エンパイア・ステート・ビル、クライスラー・ビルなどマンハッタンの摩天楼を成す名だたる高層ビルを建てたのは、カナダからやってきた先住民族モホーク族の男たちだった。
1626年、オランダ人入植者がネイティヴ・アメリカンからわずかな金額でマンハッタン島を買い取ったのは有名な史話だ。その先住民族は現在のブルックリンに住んでいたキャナルシー族ではないかと推測されているが、定かではない。いずれにせよブルックリンも含め、現在はニューヨーク市となっているエリアに暮らしていた先住民族は、いつの間にかこの地を出て行ってしまった。ただしキャナルシーの名は地名として残り、マンハッタンも先住民族由来の名前だ。
ところが20世紀になるとカナダ在住の先住民族モホーク族がリベット工としてニューヨークに来はじめ、1930年代には摩天楼の数々、1960年代にはリンカーン・センター、1970年代になるとワールド・トレードセンターのツインタワーなどを建てた。リベット工は高層ビルの鉄骨を組み立てる職人だ。地上何十メートルもの高所で幅の狭い鉄骨の上に立って働く、または座って昼食のサンドイッチを食べるリベット工たちの古い白黒写真は有名だが、彼らの多くが先住民だったのだ。
きっかけは1886年、カナダと米国の国境を流れるセントローレンス川の橋の建設。時のカナダ政府がモホーク族を建設作業員として雇用したのが始まりだった。高所での作業を果敢にこなしたモホーク族は、それを機に腕のいいリベット工となり、職人技は父から息子へと受け継がれ、やがて部族伝統の職業となった。彼らの度胸と職能がなければ、現在のマンハッタンのスカイラインはあり得なかったと言える。だが、その背後には長く、辛く、厳しい先住民の歴史が横たわっている。
■先住民から見たニューヨークとは
マンハッタンにある"アメリカン・インディアン・コミュニティ・ハウス"はネイティヴ・アメリカンの文化を継承すべく、様々な活動を行なうNPOだ。その代表を務めるヤゴウィヒネ・オークスさんもモホーク族だ。
「私はヤゴウィヒネ・オークスです。政府による名前はメリッサです。私はモホーク族です、イロコイ連合の。正しく言うならホディノショニ連合ですが」
「自宅で生まれました。インディアン居留地と呼ばれる場所かと思いますが。国境のカナダ側にあるコーンウォールという地域のそばにある町ですが、土地について話す時、私たちは異なる視点を持っています。例えば、あなたもとても植民地的な視点を持っていますよね、西洋社会の他の皆と同じく」
「すべてが私にとって故郷なのです。ノースイースト・ウッドランドの人々の土地なのです。ノースイースト・ウッドランドの回廊のすべてが私の故郷なのです。米国とカナダの間にある、いわゆる国境地帯ですが、国境とは侵害であり、私が信じるものでも、同意するものでも、もしくは法的に含まれるものでもありません。ですから、こうしてニューヨーク・シティにいる時も、私は故郷にいることになるのです」
オークスさんの一連の言葉には先住民族の歴史、現状、そして彼らの強いアイデンティティとプライドのすべてが込められている。ただし先住民族の歴史を知らなければ、オークスさんの言葉はとてもシンプルであるにもかかわらず、何度も言葉の意味を調べ、地図を広げ、歴史書を読まなければならない。オークスさんが語ったことはつまり、こういうことだ。
■文化を奪われた歴史
モホーク族は現在の米国とカナダの国境をまたぐ両サイドに暮らしていた。いや、逆だ。モホーク族の土地に2カ国が国境を引いてしまったのだ。国境にはセントローレンス川が流れている。現在も川を挟み、米国側もカナダ側もモホーク族の居留地となっている。オークスさんが言ったように、現代社会の感覚ではカナダ側で生まれればカナダ人、米国側で生まれればアメリカ人となる。しかし、彼らはその概念を持たず、あくまでモホーク族としてのアイデンティティを持つ。オークスさんも国境や居留地という言葉も概念も受け入れていない。
2カ国に分断されて暮らす先住民族については米国とカナダの間で取り決めがあり、モホーク族は国境を自由に越えられる。
モホーク族を含む、北米大陸の北東森林地域(ノースイースト・ウッドランド)に暮らす5つの部族は、共存のために協定を結んでいた。これは現在に至るまでイロコイ連盟と呼ばれている。ただしイロコイはフランス人入植者によって付けられた名前であり、オークスさんは先住民の言葉でホディノショニ連合と呼んでいる。
広大なノースイースト・ウッドランドにはカナダの南部も、ニューヨーク市も含まれる。オークスさんが生まれ育ったカナダの町も、ニューヨーク市も、共に故郷と呼ぶ理由だ。
先住民を指すインディアンという言葉は、今ではあまり使われなくなった。米国では「ネイティヴ・アメリカン」、カナダでは「ファースト・ネイション」と呼ばれる。ただし、オークスさんの所属するAmerican Indian Community Houseも含め、「インディアン」の名を冠する古い団体や学校などには、今もそのままとしているものがある。
アメリカでの先住民虐殺はよく知られた史実だが、生き残った先住民に対しては文化の剥奪が行われた。カナダは1920年代に先住民の子どもだけを対象とした全寮制の学校を作り、子供たちを親から引き離して入校させた。子供たちは先住民の文化であり、プライドの証である長い髪を切られ、部族語も禁じられて英語のみを強要された。加えて学校は尼僧によって運営され、子供たちはクリスチャンへと改宗させられた。こうして何年も親と先住民コミュニティから引き離された子供たちは固有の言葉も文化も無くしてしまい、アイデンティティの喪失に苦しんだ。
名前もいつしか英語名が付けられるようになったが、今も多くの先住民が固有の名前も持つ。オークスさんは日常生活では英語名のメリッサを使うが、これは「政府による名前」だと言う。
■今はなき「リトル・キャナワギ」
オークスさんの祖母は全寮制の学校に入れられた世代だ。母親は全寮制学校は免れているが、居留地に建てられた教会に通っていたという。幼い頃、先住民族の衣装を着た母親は教会の尼僧に厳しく叱られ、体罰すら受けた。非先住民が「インディアンの仮装」をすることは許されないとオークスさんが考える理由だ。
オークスさんの親戚の男性たちもリベット工となり、ニューヨークで働いた。ただしニューヨークに完全に移住することはせず、週末にはカナダ側に戻ってきていたとのこと。1950年代にニューヨーク州を貫くハイウェイが完成するまで、カナダ側のモホーク居留地、セント・レジス(先住民族はキャナワギと呼ぶ)からニューヨークまで車で12時間を要した。そのため、多くのモホークのリベット工がブルックリンのボーラムヒルと呼ばれる一角に暮らし始めた。最盛期には800人のモホークが暮らし、リトル・キャナワギと呼ばれるようにもなった。
ところが1980年代に入るとボーラムヒルも再開発が始まった。マンハッタンへの通勤の便が良いこともあり、ブルックリンで最も家賃の高い地区となってしまった。職能必須かつ危険であることから収入の良いリベット工にとっても、家賃は払え切れない額となった。リトル・キャナワギからモホークは徐々に立ち退き、ニューヨークの他地区や隣州のニュージャージーなどへ越し始めた。そして今、ボーラムヒルからモホークは完全に消え去り、リトル・キャナワギも消滅してしまったのだった。
■連載「ニューヨーク:エスニック・モザイクの街を歩く」は月1回お届けします。次回はウェストインディアン・コミュニティを訪ねます。