルです。最近はもっとキラキラしたものが見たい人が多いらしくて、辞める間際にはドキュメンタリーAV自体が廃れてはいたんですが。

――AV制作から学んだことも多かったのではないですか。

そうですね、例えば2日の日程のうちに、女性と仲良くなったうえ、その内面にも迫らないといけない。被写体の人と距離感をいかに作るかは、多分AVで学んだと思います。10年いたので100本ぐらいは撮っていると思います。

今回の作品も、僕の中ではそのときの手法で撮ったようなものだし、映画っぽさというのよりも、AVをやっていたときに学んだ手法で作りたかったんですよね。それに対する文句を言う人は結構いるんですが、「映画らしくない」と。

©映画「迷子になった拳」製作委員会

――「映画」ではなくAVっぽいアプローチだという意見があると。どういうところがですか?

例えば僕がAVを作っていたときは、主語は自分で、AV女優の人たちを一人称で撮る。自分からみた女の子だとかを私小説的なアプローチで作っていました。だから今回のドキュメンタリーも自分が見たラウェイになっている。今回の作品では自分が感じ、受け取ったものをテロップで表示したりもしているので、そういう部分に対する批判もある。自分(監督)の人称を出さないでいいんじゃないかと言う人もいるんですよね。「君がどう思ったかなんてそんなの知らんよ」と。でもそれでいいんです。僕はそういうふうに作りたかった。

――タイトルに「迷子」という言葉があります。日本で興業をする二つの団体の中で様々な解釈があり、ラウェイはどこにいってしまうのかという疑問を込めたのですか。

それもありましたし、監督である僕自身も生きていることで迷っている時期だったし。みんなが、何かを探している状態だったと思うんですよね。多分ラウェイに出ている選手っていろんなところに出てはみたものの、これでいいのかなと思いながら、めぐりめぐってラウェイにくる選手が多かったので。

――AV制作をしていた時は、どこか日陰者のように見られることもあったのでしょうか。

そうですね、だからちょっと重なるんです。僕たちの制作したAV作品をプロレスラーの方たちがまねて、「プロレスキャノンボール」という映画ができたことがありました。僕らが撮ったのはR18(18歳未満鑑賞禁止)でしたが、プロレスキャノンボールはRの規制がなかった。フィナーレはみんなでプロレス大会をやって、おばあちゃんとか子どもとかみんなが出てくるシーンなんだけれど、僕らはそういうのを作れないっていうのがあったから。みんなで日の当たる場所でなんかやるっていうのが、すごいよかったんですよ。やっぱりAV監督っていう時点で、嫌なことを言ってくる人は多いし。殺すぞとか見ず知らずの方に普通に言われたりしますから。ああ、この職業だからかなっていうのはあったので。

■ミャンマーの人の思い 何も知らなかった

2018年11月のヤンゴン市内の様子=鈴木暁子撮影

――本作の撮影ではミャンマーには何回ぐらい行ったのですか。

17年~19年ごろの間に、4、5回ですね、だいたい1週間から2週間ぐらい滞在して。それまで訪ねたことはなく、ミャンマーという名前は知っているというぐらいでした。イメージはやっぱり「ビルマの竪琴」。タイの隣ということも初めて知るぐらいで。軍事政権だったという印象があったから、最初はちょっと怖い場所っていうイメージでした。

――でも、実際に行ってみると違う印象だったそうですね。

軍事政権の頃にスーチーさんが軟禁されていたといった情報は聞いていたから、「平和な国」っていうイメージがまったくなかったんですが、行ったらすごく平和な国というか。毎日お坊さんたちが通りを何十人って歩いて、朝、みんながご飯を渡していて。喜捨の精神があり、ものすごい数のお坊さんがいるんです、40万人ぐらいいると聞きました。ミャンマーの人はすぐ出家するし、車で走っていてもお坊さんが歩いていると止めて乗せたりする。そういうのってすごいなと思いました。

あと、男の子同士で仲良く手をつないで歩いていたりしましたね。南国っていう感じですよね。台湾などとも違う、独特の柔らかい人たちが多かった。

2018年11月のヤンゴン市内の様子=鈴木暁子撮影

――ラウェイをミャンマーで初めて見た印象はどうでしたか。

もう相当過酷な競技です。みんなぶっ倒れて血を出したり、そういうのがすごく多かった。でも面白いなと思いましたね。本当にきれいに勝とうとするのでなく、立ち向かっていってぶっ倒しに行くっていうか。現代格闘技らしくない、スポーツライクではないんですよね、戦い方が。もし判定があれば、どちらが有効打を与えたとか、その後はなるべくもらわないように距離を離して戦うといったことがあり得ますが、ルールであるのは「目を突く、首を絞めることは禁止」みたいなもの。もうぶっ倒すしかないっていう。

