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この海の豊かさ、実はウイルスのおかげ 厄介者だけではない、もう一つの顔に迫る

World Now 更新日: 公開日:
赤潮の原因となるプランクトンに感染するウイルスを調べるため、海底泥を採取する学生たち=高知県・浦ノ内湾

ウイルスと聞くとどうしても病気を思い浮かべてしまうが、人の命を奪うだけでなく、人の役に立つ頼もしい存在でもあるのだという。漁業に甚大な被害を引き起こす赤潮を退治し、最近の研究では海の生き物の多様性を守るオーガナイザーとしての役割を果たしているらしいことも分かってきた。知らなかったウイルスの正体を求めて、高知県の海に向かった。(中村靖三郎)

連日の雨から一転。梅雨が明け、高知県の海には刺すような日差しが照りつけていた。麦わら帽子とライフジャケットを渡されると、男女4人で小型船に乗り込んだ。

進むこと約30分。湾の一番奥に着くと、学生2人がおもむろにショベルクレーンのような器具を海中に投げ入れた。海底からロープで引き上げると、出てきたのは真っ黒な泥。指で触るとぬるぬるした感触で、あたりに異臭が漂った。長﨑慶三・高知大教授(59)が言った。「この中に多くのウイルスが含まれているんです」

その2カ月前。ウイルス特集の取材班に入ることになった。細菌とウイルスの違いもわからない。途方に暮れながらリサーチをしていると、こんな話にぶつかった。「あまり知られていないが、ウイルスは様々な恩恵を与えてくれている」。発信していたのが長﨑さんだった。

新型コロナウイルスに感染しないようにとひたすら手洗いをする中、どういうことかと話を聞きたくなった。そして、やって来たのが高知県の浦ノ内湾だった。

浦ノ内湾はわずか400メートルほどの湾口から奥行きが約12キロも続く独特の地形をしている。湾内にはマダイやハマチなどの養殖場が点在し、豊かな海の恵みがもたらされてきた。しかし、赤潮がたびたび発生する海域として知られ、漁業関係者らを悩ませてきた。

高知県の浦ノ内湾で発生した赤潮。大学生の一人は「赤い煙が上がっているようだった」と話した=2020年6月、高知大の長﨑慶三研究室提供

長﨑さんはここで赤潮の原因となるプランクトンに感染するウイルスの研究を続けている。ウイルスが生態系に与える影響を明らかにするためだという。長﨑さんたちは海底の泥を持ち帰り、成分を分析する。光学顕微鏡でも見えない微細な粒子を取り出すため、泥を限界まで希釈させていき、ウイルスを見つけ出す。

長﨑さんがかつて勤めていた水産庁の研究メンバーらとともに初めて赤潮プランクトンに感染するウイルスを発見したのは30年近く前。研究のきっかけの一つとなったのが、同湾で1988年に発生した赤潮だった。「当時誰も見たこともなかった新種のプランクトンが大量に増え、アサリが山のように死んだ」。被害は日本各地に拡大し、当時「新型赤潮」と呼ばれて世間を騒がせた。

赤潮の海水(左)と通常の海水=高知大の長﨑慶三研究室提供

同じ頃、海には膨大な数のウイルスが存在するとの論文をノルウェーの研究チームが発表し、世界の海洋生物学者を驚かせた。「赤潮の中にもプランクトンを宿主とするウイルスがいるはずだ」。そう信じた長﨑さんたちはウイルス探しに没頭。ついにウイルスを見つけ、取り出すことに成功した。その後の研究から、赤潮の消滅に様々なウイルスが関わっていることが徐々にわかってきた。

ウイルスを使って時に数十億円もの被害をもたらす赤潮を防げないか。国はそんな事業に約10年前から本格的に乗り出している。

水産研究・教育機構水産技術研究所によると、新潟県の佐渡島などの海域では実用化に向けた実験が始まっている。

やり方はこうだ。生態系への影響を考え、現地の海底の泥を使う。泥にはかつて赤潮が発生した際のウイルスが蓄積されている。その泥を冷凍して有害なバクテリアや藻類の種などを死滅させてウイルスだけにする。この泥を赤潮が発生した際に海に戻すと、ウイルスがプランクトンを死滅させ、赤潮の収束が早まるという。実験では泥を戻して数日で特定の赤潮プランクトンが1%程度までに減った。中山奈津子主任研究員(51)は「ウイルスは特定の宿主にしか感染しないので、他のプランクトンや水産生物に害がない。増殖力が非常に強く、少量の泥を戻すだけで効果が得られる」と説明する。

赤潮を引き起こすプランクトンの細胞内で増殖するウイルス=高知大の長﨑慶三研究室提供

ウイルスの力で赤潮を退治できれば画期的だ。だが、長﨑さんから返ってきた答えは意外だった。「それほど簡単ではない」。赤潮退治の研究を続けるうちに、「赤潮とウイルスの間にはもっと複雑なメカニズムが関係している」と考えるようになったという。

なぜか。ウイルス感染によりプランクトンがほぼ死滅しても、ごく一部は必ず生き残る。そして残ったプランクトンはウイルスがあっても再び増殖し、しばらくするとまた赤潮状態になるという。「ウイルスと宿主の間には『ウイルスは宿主を全滅させない』『宿主はウイルスをある程度は増やす』といった約束事があるのではないか」

ではウイルスは、何のために宿主の死滅と共存のサイクルを繰り返しているのか。長﨑さんは次のように考える。もともと海には多様なプランクトンが少数ずついて、それぞれが大増殖してその場のチャンピオンになることを狙っている。ある条件で勝ち上がったプランクトンが赤潮を起こす。だが、生態系にはある特定種だけの一人勝ちをずっとは許さない仕組みがあるらしい。ウイルスはそこに一定の役割を果たしているのではないかと。

それによりもたらされるのが、海の「多様性」だと長﨑さんはみている。外洋中のバクテリアや藻類は1日で5分の1ほどがウイルス感染による死滅と増殖を繰り返しているという。ウイルスがいなければ、栄養分の塊であるプランクトンは分解されないまま海流によって流れ出てしまう。ウイルスがプランクトンを分解することで、栄養分を元の海域にとどめて豊かさを保っているのではないか。「ウイルスがなくなったら、ヒトデやクラゲしかいないような、とても豊かとは言えない海になるのではないか」

ウイルスが病気を引き起こす厄介ものとは別の顔を持っている。そんなウイルスによって豊かな海がもたらされていると思うと、高知で食べたカツオのたたきがより味わい深く感じられた。