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自他共に認める「マイナス思考」 それでも日本飛び越え大リーグ目指した

Breakthrough 突破する力
シーズンオフの10月末、川崎市にある古巣の施設を訪れて練習に励んだ田沢純一。Photo: Toyama Toshiki
シーズンオフの10月末、川崎市にある古巣の施設を訪れて練習に励んだ田沢純一。Photo: Toyama Toshiki

マーリンズへ移籍した今季は、55試合登板で3勝5敗、防御率5.69。好不調の波が激しく反省が口をつく。来季は2年契約の最終年。「1試合でも多く投げられるように」が目標だ。
自他ともに認める「マイナス思考」。野球に対し、いまだに「自信はあまりない」と語る。だが、日本のプロ野球を経ずに米国に渡り、来季で大リーグ挑戦から10年目。日本人3位の357試合登板は、成長の糸口を見つけ努力し続けた成果だ。

唯一のオファー先から「引退通告」

横浜商大高3年の時、最速は147キロ。なのに「プロ注目」ではなかった。「足は速くない、打てない。足を引っ張る方が多かった」。野球雑誌に名前が載っても「評価はCとかD」。同じ雑誌で、3年夏の神奈川県大会準決勝で敗れた横浜高の涌井秀章(現ロッテ)が「特A」だったのを、今でも覚えている。親に負担をかけないように卒業後は就職するつもりで、知人に聞いたシロアリ駆除の仕事に興味があった。
そんな中で、1社だけオファーをくれた。それが、社会人野球の名門、新日本石油ENEOS(現JX-ENEOS)だった。だが、入部後は伸び悩む。2年目の夏ごろ、監督の大久保秀昭(48)=現慶応大監督=から呼ばれ、もう1人の選手と並んで言われた。「野球で貢献できない者はチームに残れない」
「どうせクビなら、やりたいことをやって辞めよう」。短期間で成長が実感できるものをと、連日、ベンチプレスやスクワットなどで上半身、下半身を鍛えた。すると、調子が悪い選手に代わって投げた日本選手権の予選で球速150キロを初めて計測。新聞に「ドラフト注目選手」と掲載され、人生が動き出す。とはいえ、大久保は「そもそも引退通告ではなかった」と明かす。「もっと頑張れるんじゃないかという闘志のつけ方だった」
高校時代は与えられたメニューをこなすだけ。社会人になっても、何が足りないかを考える習慣は身についていなかった。そんな姿勢が変わった。大久保には、忘れられない光景がある。「練習の帰り道、サブグラウンドでベースの四隅に的をつくって、黙々と投球練習をしていた。ひとりで頑張り抜く力があった」
一皮むけた3年目は中継ぎ、抑えとして活躍した。秋のドラフトで指名される可能性もあったが、あえて残留。「自信がなかったし、評価されるのなら、来年も評価されるはずだと思った」。残ったことで日本代表に選ばれ、大リーグのスカウトの目にとまる。ある種の開き直りが、後に大リーグへの道を開く。先発に転向し「プロ注目」になった4年目。だが、まだ手応えはなかった。プロの2軍相手に投げた練習試合で、打ち込まれた記憶が脳裏をよぎった。「日本だと即戦力として期待される」

「控えめな性格」が導いた大リーグ

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マーリンズに移籍後1年目の今期。今年7月、セントルイスでのカージナル戦で登板した田沢純一=ロイター

進路の相談を受けていた大久保は「控えめな性格だから、日本かな」と思っていた。ところが、8月に最終確認のため監督室に呼ぶと、田沢は「メジャーでトライしてみたい」と言った。決断に大久保は驚き、感激した。「『僕なんかでいいんですかね』とかネガティブな発言が多い選手だったから、成長したなと」
決断は、大騒動を引き起こした。9月、田沢は記者会見で大リーグ挑戦を表明。あわせて日本の12球団にドラフトでの指名回避をお願いする文書を送った。ドラフトは貴重な戦力補強の場だ。ならば、自分のせいで指名が無駄にならないよう、10月末のドラフト前に各球団に伝えた方が良いだろう……。会社と話し合った末の答えだった。配慮は逆に反感を買う。大きく報道され、「12球団拒否」というマイナスイメージがついた。「ギリギリで言うより、あらかじめ伝えた方がいいかと思ったけれど、それが調子に乗っていると思われたのかもしれません」
これを機に、日本のドラフトを断って海外球団と契約した選手は帰国後、高校生は3年、大学・社会人は2年、日本のプロ球団と契約できなくなった。後進に「迷惑をかけた」という気持ちは傷として、今も残る。
心が折れなかったのは、会社の支援のお陰だ。都市対抗で優勝後、田沢は所属先だった新日本石油の会長・渡文明(現JXTGホールディングス名誉顧問)に言葉をかけられた。「うちの社員が海外に赴任する。ほかの人は当たり前にやっているのに、なぜ野球だけはだめなんだ。気にしないで、好きなように選びなさい」
2桁近い大リーグ球団の中から選んだのはレッドソックスだった。即戦力でなく、マイナーで投手として必要なことを学び、3年後に大リーグ昇格を目指す契約内容。「3年で上がれるかは分からなかったけど『成長』という点にひかれた」
1年目の2009年、田沢は3軍相当の傘下2Aのポートランド・シードッグスで開幕を迎えた。英語は話せず、球団指定の家庭教師に教わる日々。食事は簡素で、10時間以上にも及ぶバス移動もあった。だが、「こういうものなんだな」と素直に受け止めた。言葉が分からなくても、みんなが集まる会には必ず顔を出し、徐々に溶け込んだ。
レッドソックスの国際担当顧問だったデニー友利(50)=現中日球団編成部=は、田沢の内面の強さを感じていた。当時、チームから受けていた指示は一つだけ。「本当に大リーグでやってみたいのか」の確認だったという。日本を飛び越えて大リーグを目指す道は並大抵ではない。家族や会社と話し合うように勧めた。すると後日、食事の席で田沢は「日本に帰らない気持ちでやります」と言い切った。「喜んで送り出せない環境だったのは不幸だったが、騒動からも目を背けなかった。強い芯があった」

