コロナ禍からの客足も回復途上にあるこの春、ブロードウェーが新作ラッシュの様相だ。3、4月に18本が開幕を予定するという。
一つの作品がブロードウェーの劇場で上演されるまでには、年単位の時間と多額の資金がいる。日本でも上演され、大がかりな装置と手の込んだ衣装も話題となった大作「ムーラン・ルージュ! ザ・ミュージカル」の場合、開幕までに2800万ドル(約42億円)かかったとされる。
企画の立ち上げから、原作がある場合はその権利の取得、資金集め、スタッフ・キャストの決定、そのすべてを統べるのがプロデューサーの仕事だ。
セットや衣装なしでせりふや歌の一部を披露する「リーディング」などで出資者を募り、地方都市での試演「トライアウト」を経て作品を練り上げていく。「開幕まで10年、20年かかる作品もあります」。ようやく開幕にこぎ着けても、チケットの売り上げによってはたった1回の公演で閉幕することもある厳しい世界だ。
現在、吉井さんのもとでもブロードウェー入りを目指す複数の企画が進む。「そうしておかないと、何がうまくいくか分からないですから」
投資銀行で見つけた転機
高校時代はアメリカ・モンタナ州の高校に1年間、交換留学。卒業祝いに、母とニューヨークを訪れ、初めてブロードウェーで観劇した。
子どものころから、親に連れられて「オズの魔法使い」や「屋根の上のヴァイオリン弾き」といったミュージカルや、宝塚歌団の舞台に親しみ、一時は音楽大学を目指したこともあった吉井さんには、憧れの地。歌も迫力があって、「これが本場か!」と魅了された。
でも、この時は、客席から見えない仕事に多くの人がかかわっていること、そして将来、その一人に自分がなるなんて、想像もできなかった。
帰国後、アメリカの大学の日本校に入学した。その後、フィラデルフィアの本校で学ぶ予定だったが、「より日本人の少ない環境」を求めて直前に予定を変更。ブロードウェーに近いニューヨーク市立大学に進んだ。
卒業後は日本企業の採用試験を受けたが不採用だった。経験を積もうとニューヨークの法律事務所でパラリーガル(弁護士補助員)として働き始め、すぐに気づいた。
「これは、私のやりたいことじゃない」。モヤモヤしたまま、数年の間に2回転職。M&A(合併・買収)専門の投資銀行で金融アナリストとして働いていた時、転機は訪れた。
投資銀行の創業者の妹は劇作家で、彼の部屋は舞台のポスターでいっぱい。「ブロードウェーの作品に出資した」「劇団の理事になった」。そんな会話をよく耳にした。
「この時、自分の働くウォール街とブロードウェーが『お金』でつながっていることに気づいたんです」。舞台に立てなくても、仕事ができるかもしれないと、初めて思った。
100人以上に当たって……
もちろん、演劇界にはツテはない。会う人に手当たり次第、「ブロードウェーで仕事がしたい」と伝えた。「何を夢みたいなことを……」。そんな反応が、ほとんどだった。でも、知人や、そのまた知り合いを紹介してくれた人もいた。
「無謀ですよね。でも、色々な方からの質問に答えていくうちに、自分のやりたいことが少しずつ明確になった気がします」
1年ほどで100人以上の人に会い続け、開業直後の制作会社で「電話番のような仕事」を得た。インターネットが発達していない時代。経営コンサルティングの会社での仕事などと二足のわらじを続けるうち、人づてにブロードウェーの上演作品への投資や、上演権などについて日本の企業から問い合わせが来るようになった。
約2年で独立。並行して、6年かけてニューヨーク市立大学大学院でパフォーミングアーツ・マネジメントの修士号を取得した。
日米合作映画のプロデュース経験を経て、1997年、舞台やイベントのプロデュースを行う会社「ゴージャス・エンターテインメント」を設立した。
30年の付き合いがあるエンターテインメント分野専門の弁護士トーマス・ディストラー氏(65)は、吉井さんの強みは相手と「個人的につながり、信頼を得る能力」にあるという。
特に感銘を受けたのは、伝説的な演出家・プロデューサー、ハロルド・プリンス氏の代表作の名場面をつづる「プリンス・オブ・ブロードウェイ」を実現させた時だ。
「取りまとめが非常に複雑な企画だったが、彼女はハロルドの尊敬と信頼を勝ち取った。彼は自分の遺産を彼女に託したのです」
吉井さんは「クリエーターの『これをやりたい』というパッションが、乗り移る時があるんです。他人の夢にシンクロするというか……。そうすると、自分ができることは何でもやりたいと思っちゃう」
これまでに手がけてきた中で、忘れられない作品がある。ろう者と難聴者、聴者の俳優が共に創作する舞台で知られる、劇団デフ・ウエスト・シアター版のミュージカル「ビッグ・リバー」だ。
原作は、南北戦争以前のアメリカ南部を舞台に逃亡奴隷と白人の少年との友情を描いた、マーク・トウェインの小説「ハックルベリー・フィンの冒険」。ロサンゼルスでの上演を偶然観劇し、手話と振り付けが見事に融合した舞台に引き込まれた。
物語が進むうち、聴者の歌声が消え、手話だけで言葉が紡がれる時間が訪れた。
「その時、初めて音のない世界ってこういうことなんだと気がついたんです」。心震えるまま、ブロードウェー上演に向けた資金集めの支援を申し出た。2004年に来日公演も実現させた。
東京で上演中、劇場のロビーで一人の男性が、筆談で話しかけてきた。
「プロデューサーですか?」
「そうです」と答えると、男性は続けた。
「こんな作品を持ってきてくれて、ありがとう」
「この話をすると、今でも目がウルウルしてしまう。これを超える経験は、今はまだないですね」と振り返る。
多様なコミュニティーの作品を
2020年に始まった新型コロナウイルスの世界的な感染拡大は、これまでの会社経営のなかで、最大の危機だった。ブロードウェーでは3月に全ての劇場が閉鎖。休業期間は3カ月、半年、10カ月と延び続けた。
先の見えない不安のなか、一時は借りていたオフィスを手放そうかと悩んだ。それでも、「いつかは元に戻るはず。準備は万全にしておかなければ」と、進行中の企画を脚本家と練るなどリモートでもできる作業を続けた。
宮本亞門さん演出の新作「The Karate Kid-The Musical」も、その一つ。2022年のトライアウトを経て、ブロードウェー入りの時期をうかがう。
プロデュース業に加え、2021年に推薦されて理事に就任した業界団体「ブロードウェー・リーグ」では、アジアや太平洋諸島にルーツを持つ観客を増やすプロジェクトに取り組む。
マイノリティーの中でも、アジア・太平洋諸島系の人たちは、客席にも、舞台を支える側にも、まだまだ少ない。
「私がこの業界に入った時には、思いもしなかったポジションを得た。人種に限らず、多様なコミュニティーから生まれた作品を、誰でも安心して楽しめる場所にできたらと思います」