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スポーツマーケティングの先駆者、時代の風を読んだジャックK・坂崎さんの嗅覚

Breakthrough 突破する力 更新日: 公開日:
カリフォルニア州ナパバレーの自宅で思い出の品々に囲まれるジャック・K坂崎さん
カリフォルニア州ナパバレーの自宅で思い出の品々に囲まれるジャック・K坂崎さん=稲垣康介撮影

陳列棚や壁に飾られているラグビーやサッカーのボール、野球のバットはスーパースターの直筆サイン入りばかりだ。

米カリフォルニア州ナパバレーにあるジャックK・坂崎さん(76)のプール付き豪邸の一室を埋め尽くす品々は、自身の華やかな経歴を物語る。

長嶋茂雄、イチロー、デレク・ジーター、デービッド・ベッカム、マイケル・ジョーダン……。大物と一緒に写る写真からは人脈の広さが見える。

長嶋茂雄さん(左)と
1970年代半ば、長嶋茂雄さん(左)と=本人提供

スポーツマーケティングの歴史に少しでも触れた人なら、坂崎さんの業績を避けては通れない。

スポーツイベントを開く際、主催する競技団体と、協賛する企業、テレビ局、広告会社を結びつけ、ニーズを引き出し、互いに最大の利益をもたらす。仲介人的ビジネスの先駆者だ。

「スポーツマーケティングという言葉を考えた一人が僕なんだ」

そう自負する坂崎さんは1946年、熊本県で生まれた。

米国生まれの日系人の母を持ち、10歳のとき家族で米国に拠点を移し、カリフォルニア大バークリー校で学んだ。

柔道部で活躍していた大学3年の年、母校で全米大学選手権があった。運営費の足しになればと、プログラムに載せる広告の営業に奔走して体調を崩し、肝心の試合は振るわなかった。

「選手には競技に集中できる環境が必要だ」という教訓を心に刻んだ。これが原点になった。

1972年に日本に戻り、スポーツマネジメント会社IMGなどで経験を積んだのち、31歳で独立した。

追い風が吹いていた。テレビで衛星中継が導入され始めていた。

1978年、英ロンドンでスポーツのコンサルタントをしていたパトリック・ナリーさん(75)と運命的な出会いをした。

自宅のプール脇でくつろぐ
自宅のプール脇でくつろぐ=カリフォルニア州ナパバレー、稲垣康介撮影

「スポーツのビッグイベントは、言葉、国境を超えた新しいメディアになる。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌より、大きな可能性を秘める」とのナリーの熱弁に共感した。

2人はこのときの議論で「スポーツマーケティング」という用語を思いついた。

2人で最初に手がけた壮大な案件が1982年のサッカーのワールドカップ(W杯)スペイン大会だった。

スポンサーを1業種1社に絞り、国際サッカー連盟と欧州サッカー連盟の4年間の主要大会をパッケージで売り出すことにした。

1社30億円。日本企業向けの営業を担った坂崎さんも当初額の大きさにひるんだが、「競技場に出す看板がテレビに映れば、言語も商慣習も違う世界の国々に広まる宣伝効果は絶大だ」と思い直した。

個人では信用が置かれないと考え、電通に協力を仰いだが断られ、博報堂と組んだ。富士フイルム、キヤノン、JVC、セイコーの日本企業4社が参加した。

ところが、開幕の3カ月ほど前、信じられない出来事が起きた。

ナリーさんはこのW杯関連の権利をドイツのスポーツ用品メーカー、アディダスの経営を担っていた創業家のホルスト・ダスラーと連携して持っていた。

1982年3月、突如、ダスラーから連携契約の解消を通告された。その後、ダスラーが電通との合同出資でISLという会社を立ち上げることが電撃的に発表された。

屈辱と憤りを反骨心に

坂崎さんは憤った。

「僕は裁判で戦うべきだと主張したけれど、ナリーにその気はなかった」

サッカーが「カネのなる木」になると分かったとたん、巨大な資本に権利を根こそぎ奪われる屈辱を味わった。

「頑固者で芯を曲げない。僕は熊本生まれの肥後もっこす。フェアプレーにはこだわる。同時に米国人のマインドも持つ。冷徹な米国の契約社会も理解していたから、頭を切り替えたよ」

