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HOMMAのスマートホームはスピーカー不要 本間毅氏が悟った、住宅はデータの宝庫

スタートアップワールドカップ 更新日: 公開日:
取材に応じる本間毅さん
取材に応じる本間毅さん=2023年11月17日、東京・築地、関根和弘撮影

スタートアップの世界的なピッチコンテスト「スタートアップワールドカップ2023」の本選が11月29日(現地時間)、アメリカ・サンフランシスコで始まる。日本からは、スマートホームメーカー「HOMMA Group」など2社が出場する。同社はアメリカ・シリコンバレーに拠点を置くが、本間毅社長=鳥取県出身=のルーツが京都にあることから京都予選に出場、代表権を獲得した。アメリカの有名起業家たちを目の当たりにしてきた本間さん。彼が考える「世界で戦えるスタートアップ」とは――。

――御社の拠点はアメリカ・シリコンバレーです。にもかかわらず、スタートアップワールドカップでは京都予選に出場しました。なぜですか。

京都予選でもお話ししましたが、父方のルーツが京都にあるんですね。あのときの説明に少し事実誤認があったかもしれないのでもう一度話しますと、私が祖父らの話によると、本間家は元々東北にいたけども、織田信長が安土城(現滋賀県)を建築する際、連れてこられた大工の一人だったとの言い伝えがあるようです。

その後、京都に移り、江戸の始めには大工として暮らしていたと。少なくとも私の曽祖父ぐらいまではずっと大工をやっていて、祖父の代に鳥取に引っ越しましたけど、彼も設計関連の仕事をやっていました。私が今回、スタートアップワールドカップに出場するにあたり、事業拠点のアメリカではなく京都予選を選んだのには、そんな背景があったんです。

ちなみに母方も建築関係なんですよ。ルーツは島根。この地で生産されている石州瓦作りを代々やっていて、祖父の代になって鳥取に移り、瓦を中心とする建築資材の販売会社を創業しました。

――そして現在、ご自身の会社も住宅建築関係。縁を感じますね。

縁というなら、これだけではないんです。スマートホームは、住宅×ITということですが、実は私、大学生の時に一度起業していまして。それがインターネット関連だったんですね。

――何と。それは確かにすごい縁ですね。最初の起業はどんな事業だったのですか。

両祖父が経営者だったということもあり、中学のころから漠然と経営者になることを考えていて、大学で選んだのも商学部経営学科だったんです。2年生だった1995年、ちょうどインターネットが出てきまして。

たまたまサークルの先輩がパソコン通信をやっていて、自宅に遊びに行ったとき、「本間、これ見てみろ」って、Macでホワイトハウスのウェブページを見せてくれたんです。ちなみに当時のブラウザはMosaic(モザイク)ですよ。

これは面白いと思ってのめり込み、もしかしたらこれで商売できるかもしれないって考えたんですよね。

事業は色々考えました。例えばインターネットと本は相性がいいから、本の通販はどうかとか、今で言うAmazonと同じですよね。あるいは車の売買とか、国際貿易とか。アイデアはあったんですけど、学生だからとにかくお金がないんです。その上、人脈もビジネスの経験もない。

そこではまずは最初の種銭を作る必要があると思って、ホームページの制作を自分で請け負うことにしました。それが大学3年のころです。東京で独り暮らしをしていたワンルームマンションにMac1台置いて、自分で名刺を作って、ホームページ作りますって営業して回っていました。

――就職活動はどうされたのですか。

仕事がうまく行き始め、友達と事務所を借りるほどになっていきました。楽しくなったし、勉強にも身が入らなくなり、大学も4年で卒業できないことが明確になりました。

4年の時、父や祖父、おじから鳥取に呼ばれて、「お前どうすんだ?」と問い詰められて。「ごめん、もう4年で卒業できないんだよね」と。そして「今自分でインターネットの仕事を始めていて、これをどうにか頑張りたいと思っている」と打ち明けると、「ばかを言え、お前みたいな若者に会社の経営なんかできるわけがないだろう。地元の大手銀行の役員と就職の話もつけてるんだから、大学出たらこっちに戻って、銀行に勤めて結婚しろ。頑張れば支店長ぐらいにはなれる。そしてマイホームを建てて幸せに暮らせ」と言われました。

