――初めて海に潜った時のことを聞かせてください。
いまから40年以上前の1978年、23歳の時に米軍のタンクを借りて、沖縄の座間味島に潜りました。
この世のものとは思えないほど美しく、絵にも描けない美しさってこういうことかと思いました。父親が海上保安官だったので、海は近くにあって小さいころから親しみはあったけれど、北海道だから海に色がない。沖縄で見た光景は一生忘れられません。
――その体験がダイビングの仕事につながったのですね。
沖縄で偶然そういう体験をして、器具を並行輸入で買ってダイビングを始めました。1984年に資格を取って、1985年に神奈川県藤沢市でダイビングスクールの会社を立ち上げました。
その後、厚木市やグアムにも店を出しました。最終的には14店舗にまで増えて、年間約2万5000人の受講生がいました。
――2013年に58歳で会社経営から離れたそうですが、何が理由だったのですか。
レジャーダイビングなので、環境が壊れていることはアピールしません。
負の部分は伝えず、残り少ないきれいなサンゴ礁を見せることに矛盾を感じていました。海だけじゃなくて山も、鳥も、哺乳類も含めて自然を守る必要があると考え、1990年代の終わりから環境NPOを三つ立ち上げました。
子どもに環境教育を普及させたいと思い活動していました。一方で、2000年前後は、スマートフォンやコンピューターゲームが一気に広がり、子どもたちの海離れが進んだ時代です。人が海に来なくなった。
そして2011年に東日本大震災と原発事故が起きた。海を仕事にしている我々にとっては、ガーンと頭を打ちのめされたような出来事でした。海があれだけの人をのみ込み、多くの人が亡くなったわけですから。
津波は、科学技術の象徴である原発をものみ込んだ。人間が自然から乖離(かいり)した結果だと真剣に思いました。感じたんです。最終的には人間にかえってくるぞと。価値観が変わりました。それで全部譲渡したんです。決意というか、危機感です。
――海の変化をどう感じていますか。
やはりサンゴの白化です。2000年以降、どんどん悪くなっています。2016年のマーシャル諸島の白化は強烈でしたね。それまでは太平洋の真ん中の海は大丈夫だったんですよ。ところがそこもやられて、もう隙間なく地球上のサンゴ礁はやられているんだなって。
もう一つは、波が変わってきたことです。ダイバーは波のうねりを読みながら海に入っていくのですが、いままでの感覚とは違うパワーを感じるようになりました。
長いこと潜っていると「違うぞ」と。うねりの元になる沖合の台風や熱帯低気圧が大きくなっている。魚も全然見られなくなってきた。海の変化は、はっきりしています。
――海の環境は臨界点(ティッピングポイント)を超えたのでしょうか?
海の温暖化はこれからが本番です。後戻りできない臨界点が来ないようにするには、2030年までに温室効果ガスの排出を半減する必要がある。それに向けてみんな頑張っているけど、難しい。軽々しく口に出してはいけないんだけど、すでに臨界域に入っているのではないかと思うことが多々あります。
水産資源は、海洋保護区を設定すればある程度戻ってくると思いますが、水温の上昇は止めようがない。プラスチック問題も同じですが、いくらリサイクルしても、排出を減らさない限り根本的な解決にはならない。蛇口を閉めなければ追いつかない。海を直すのではなく、陸を、人の生活を直さない限りは無理です。
でも、実はやることは難しくないと思っています。ただし、生活様式の変容と経済改革を両方でやっていかないと間に合わない。時間ないですからね。最終的なカギは、やはり企業だと思います。私たち環境活動している人間の役割は、社会の空気感を変えること。社会の空気感を変えて、人々の意識を少しでも環境に向かせたいと思っています。