憤りを反骨心に転化するポジティブな思考が、坂崎さんの武器になった。

1983年には陸上の第1回世界選手権がフィンランドで予定されていた。

坂崎さんは新機軸として、選手の胸ゼッケンにスポンサーを入れるアイデアがひらめいた。売り込み先は当時、カセットテープのメーカーだったTDK。「全世界で放映される」と訴え、6億円の契約にこぎつけた。

そして、ラグビーだ。1987年、第1回のW杯でKDDを冠スポンサーにつけた。アマチュアリズムを重んじてきたラグビー界では画期的だった。

今、大谷翔平選手が二刀流で話題をさらう大リーグは、1989年に始まった日本での生中継の実現に尽力した。

1998年長野冬季五輪、2002年サッカーW杯日韓大会で国際映像の制作責任者を務めた杉山茂さん(87)は「日本企業が海外に進出する時代に、得意の英語を駆使して橋渡し役をしたのがジャック。バブルの追い風を受けた面もあるが、時代を読む嗅覚に優れていた」と評する。

かつての同僚は「タフな交渉になったときは、日本企業との商談で、あえて英語で怒ってみせることも。説得する力がすごかった」

先見性が表れたのが1990年代に入ってからのサッカー、特にアジアの市場に向けたまなざしだ。

Jリーグの創設前、日本代表がW杯出場も果たせないでいたころにW杯アジア地区予選などの放映権をテレビ局に売る権利を得た。その後の日本サッカー界の成長曲線は、実体経済の「失われた20年」とは対照的に、右肩上がり。放映権は高騰した。

しかし、坂崎さんは強欲な資本に取り込まれていくスポーツ界への幻滅を感じるようになった。中国、ロシアなど国家資本がスポーツ界を侵食し始めた。今、牛耳るのはカタール、アラブ首長国連邦、サウジアラビアといった中東のオイルマネーだ。

「今はスポーツのためのマーケティングではなく、国威発揚のために食い物にしている」。選手の健康を度外視した酷暑下の大会開催など、本末転倒の事例が相次ぐ。

「本質がゆがめられ、嫌気が差した」

新たに見つけたフィールド

坂崎さんは2008年、スポーツマーケティングから身を引いた。

だが、座右の銘とする開拓者精神は、かつての部下や薫陶を受けた世代に継承されている。北海道日本ハムの新球場誕生を仕掛けた前沢賢(49)、大リーグ、ヤンキースの経営パートナーに加わったビズリーチ創業者、南壮一郎(47)らが代表格だ。

今年、喜寿を迎える坂崎さんも枯れたりしない。

拠点を日本からナパバレーに移すと、新たなフィールドを見いだした。この地で名高いワインだ。お気に入りの銘柄を日本に輸出する会員制クラブを立ち上げた。

カリフォルニア州ナパバレーのブドウ畑で
カリフォルニア州ナパバレーのブドウ畑で=稲垣康介撮影

2019年からは次女ミッシェルさん(44)が始めたワイン製造にも本格的に加わった。

山梨発祥の品種、甲州をナパバレーで育て、最初のワインができた昨年、東京都内のミシュラン星付きの料理店に持ち込み、取引が決まった。一流にまず認めてもらい、世界に打って出る。持ち前のひらめき、マーケティング力を生かす。

「KAZUMI」ブランドの赤ワインと共に
「KAZUMI」ブランドの赤ワインと共に=アメリカ・カリフォルニア州ナパバレー、稲垣康介撮影

「あと5年くらいで実現させる。甲州ブランドを世界に広めるのが、僕の人生最後のミッション。若い人たちに夢を持つ尊さを説くなら、自分も夢を追わないと」

日本発祥、米国育ちのぶどうで造るワインを世界に広める。自身の人生の軌跡と重なる夢を、追いかける。