自信はない、だからどう成長するかを毎日考える

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Photo: Toyama Toshiki
 

そんな田沢も、日米の野球観の違いには戸惑った。試合では初球のサインは決まって直球。打者が待っていても、だ。「どうして?」と聞くと、首脳陣はヒットやファウル、見送った数などを数字で示してくれた。変化球でカウントを悪くすると、打たれるケースも多くなる。最終的には「失敗してもいい。打たれたらチームの方針が悪い」と説明を受け、納得した。
開幕から4カ月後には、ヤンキース戦で大リーグ昇格。延長十四回、迎えた最初の打者は松井秀喜だった。「テレビで見ていた人」を中直に打ち取り、大リーガー人生が始まった。
2年目に右ひじの腱(けん)を移植手術。孤独なリハビリを経てメジャーに定着した。13年、抑えにつなぐ役割を任され、強打者に真っ向勝負を挑むスタイルでワールドシリーズ制覇に貢献。デニーは「勝利の方程式の一人として、レッドソックスの歴史にずっと名前が残る」と誇りに感じている。16年オフ、田沢はレッドソックスからフリーエージェント(FA)となり、マーリンズと2年総額1200万ドル(約13億6000万円)で契約した。
移籍後1年目の今季、日本人で初めて5年連続50試合登板の快挙を成した。それでも浮つくことはない。「イチローさんは200安打を10年以上も打っている。今は、どうしたら自分が良くなれるのか。その積み重ねだけなんです」
自信はない。だからこそ、毎日、毎試合、どう成長できるのか。その追求が、田沢を突き動かしている。(文中敬称略)

Profile

  • 1986 横浜市生まれ
  • 1995 小学3年で野球を始める。最初は「三ツ沢ライオンズ」に所属
  • 2004 横浜商大高3年の時、夏の神奈川県大会準決勝で敗退
  • 2005 高卒後、社会人野球の新日本石油ENEOS(現JX-ENEOS)へ
  • 2007 日本代表でW杯に出場
  • 2008 夏の都市対抗野球大会で優勝。最優秀選手に贈られる「橋戸賞」を受賞
  • 2009 レッドソックス移籍1年目。開幕時はマイナーで、8月のヤンキース戦でデビュー。最初の打者は松井秀喜さん
  • 2010 右ひじの腱移植手術を受ける
  • 2013 抑えにつなぐセットアッパーとして、プレーオフを含め84試合に登板。ワールドシリーズ制覇に貢献
  • 2016 オフにマーリンズへ移籍
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 Memo

横浜商大高時代「正直、しんどかった」と苦笑いする。2年夏にチームは甲子園出場を果たすも登板はなし。「1学年上のエースだった先輩は、足が速くて打撃もよかった。何も勝てなかった」

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横浜商大高時代。いまは91キロある体重は60キロ台後半で線が細かった=2004年7月、横浜市

大リーグの頂点に…2013年、レッドソックスで迎えたレギュラーシーズンは71試合に登板。プレーオフでは同年の出場選手最多に並ぶ13試合で投げ、防御率1.23。ワールドシリーズ制覇に貢献した。

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レッドソックス時代。主に救援投手として8年間で302試合に登板した=2014年3月、米フロリダ州ブラデントン

移籍騒動の余波仮に田沢が帰国した場合、すぐにプレーできるのか。内規は明文化されておらず、以降に同様のケースもないため、適用されるかは不透明。後進のためにも明確にする必要がある。田沢はプロ野球・横浜のファンで米国でもネットなどで「めっちゃ見ています」。