今回、挑むのは、ジョージ・オーウェルの同名小説を原作に、行動や言葉、思想すら統制される社会を描く英国発の問題作。俳優の演技、監視社会を象徴するスクリーンの映像やセットの動き、どれか一つずれても、物語の流れは途切れてしまう。公演中も調整と確認が続く。
「リアルで緻密」と評される小川の演出を支えるのは、俳優たちとの根気強いやりとりだ。立ち稽古の前、時間をかけて脚本を読み合わせ、シーンや役について「青写真」を共有する。劇中の状況や人間関係をリアルに感じられるよう、ゲームで遊ぶことも。今回は、俳優陣を弁護人、検察官、陪審員に分け、裁判形式で「『1984』の世界は幸福か」を議論した。「この世界を弁護されたら、自分がどんな意見になるかも知りたくて――。役者さんのアイデアで理解が深まることはいっぱいある」
小川が、ニューヨークで学んだフリーの専業演出家として、日本で本格的に活動を始めたのは8年前。自ら劇団を主宰し脚本も書く、または老舗劇団で経験を積む――そんな演出家の多い日本では、異色の経歴と言える。だが、翻訳も手がける英語の力への評価も高く、今や依頼は切れ目なく続く。一緒に仕事をした俳優の中には、厚い信頼を寄せる人も少なくないという。俳優の那須佐代子(52)は「役者に忍耐強く寄り添い、良い所を引き出そうとするのが絵梨子さんの演出」。
9月、歴代最年少で新国立劇場演劇部門の6代目芸術監督に就く。その道のりは、よりどころのない不安との闘いだった。
演劇が「居場所」だった
演劇との出合いは、祖母や大叔母のお供で劇場に出かけた子ども時代。人前に立つのが好きだった少女は当然のように、聖心女子学院初等科で演劇部に入った。「幼稚園の頃から演じるのは主役。好きなことへの集中力はすごかった」と、母・泰子(69)。ところが、中等科に進み、目立つことが嫌になる。同級生がいないからと演劇部も避けた。自意識が強くなる思春期。小中高一貫校の密接な人間関係も息苦しく、ストレスから甘い物を大量に食べ、体重は40~70キロ台を乱高下した。
一方、演劇熱は高まっていく。1980年代の小劇場ブームから生まれた才能たちが、多彩なスタイルを競っていた時代。軽やかな身体性と言葉遊びから壮大な物語を立ち上げる野田秀樹、笑いに包み人間の本質を描く三谷幸喜。共に劇作と演出を兼ねる2人は、小川にとってスターだった。
中等科3年の時にやってきた転校生と一緒に、演劇部に入部。窮屈な日常の中で唯一、ありのままでいられる場になる。高等科3年で「銀河鉄道の夜」の演出を担当したのは偶然だった。「引いて見る方が面白いし、アイデアを思いつくのも楽しい。私がやりたいのは演出だ」。演劇を学べる大学への進学も考えた。でも結局、系列の女子大へ。女性だけで演じる学内の演劇サークルに興味はわかず、かといって、他大学の劇団に入る勇気もない。人に合わせようとしすぎて、自分の感情が分からなくなる――。そんな自分を変えることができず、嫌になっていた。
転機は20歳で訪れる。友人が留学中のニューヨークの大学で、演劇の授業を見学した。知識を体系的に学び、それを作品づくりにつなげる学生たちに驚く。「演劇は『勉強』できるんだ」。ここでなら、集団の上下関係が苦手な自分も、と思う。
学校見学のためニューヨークを再訪。役の内面を重視する演技理論で知られ、マーロン・ブランドらも学んだ名門俳優訓練機関「アクターズ・スタジオ」の設けた大学院を志望先に選ぶ。TOEFLの点数は入学基準に約20点足りなかったが、熱意で押し通せると、上達を約束する手紙を添えた。合格した。
一人暮らしも初めてで、海外生活はやかん一つ買うにも苦労するサバイバル。言葉の壁も立ちはだかった。学生はネイティブばかり。講義が聞き取れない小川を見かね、「学校が責任をとるべきだ」と憤る教師もいた。しばらく泣いてばかりの日が続いたが、気持ちは伸びやかだった。「生き抜くために頑張るのは面白かった。全てが新しく、何でもいいんだと思えて」。級友にも助けられた。1人は校長と交渉し、費用は学校持ちの家庭教師になってくれた。「1時間20ドル。無料でも教えてくれたろうけれど、筋を通したんだと思う。文化が違う!と衝撃でした」