なにぶん田舎で、私が長男ということもあって、父はもちろんのこと、祖父やおじも気になったんでしょうね。私と父が話し合って決められることではなく、みんなで共有しながら決めろと(笑)。

それで私は「いや、ごめん。僕の人生はそうじゃないから」って言って。説得を振り払うようにしてそのまま仕事を続けました。

当時はインターネットで仕事をすると言っても、大人は「ありえないでしょ」っていう反応です。そもそもベンチャー企業という言葉すらほとんど市民権を得てなかったので、若い人が新しいビジネスをすることに対する社会的認知がほとんどありませんでした。なので彼らを責めるつもりは全くないんですが、ただ、あのときの自分の選択は間違ってなかったなと、今でも思いますね。

――その後事業はどうなったのでしょう。

大学4年だった1997年、イエルネットという会社を設立して事業を拡大させました。50人ぐらいの社員を抱えるまでになり、2001年にはマザーズ上場を目指して準備していました。目論見書を作って、株券も印刷し、主幹事証券も決まり。さあということで、インターネットバブルがはじけてしまって。

事業もあまり伸びなくなってしまい、いったん上場をやめようかっていう話になって。でももう、そこから戻らなかったんですよね。

先日私が出場したスタートアップワールドカップ京都予選に、堀江貴文さんも来場し、舞台で対談をされたと思うんですけど、実は堀江さん、上場手前のころのうちの会社の株主だったんですよ。

本間毅さんを紹介する朝日新聞の記事
本間さんは学生時代、インターネット関連のベンチャー企業家を特集した朝日新聞の記事で取り上げられたことがある。同じ記事の中では、堀江貴文さんや三木谷浩史さん、藤田晋さんらも紹介されている=1999年10月9日付夕刊

――そんなつながりがあったとは驚きです。堀江さん、今でも覚えてしましたか?

もちろんです。京都予選が終わった後、一緒に食事をしたんですが、「あのとき上場手前だったのにね」と言われまして(笑)。上場のときの資料を今でも覚えていると言っていました。

――堀江さんと本間さん。年齢はあんまり変わらないですよね?

堀江さんの方が2歳ぐらい上じゃないですかね。起業した時期もあまり変わらなくて、堀江さんのオン・ザ・エッヂの上場は、私の会社が上場しようとした半年か1年くらい前です。でも、その差ってすごく大きくて、よく「バスが出ちゃった」とか言うんですけど、堀江さんは「乗り遅れなかった」一人です。

一方、私の会社は受託中心だったこともあって、世の中のIT景気が悪くなるとその影響をもろに受けてしまって。上場断念後も2年ほど経営しましたが、経営状況が好転する兆しも大きく見えないこともあって他社に売却しました。それが28歳のころです。

――その時点で、次の仕事は決めていたのですか。

全く考えていませんでした。とにかく社員とお客様をどうするかに集中していたので。

最後の最後、お客様の一つ、ソニーの方に売却の話を伝えたとき、「これからどうするんですか?」と聞かれて。「まだ何も決まってません」と話すと、「じゃあ、ちょっと話聞いてみませんか?」と人事の人につないでもらいました。

ソニーは当時、インターネット系の事業部門を新設したタイミングで、部門の人材を厚くしたいということだったらしく、それで私に興味を持ってくれたんだと思います。

私の方にしてみれば、ソニーはハードウェア、音楽、映画、ゲームなど色んなアセットがあるんだけど、足りないのはインターネットだと思って。インターネットを組み合わせたら色んな面白いことができるはずだし、私の経験も生かせると。

ちょっと偉そうな言い方ですが、「大企業にベンチャースピリットをインストールするんだ」みたいなことを伝えて、入社が決まったと記憶しています。2003年1月のことです。

――ソニーではどんな仕事をしたのですか。

当初配属されたのが、インターネット事業部門の担当上席常務の直下にあった戦略部門でした。色んな経営課題に対し、戦略を練るところで、ソニーという組織を理解しながら戦略作りに携わりました。

一番大きかった仕事は、2007年に始めた動画共有サービス「EyeVio」です。カメラもテレビも作り、映像作品も扱っているのにサービスがないという状況だったので、ぜひ作るべきだと進言したんです。

