カリブ海沿岸のマングローブ林を通ってまだらに太陽光が降り注ぐ海で、小さなハコクラゲが日陰に入ったり出たりしている。ハコクラゲは、その複雑な視覚システムなどもあって真正クラゲとは区別される。ブドウの房大のこの捕食者には24個の目がついている。しかし、他のクラゲと同様に、脳を持たず、神経細胞の分散ネットワークが立方体の体を制御している。
そのネットワークは、一般に考えられているよりも洗練されていることが判明した。研究者たちは2023年9月22日、ハコクラゲの一種「Tripedalia cystophora(トリぺダリア・シストフォラ=ミツデリッポウクラゲ)」が学習能力を有することを示す論文を学術誌「Current Biology(カレントバイオロジー=現在の生物学)」に発表した。
ハコクラゲはその昔、我らが動物界から分岐した種であることから、科学者たちがその認知能力を解明すれば、学習能力がどのように進化したのか理解するのに役に立つかもしれない。
ハコクラゲの学習ぶりを研究する際にやっかいだったのは、科学者がハコクラゲを手なずけて実験室で研究できるよう日常の行動パターンを見つけることだった。
(デンマークの)コペンハーゲン大学の生物学者で今回の論文筆者の一人でもあるアンダース・ガームによると、彼の研究チームは、ハコクラゲがマングローブの根にぶつかりそうになったときの素早い方向転換行動に研究の焦点を当てることにした。
マングローブの根は水中から黒い塔のように突き出ているが、周囲の水は対照的に青白く見える。だが、両者のコントラストは日々変化する可能性がある。沈泥が水を濁らせ、根までの距離がどれだけ離れているかの判断を難しくさせる。ハコクラゲは、根に近づきすぎていることをどのようにして判断するのか?
「ハコクラゲがそのことを学ぶ必要があるというのが仮説だった」とガームは言い、「ハコクラゲは生息地に戻る時、その日の水の具合はどうかを学習しなくてはならない。コントラストはどう変化しているかを」と続けた。
研究者たちは実験室で、マングローブの根と水を表す暗いしま模様と明るいしま模様の画像を交互に作りだし、それらを幅約6インチ(15センチ余り)のバケツの中に並べた。しま模様がはっきりした白と黒(水の透明度が高いことを表す)の時、ハコクラゲはバケツの縁には決して近づかなかった。しかし、しま模様のコントラストが薄れると、ハコクラゲはすぐさま近づきはじめた。科学者にとってこれが、ハコクラゲの学習ぶりを調べるチャンスだった。
ハコクラゲは何度か(縁との)衝突を繰り返した後、行動を変化させた。バケツに入れられてから8分とたたずに、ハコクラゲは縁までの距離の半分のところを泳ぐようになり、方向転換の回数は4倍近くになった。目前のしま模様と衝突に関連性を見いだしたようだった。
さらに、研究者たちはハコクラゲから視覚ニューロン(神経細胞)を取り出し、皿に移して調べた。細胞は、衝突を表す小さな電気信号を受信しながら、しま模様の画像を見せられた。細胞は5分以内に、ハコクラゲを方向転換させる信号を送り始めた。
「ハコクラゲが学習する速さには驚かされる」とヤン・ビエレッキは言う。ドイツにあるキール大学生理学研究所の博士研究員で、今回の論文筆者の一人だ。
この研究に関与していない研究者たちは、今回の研究結果について、学習の起源を理解する上で重要な前進とみている。「刺胞動物において、連想学習が説得力をもって実証されたのはこれでまだ3回目だ」とオーストラリア・シドニーのマッコーリー大学で刺胞動物を研究している教授ケン・チェンは言い、「これは生理学的データに満ちた最高の実証実験だ」と続けた。刺胞動物とは、イソギンチャクやヒドラ、クラゲなどを含む生物グループを指す。
米カリフォルニア大学バークリー校の博士研究員マイケル・エイブラムズによると、ハコクラゲが過去の経験に基づいて行動を変えることができることを示したこの実験結果は、ハコクラゲがある程度の短期記憶を有していることも示唆している。
クラゲの睡眠の神経科学を研究しているエイブラムズは、ハコクラゲが学習したことをどのくらいの期間、覚えているかを知りたいと考えている。ハコクラゲが水槽から取り出されてから1時間後に水槽に戻された場合、すべてを初めから学び直す必要があるのだろうか?
今後の研究で、研究者たちはハコクラゲが経験から学習する能力を制御する細胞を特定したいと思っている。ガームら研究仲間はハコクラゲが新しい情報を行動に組み込むときに細胞内で起こる分子変化に興味を抱いている。
研究者たちはまた、神経細胞が脳の一部であるかどうかにかかわらず、学習能力が神経細胞の間で普遍的であるかどうかを知りたいと思っている。それは「生命の木」(訳注=旧約聖書の創世記にある言葉で、エデンの園の中央にあり、その実は無限の生命を与えるとされる)につらなる神経細胞の並外れた持続性を説明するかもしれない。
「臓器系は絶えず出現したり、消え去ったりしている」とガームは指摘する。「しかし、神経系はひとたび現れると、再び消えてしまうことはめったにない」と言うのだ。
おそらく、学習能力はハコクラゲが依然としてこの世に存在している理由の一つである。(抄訳)
(Veronique Greenwood)©2023 The New York Times
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