演出の授業に加え、いかに心と体で役に向き合うかといった演技の基礎訓練からも多くを得た。3年間、言われ続けたのは〝Moment to Moment〟。「何かが起きる生き生きとした瞬間と瞬間を確実につなげ――。稽古場で今も繰り返している」
卒業後も帰国せず、短期の研修プログラムや仲間との劇団で演出を続けた。大正後期~昭和前期の劇作家・岸田国士の短編を、小劇場で日本人俳優と英語で上演。ニューヨーク・タイムズ紙に、短いが好意的な評が載ったこともある。ただ、次第に英語を母語としないハンディも感じ始めた。と言って、日本に拠点を移す足がかりもない。30歳を目前に焦りだした。
しばらくして、サム・シェパードの戯曲「今は亡きヘンリー・モス」の日本語訳の仕事を受ける。依頼主は、知人の紹介で知り合ったプロデューサー・江口剛史(59)。兄弟と暴力的な父親との関係を描く幻想的な物語を、小川は、チェックを頼んだ米国人の劇作家があきれるほど、原文と日本語の距離感を確かめながら、入念に訳した。一読し、江口は驚く。「3人の関係性がフワッと浮かび、台本がよみがえった」。迷わず、演出も頼んだ。
持てる力全てで挑む
だが、当時、日本ではほぼ無名。稽古場に「誰?」という空気が流れた。小川も舞台用語や作品を練っていく過程が米国と違うと知り、戸惑う。でも、引き返せない。極度の不安に陥った。ニューヨーク時代の仲間で俳優の保科由里子が助手についてくれた。稽古後、スイッチが切れたように寝転がり、2人で一日を振り返る。精神安定剤も服用し、踏みとどまった。「自分の持つ力、全てで挑む姿を尊いと思った」と保科は言う。
開幕すると、リアルな人間描写とドラマが評価された。現在の新国立劇場演劇部門の芸術監督、演出家・宮田慶子(60)は「俳優が内面から生まれるものを頼りに芝居をしていた。時間をかけないとたどり着けないこと。頼もしく思った」。小川にとっては、父親役の故・中嶋しゅうをはじめ、目標を共有できる俳優との出会いも財産となった。「役や物語がまず先にくる、自分と同じ方向性の方でした。ひたすら怖かったけれど、勇気になった」。この成功が扉を開き、日本で活躍の場が広がっていく。14年にはニューヨークのアパートを引き払った。
小川には願いがある。「演劇に慣れていない人も、自然に物語を体験できる演劇を育てたい」。自分は、10代で憧れたスターのように、すごく新しい何かを生みだすタイプではないと思っている。だからこそ――。芸術監督1年目の企画にも、種はまいたつもりだ。「一代では出来ないかも。でも、カラフルな日本の演劇に、そのラインが1本、あってほしい」
Profile
- 1985 聖心女子学院初等科入学
- 1997 聖心女子大文学部に入学
- 2001 同大卒業後、ニューヨーク「アクターズ・スタジオ」の大学院に留学
- 2004 同大学院演出部卒業
- 2006 文化庁新進芸術家海外研修制度研修生(2年間)
- 2010 東京で「今は亡きヘンリー・モス」を翻訳・演出。同作で「小田島雄志・翻訳戯曲賞」受賞
- 2011 「12人~奇跡の物語~」「夜の来訪者」「プライド」を演出
- 2012 11年の3作品の演出で読売演劇大賞・杉村春子賞を演出家として初受賞
- 2013 新国立劇場で「OPUS/作品」を演出。紀伊国屋演劇賞個人賞を受賞
- 2016 新国立劇場演劇部門の芸術参与に
- 2018 9月、同部門の芸術監督に就任
Memo
隔世遺伝…父方の大伯父に、映画「旗本退屈男」シリーズに携わった脚本家の御荘金吾、漫才師・軽演劇俳優として活躍した内海突破がいる。「直接空気をもらったわけではないですが、不思議。うれしいなあと思います」と小川。
苦手…朝、起きるのが苦手。ニューヨークに留学した当初、母・泰子に国際電話でモーニングコールを頼んだこともある。
ストレス解消…買い物。保科によると、ニューヨーク時代はセールに出かけ、いっぱい試着した。それから、携帯電話のパズルゲーム。1年に1、2回、スケジュールがあくと温泉に出かける。