すでにYouTubeがありましたが、まだ今ほどの規模で利用されていたわけではありませんでした。YouTubeの代わりと言わないまでも、同じようなプラットフォームを作り、ソニーの機器と連携させようという構想でした。

発表の記者会見にはハワード・ストリンガー会長も来日し、私も同席しました。サービス開始当初はサーバーがパンクするぐらい利用者がいて、華々しいスタートでした。

ソニーの会長兼社長を務めたハワード・ストリーンガー氏
ソニーの会長兼社長を務めたハワード・ストリーンガー氏=2009年3月、東京

それまでの実績が認められ、経営陣から「これからどうしたい?」と聞かれたので、「カリフォルニアに行きたいです」と言ったんですね。インターネットにずっと関わってきた人間にとって、聖地と言えばカリフォルニアのシリコンバレーなんですね。学生のころ訪れたことがありますが、それから潜在的にいきたいなと思っていました。

希望がかない、アメリカ法人である「ソニー・コーポレーション・オブ・アメリカ」のバイスプレジデントとして2008年に渡米しました。当時33歳ですから、異例の抜擢ですよね。

主に取り組んだのは、電子書籍を読むツール「ソニー・リーダー」事業です。このチームの戦略担当として、当時アメリカで人気が出ていたkindleに対抗するために力を入れていました。

ソニーには結局2012年までいて、その後楽天に転職しました。その2年前、楽天の三木谷浩史社長が社内の公用語を英語にするって言ったんですね。すごく感動して。

というのも、アメリカに行ってみて分かったのが、日本企業の存在感がほぼなかったんですよね。特にこれから伸びるインターネット産業の中で。疑問に思っていたところに、三木谷さんがそういう話をしたので、知り合いの楽天役員に「三木谷さんに会いたい」とお願いして、30分だけサンフランシスコで会ったんです。

それが縁で1年後、三木谷さんから誘いの連絡があって。その時私が言ったのは、「楽天はAmazonのようにお客さんを持ってますよね、だったら音楽や映像配信、クラウドサービスなど色んなデジタルコンテンツを展開して、それらをエコシステムとしてつなぐのはどうですか」と。それで入社することになりました。

――楽天ではどんな仕事をされたのですか?

アメリカにそのままいて、電子書籍Koboの事業に携わりました。Koboは元々、カナダの会社で、楽天が買収して子会社化したのですが、当初はコンテンツも端末も英語で横書き。それを縦書きの日本語でコンテンツが展開できるよう、出版社の交渉や端末の開発などを担当することになりました。

その仕事が一段落ついた後、デジタルコンテンツのグローバル戦略の担当役員に就任し、北米を中心にビジネス機会を探ったり、日本ですでにあるビジネスをアメリカで展開する戦略を考えたりしました。

楽天には4年いて、最後の2年ぐらいはシリコンバレーにあるオフィスで、ビジネスディベロップメントの責任者として、楽天とシナジーのありそうな会社を見つくろって、事業部につなげたり、買収や出資の話をしたりということをやっていました。

――本場シリコンバレーのスタートアップとも交流があったのではないですか。

そうなんです。三木谷さん自身もシリコンバレーに拠点を持っていて、名だたる起業家たちと交流をしていました。

私も同席することがあって、彼らとコミュニケーションして痛感したのは、創業してから10年もたたない会社が業界を大きく変えていると。「インターネットが」とか、そういうことではなくて、業界そのものをディスラプト(破壊的な変革)していて。こういう人たちが実現しているのかって、感動したんです。

スタートアップの力がね、すごいんです。起業家もすごい。すごくダイナミック。自分が学生時代にやっていた起業と比べてはるかにレベルが違う。これからはスタートアップが世の中を変えていくんだなと実感しました。

――どんな方と出会われたのですか。

例えばUberのトラビス・カラニック氏。ディナーの最中もずっと仕事の電話をしていました。激しく働く印象です。Airbnbや配車サービスのリフト(Lyft)創業メンバーは気さくですが賢そう。イーロン・マスク氏は頭がすごく切れて、ユニークな印象です。

