富裕層のためのフェリー振興か NYのウォーターフロントで進む「高級化」
しかし、現地では「誰のためのフェリー振興か」という批判もくすぶっていました。
どういうことなのでしょうか。
米ニューヨーク市クイーンズ区にあるNYCフェリーの船着き場ハンターズポイント南は、イースト川航路の始終点だ。10数年前までは殺風景な産業地域だったが、今では高層住宅群が立ち並ぶ。ウォーターフロント再開発を代表する地域といえる。
近くの芝生に、1歳4カ月の男の子を遊ばせている日本人女性がいた。鷺坂まみさん。日本から赴任した夫がミッドタウンで働き、通勤にフェリーを使っている。自らもマンハッタンへ行くときはベビーカーの持ち込みが楽なフェリーを使う。
鷺坂さんは以前、ニューヨークへ留学した際に、この地域にほれ込んだ。対岸にマンハッタンを望む眺めに加え、州と市が協力して公園や緑地、遊歩道などを整備しており、子育てには理想的な環境という。
備え付けのゆったりした木製ラウンジチェアの横を、ジョギングや犬の散歩をする人たちが通り過ぎていく。月の満ち欠けを表す七つの半球が円形の芝生に並ぶ空間は、日本出身の芸術家、長澤伸穂さんの作品「ルミネッセンス」だ。
高潮・洪水時に遊水池の役割を兼ねるハンターズポイント南公園の整備には、2期約5年の歳月と1億6500万ドル(約220億円)の税金が投じられた。フェリーは周辺のすばらしい住環境をさらに利便性高いものにしている。
いいことずくめに見えるフェリー振興策にくすぶる批判は、まさにそこ、「富裕層のための政策に過ぎないのではないか」という点にある。地価や家賃のすさまじい高騰と密接な関係にあるからだ。
2022年のニューヨーク市の発表によると、市内の空室率は4.5%と全国平均の5.8%よりも低く、家賃が月1500ドル(約20万円)未満の住宅の空室率は1%に満たない。
家賃の中央値は2750ドル(約37万円)で、市内の賃貸住宅で暮らす人々の半数が収入の30%以上を、3分の1は収入の半分以上を家賃に費やしている、という。
ニューヨークの繁栄はかねてマンハッタンに偏りすぎていた。
1970年代ごろまで、マンハッタンの中でも富はミッドタウンに集中し、ダウンタウンのSOHO地区などは売れない芸術家など低所得者が集まり、刺激的だが危ない街と言われていた。
やがて再開発が進むと、立ち退きを迫られたり家賃の高騰に耐えられなくなったりした人たちが一人、また一人とマンハッタンを後にした。いま、SOHOは高級ブティックやおしゃれなカフェなどが集まる街に様変わりしている。
世界中から人を引き寄せてやまないニューヨークは慢性的に住宅が足りない。
市がまず目をつけたのが、イースト川は挟むもののマンハッタン中心部の目と鼻の先にあるクイーンズやブルックリンのイースト川東岸だ。
都市計画の用地区分で産業地域を住宅地域に変え、不動産業者による高層住宅の大量供給に道を開いた。ここ10年ほどでウォーターフロントはさびれた住工混在地域から、高級住宅地に一変した。フェリーは、そこへ移ってきた富裕層のためのものとも受け止められているのだ。
25年以上ニューヨークで活動を続けている映画監督の砂入博史さんは、NYCフェリーの船上でメキシコの詩人が詩を朗読する短編作品「PUERTO(PORT)」(https://youtu.be/DeL0zHqLQeE)を撮ったことがある。
詩の題名が波止場だったことに触発されて、非日常的なフェリーを舞台に選んだのだったが、近年のイースト川東岸再開発は周辺にいた芸術家たちをさらに郊外へと追いやったという。法外な家賃値上げを求めてくる、あるいは砂入さん自身経験したように「家賃3カ月分出すから立ち退いてほしい」といった条件を提示してくることが多いという。
いま、ニューヨークでキーワードになっているのが「ジェントリフィケーション」(高級化)だ。豊かな人々が新しい高級住宅地に大量流入することで、低所得層が肩を寄せ合っていた地域共同体が崩れていく現象を示す。
市が高層化の条件として比較的安い賃貸住宅の併設を求めることもあるが、併設といっても入り口は別で、プールは分譲組だけが利用できるなど明確な「壁」が存在する。