――過酷ですね。のんびりした雰囲気だったミャンマーのような国に、ともすると乱暴だと見なされそうな格闘技があることは、意外ではありませんでしたか。

日本人から見るとそうなんだと思います。でも現地の人は、それが過酷だとか残酷だとか一切思っていないと思います。終わったらにこにこしているし。日本人の格闘家はトラッシュトーク(相手選手へのきたない言葉や挑発)とかするじゃないですか。それは相手を憎まないと戦えないというところがあるんだと思う。けれど、ミャンマーの選手たちには戦いが「日常」だったりする。ラウェイではトラッシュトークも禁止だし、相手につばを吐くとか、相手の悪口を言うことが数少ない禁止ルールに入っています。だから「過酷」だとは思っているかもしれないが、「残酷」なことをお互いしているとは全然思っていないと思う。

――最も危険な格闘技ではあっても、「野蛮」とは違うと。

違うと思います。選手たちもそんなふうに思っていないと思う。でもこういうルールに日本人が適応しようとしたら、精神的にも本当に「ぶっつぶす」とか思わないとできないぐらいの過酷さがあるから、多分そこに日本とミャンマーの温度差があり、取り組む人たちの姿勢がだいぶ違うのだと思います。

渡慶次幸平さん©映画「迷子になった拳」製作委員会

――優位に戦う金子さんに対し、ミャンマー人の師匠が「相手に敬意を持ちなさい」とたしなめるシーンがありましたね。

あれは日本人だとあまり言わないと思うんですよね。ここは神聖な場なんだよということをコーチは言っているわけじゃないですか。日本だと、ボクシング界などでも暴言を吐いて問題になった方もいた。「殺してこい」と言ったり。そうでもしないと戦えないのだと思います。ミャンマーでは昔は村の代表たちが戦って、争い事をラウェイによっておさめていたという文化があると言う人もいる。ラウェイの試合前に「ヤイダンス」を踊りますが、明確にはわかりませんでしたが、仏教だけでなく精霊信仰のようなものがラウェイのルーツにあるのではないかと感じました。

――強い人は雄者として尊敬されるのですか。

やっぱりそういうところがあるんです。金子くんが試合に負けても、「昨日の試合はすごいよかったから」と航空会社の人がファーストクラスに変えてくれる、といったことが普通にある。でも、実際に勇者になったラウェイ選手が引退したらどうなるのか、それをいつか見たいし、撮りたいなと思いますね。

勝ち負けってそんなに重要視されていないというか。ラウェイだと勝った人が金メダル、負けた人も銀メダルをもらえる。日本人が考えるメダルやベルトの価値観とも全然違う。君はこの試合で頑張ったからベルトをあげます、っていう勝利者賞的なものなんですよね。

――かつての軍事政権下のミャンマーでは、ラウェイの試合は続けられていたのですか。

軍事政権というのは人が大勢集まることを嫌がるものですよね。集会は禁止されるのですが、ラウェイに関しては意外とおこなわれていたそうです。軍事政権下での不満といった、民衆のガス抜きのためのイベントとして行われていたと聞きました。でも主催者はすごく監視されていたと耳にしました。

©映画「迷子になった拳」製作委員会

――今年2月にミャンマーでは軍によるクーデターが起きました。撮影で出会った人たちはご無事ですか。

ミャンマーに詳しい方が、現地の人から届いた映像を回してくれるんです。悲惨な動画などをよく目にします。現地でお世話になった日本人の記者の方が一時逮捕されたり、ラウェイのコーチも捕まったりしている。「釈放された」という情報もすぐ来るのですが。それを聞いていると、ああ、なんていうんだろう、結局あの国のことを、僕は撮っている中でそこまでわからなかったから。軍事政権下での彼らの生活がどうだったのかとか、その人たちがどういう思いで生きていきたのか、実際僕はなんにも知らなかったんだなとすごく思って。

僕がミャンマーで撮影していた期間は、軍事政権の脅威を感じずに撮っていました。日本に帰ってこの映画を仕上げた時も、そういうことはまったく感じていなかった。そしてああいうことが起きてしまったから。自分はミャンマーのことを知らなかったんだなということを強く思っている。だからこそ余計、落ち着いたらまた撮りたいって。

――ミャンマーは素晴らしい文化がある国なのだということを、平和な時期に撮影し、いま伝えることができたというのはとても貴重なことだと思います。平和が戻ってほしいです。

そうですね、だからこそこの映画を見て欲しいという思いはすごくあります。少なくとも撮影した時にミャンマーはどういう国だったのかということが映っているじゃないですか。それは見て欲しい。いまは、1日20人死亡したといった情報が普通に流れてきますから。自分の撮影した場所がどんどんそういうふうになっていくのは見ていてとても悲しい。

――次回作は考えていますか。

この続きは撮りたいと思っています。ミャンマーがどうなるのか、ミャンマーを撮りたい。今回起きたことの、いいも悪いもそれすらもよく判断もできないし、軍事政権下はどういう生活だったのかすら、何もわからない。撮りたいものはたくさんあって平行して進めていますが。またミャンマーで撮りたいという思いを持っています。

いまだ・さとし 1976年生まれ、東京都出身。日本映画学校(現・日本映画大学)卒業後はドキュメンタリー監督の原一男氏に師事。16年ぶりとなるドキュメンタリー映画「迷子になった拳」は3月26日から東京・渋谷ホワイトシネクイントほか全国順次公開予定。