トラビス・カラニック氏とイーロン・マスク氏の写真
トラビス・カラニック氏(左)とイーロン・マスク氏=いずれもロイター

――そんな出会いが再び、起業へと向かわせたのでしょうか。

それもあります。もう一つはアメリカの住宅事情でした。先ほども言いましたけど、父方、母方双方が建築関連の仕事だったこともあって、自然と住宅が気になりました。アメリカの住宅って本当に古いし、クオリティーも高くないし、工業化も進んでいないんです。日本からみればいまいちな部分が多くて。

ちょうどそのころ、Amazon Echo、いわゆる「Alexa」が出てきて、スマートホームというものは面白そうだなと。ただ、今も変わってないのですが、この手のスマートホームって、ユーザー自身がDIYで自宅に取り付け、設定して、スピーカーやらスマホのアプリやらでコントロールするという仕組みですよね。

これでは使い勝手は悪いなと思ったんです。とはいえ、スマートホームという形でテクノロジーが住宅に関わっていくであろう未来は見えて、かつ色んなスタートアップが世の中を変えている中で、住宅でイノベーションを起こしたらすごく面白いなと思ったんで、再び起業しようと思うようになりました。

Amazon Echoの写真
Amazon Echo=ロイター

――20代で起業して、その後は会社勤め。41歳で再び起業というのは大変ではなかったですか。

最初の起業で作った会社を売却したとき、本当にボロボロになるほど疲れて。とてもいい経験だったし、学ぶことも多かったけど、このしんどい体験はもういいやと思ったんです。

にもかかわらず、また41歳で起業しようと思ったのは、自分のために起業するということではなく、世の中に対して、自分がどうやったら一番貢献できるんだろうということを考えたからだと思うんですね。

会社に勤めて貢献できることもあります。でも、住宅の分野で自分が起業して、人々の生活をもっと未来の形に変えたら、時間の使い方としては一番いいんじゃないかと思ったんです。

20代のころの起業は、あこがれや自己実現、お金持ちになりたいとか、そんなモチベーションだったと思います。もちろん健全ですが、それって1回経験してしまうと、もういいかなと。

それに自分のために起業すると、面倒くさいなとか、つらいなとか、なりがちなんです。でも世の中のためにって思ったら、使命感と言ったら大げさかもしれないけど、やることが何かのためになるのに、やめてもいいのかとか、そういうミッションに駆られるところがあって。

スタートアップってとても困難なことが多いんです。どんなにすごい会社でも壁にぶち当たるので、自分はなぜやるのか、何をやりたいのかというのが明確になってないと、すぐに心折れてしまうんです。ミッションドリブンという視点がとても強いですね。

インタビューに応じる本間毅さんの写真
インタビューに応じる本間毅さん=2023年11月17日、東京・築地、関根和弘撮影

――住宅は衣食住という人間が生きていく上で必要な3要素の一つであって、これを快適にしようというのは会社のミッションとするのにふさわしいですね。

おっしゃる通りですね。人間は人生の40%を家の中ですごすとされています。スマホや車より、占有時間ははるかに多いわけで、そこを変えることの意味は大きいです。

――本間さんのスマートホームはどんなシステムなのか、具体的に教えて下さい。

これまでは家を建てることと、家の中をスマートにするテクノロジーを開発することが、別々の会社で行われていたんです。今でもそうなんですけど。

でも、例えばテスラの電気自動車もアップルのiPhoneも、ハードウェアとソフトウェアを全て自社開発し、それを一つに組み合わせることによってすごくイノベーティブなユーザー体験を生み出していると思うんです。もし両者が別々の会社によって作られていたら、うまく連携ないでしょう。家はまさにその状態なんです。

その結果、何が起きているかと言うと、スマートホームを実現しようとすれば、Amazon Echoなどを買ってきて、自分で取り付け、設定も自分ですると。操作が必要なって、スマホのアプリか、スマートスピーカーで「Alexa、電気を消して」とかやるわけですよね。

また、複数のデバイスを入れようとするとメーカーが違う場合はアプリがどんどん増えますし、設定も大変です。すべてが同時に動くみたいな連動もできません。

そもそもスマホ持っていないお年寄りや、アプリが入っていないゲストの方は、便利さを享受できない問題も起きてくる。要するに中途半端なんです。

そうした状況をうちは変えようとして、住宅のスマート化を設計段階から考え、すべてビルトインし、設定も終えた状態でお客さんに引き渡します。しかも管理はすべて一つのアプリでできるようにしています。そんなことをまず、自社物件でやりました。