安い賃貸住宅ができたとしても、再開発でいったん立ち退いた低所得層が再び戻ってくるのは容易でない。
フェリー乗り場周辺を歩くと、どこも川沿いの地域で高層住宅や高級住宅地の建設が進んでいる。一方、川を少し離れると古い倉庫や安普請の家々が残る。川がどちらにあるのかが容易にわかるほど違いははっきりしている。
「フェリーは住民のためになっている」。しかし、その「住民」とは誰なのか。
ニューヨーク市は2012年、超大型ハリケーン「サンディ」の直撃を受けた。最大で4メートルを超す高潮が生じ、数千人が家を失った。10本以上の鉄道・地下鉄・道路トンネルが浸水して交通は一時完全にマヒした。地下変電所の浸水・爆発と送電線の倒壊は大規模な停電を引き起こし、ウォール街も機能を停止した。
ニューヨーク市立大学のアシュリー・ドーソン教授は、サンディによる大災害を機に「エクストリーム・シティーズ(極端都市)」を著した。
都市住民、とりわけ低所得層は、地球温暖化に伴う海面上昇と、超大型ハリケーンなど気候変動がもたらす極端な気象現象によって、大きな災害リスクにさらされていると説く。
「フェリーは確かに快適で、車に代わる点では環境的にも優れている。だが、そもそもウォーターフロントは高潮や洪水が直撃する地域だ。州や市による川沿いの防災整備は富裕な近隣住民を守るための税金投入であり、フェリーへの巨額補助金は彼らへの優遇策ともいえる」と指摘する。
近年のフェリー振興策は、平等・公平志向が共和党よりも強いとされる民主党市政の下で進められてきた。
ドーソン教授は「確かにウォーターフロントの再開発は、共和党のブルームバーグ市長が進めた。だが、資金豊富な不動産業界のロビー活動は強力で、民主党市政も影響を受けている。再開発は不動産業者に巨利をもたらし、フェリー振興策はウォーターフロントの資産価値をさらに高めている。それに引き換え、災害対策に対する不動産業者の負担は妥当か。とても、そうは思えない」という。
2017年の開業後、航路を次々に拡大してきたNYCフェリーだが、2022年に開業予定だった南東部ブルックリンにあるコニーアイランドへの運航を2023年になって無期限延期した。海水浴場や遊園地がある身近なリゾート地だったが、にぎわいが遠のいて久しい地域だ。
船着き場は造ったものの街中心部から徒歩で20分以上もかかるため、地元が場所の変更を求めて反対した。だがカジノと大型ホテルの建設構想があり、「カジノが実現するとなればフェリーも来るだろう」と見る人が多い。
地元のコーヒーショップで働くナイアさんは「住民がいま望んでいるのは街路や学校の整備。カジノが来れば雇用が増えるし栄えるというのはわかるけど、ジェントリフィケーションが起きて、行き場に困る人も大勢出る。望んでるのとは違う」という。
NYCフェリーのジェームズ・ワン事務局長は「フェリーの活用はニューヨークで長く構想されてきた。利便性、非日常性、環境適合性があり、さらに災害にも強いからだ」という。
「コニーアイランド航路は地元の反対に加え、現状での収支も考えて延期した。今は拡大のときではなく、経営基盤を固めるべきときだからだ。既存航路で乗客を増やして増収を図る一方、委託業者の再選定などを通じて経費削減にも努めていく」と話す。
ブルックリン区のベイリッジからのフェリー快速運転で、ウォール街最寄りまでの所要時間は地下鉄の半分以下に短縮した。それはベイリッジの先にあり、ウォール街まで約1時間かかるコニーアイランドの住民へのアピールもにらんでいるように見える。
「フェリーは富裕層向け」との批判に対し、ニューヨークのエリック・アダムス市長はことある度に「公共交通機関が不便だった大小のコミュニティーを活性化できる。全てのニューヨーカーにとって利用しやすく、手頃な料金にしている」と反論している。
ニューヨーク市住宅局は、クイーンズ区アストリアに安い市営住宅を大量に供給する計画を示している。
アストリアはNYCフェリーのアストリア航路が開通するまで、「公共交通機関の砂漠」と地元関係者が自嘲する状況だった。マンハッタンへ出るのにバスと地下鉄を乗り継がなければならなかったからだ。本当に安く優良な住宅が供給されるのか。その成否は、市の姿勢を問う試金石にもなりそうだ。