自社物件で得られたノウハウやテクノロジー、ソフトウェアといったものを外部の不動産開発を担うディベロッパーにライセンス提供することも始めました。引き続き自社物件も手がけていて、常に開発を続けています。

具体的にどんなスマートホームが実現しているのかというと、まず完全に自動運転するライティングです。センサーで人の動きを感知してライトがついたり、いなくなったら消えたり。ただ点灯するのではなく、時間帯や曜日によって、ライトの色温度や明るさを変えることができます。落ち着きたいとき、目覚めの時、それぞれのシーンに合わせることができるので、生活環境はかなり改善されます。

例えば夜トイレに行こうとすると自動でライトが点灯しますが、すごく柔らかくて温かい光になります。目に優しいですし、トイレから出たら勝手にライトが消えてくれます。電気代も最大10%節約できたというデータもあり、快適、便利、かつ環境にもいいと。

ほかにもドアがオートロックされる機能もあります。出かけてから10秒後、30秒後、1分後など設定は自在です。空調だって自動制御です。

電動シェードの導入も進めています。人が外出して室内が無人になれば、勝手にシェードが閉まります。シェードは便利なんですが、特に家が広いアメリカでは全ての部屋のシェードを閉めるのは大変なんですね。冷暖房代も節約でき、省エネにもなります。

こうしたシステムを操作するパネルも家の中にはありません。「Alexa、ライトを消して」とかも言う必要はなくて、人の動きをセンサーで感知し、勝手に点灯したり消灯したりします。

一度このシステムを体験したら、快適で戻れないですよ。例えば車の窓もパワーウィンドーが出始めたとき、手で開閉するから必要ないという人もいたと思うんです。でもどうでしょう、いざ普及すれば、手動で開け閉めするなんて考えられませんよね。

――今後はどんなシステムの開発、サービスの提供を考えていますか。

まずはインストールする機能を増やしていきますが、たくさんのデバイスを組み込むことだけを考えているわけではありません。すでに組み込まれたデバイスの自動化の精度を高めることや、各デバイスを提供しているサービス事業者は、例えばソフトウェアをアップデートすることで新たなサービスを追加することも考えられます。

例えばスマートロックで、アプリで認証すれば外部の宅配サービスの人は限られた範囲までなら立ち入り、荷物を置くことができるとか。センサーが家のあちこちに設置されているので、万が一入ってはならないところに入られてもアラームで知らせるようにするとか。

センサーによって家の中で起きていることの様々なデータが取れるんですよね。このぐらいの間取りの家だとこの部屋が一番使われているとわかれば、次に建てる物件ではその部屋のスペースを広げようとか。一定程度、データドリブンみたいなこともできます。

取材に応じる本間毅さん
取材に応じる本間毅さん=2023年11月17日、東京・築地、関根和弘撮影

――日本では今、政府も含めて世界に通用するスタートアップが生まれるのを期待していますし、支援も厚くなっています。本間さんから見て、日本のスタートアップが事業をグローバルに展開するためには、どんな課題があると思いますか。

経営者の資質について言えば、特にネックはないと思います。優秀だし真面目だし、お客様もすごくいいと思うんですよね。ただ、英語に対する苦手意識が強いっていうのは課題でしょうね。

日本国内がそれなりに大きい市場なので、日本の中で勝ち残っていけばいいとなってしまうので、英語を頑張って身につけようとか思う人が多くないんでしょうね。

日本が居心地良すぎるんですよ。やっぱり最初が肝心で、スタートアップのスピード感や突破力を生かして、非上場の段階で海外進出を狙うべきですね。上場してからだとなかなかそういったスピード感はキープでいないので。

――改めてうかがいます。41歳で再び起業したご自身についてどう思いますか。

若いから起業する、若くないから起業しないっていうことではないと思うんですよね。シリコンバレーだと、起業2回目、3回目というのが当たり前なので。そうなると当然、40代、50代で起業することになります。別におかしいことではないんですよ。41歳なら41歳なりの起業の仕方があると思いますし、その人がその時の持ち味を生かして起業すればいいんだと思います。