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かつてニューヨーク最大のラティーノの街、スパニッシュ・ハーレムを歩く

ニューヨーク:エスニック・モザイクの街を歩く 更新日: 公開日:
ルナ・ファブリックスの経営者アンセルマ・ロハスさんと、息子のジミーさん。メキシコ国旗色の小物も売られている

スパニッシュ・ハーレム(ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン区) きらびやかな面ばかりが強調されがちなニューヨークは、人種民族マイノリティが多数を占める多文化共生都市でもある。この連載はニューヨークに長年暮らす筆者が毎回、異なるエスニック・コミュニティを訪れ、知られざる側面と、その魅力を伝える。第6回は、プエルトリコ系の街からメキシコ系の街へと変化しつつあるスパニッシュ・ハーレム。(堂本かおる)

「母は25年以上前にメキシコからアメリカに来て以来、ずっと生地に関わる仕事をしてきました。自分の店を開くことは夢だったんです」

スパニッシュ・ハーレムに昨年の夏にオープンしたばかりの小さな生地店、ルナ・ファブリックスのオーナー、アンセルマ・ロハスさんの息子、ジミーさんはそう語った。渡米当初、アンセルマさんは縫製工場で働いたと言う。後に生地店の店員となり、15年近く勤め上げた。

ついに自身の店を開く決心をした際、アンセルマさんとジミーさんはスパニッシュ・ハーレムを選んだ。スパニッシュ・ハーレムは全米最大のプエルトリコ系コミュニティだが、近年、急激にメキシコ系が増えている。二人の店があるのはスパニッシュ・ハーレムの目抜き通りでありながら、今では「リトル・メキシコ」と呼ばれる116丁目だ。

スパニッシュ・ハーレムは時代と共に何度も住人の顔が移り変わった街なのだ。

■あの名作の下地にもなった、プエルトリコ系移民

ハーレムはマンハッタンにある黒人コミュニティとして知られる。その東隣の地区はイースト・ハーレムと呼ばれるが、プエルトリコ系(スペイン語話者)の流入によってスパニッシュ・ハーレムとも呼ばれるようになった。住人たちはスペイン語で "El Barrio" とも呼ぶ。

プエルトリコはカリブ海にある米領の島だ。かつてはスペインの統治下にあったが、1898年の米西戦争で勝ったアメリカの傘下となり、現在に至るまで米領のままだ。以後、島から米国本土への移住が始まるが、1950~60年代に特に大量の移住者が出た。カリブ海から地理的に最も近いフロリダ州に落ち着いた者も多かったが、それを上回る人口が仕事を求めてニューヨークにやってきた。彼らが居を定めたのがイースト・ハーレムだった。ちなみに島民には米国パスポートが発行されるため、プエルトリコ人を移民とは呼ばない。

プエルトリコ旗の柄に塗られたサルサ用の打楽器コンガと、現政権のメキシコ国境政策による犠牲者の子供が一枚に描かれた壁画

以後、スパニッシュ・ハーレムは全米最大のプエルトリコ系コミュニティとして活気づき、濃厚なラテン文化が渦巻く街となっていく。通りにはサルサのリズムが流れ、列車の高架下にはスペイン語でラ・マーケタ(マーケット)と名付けられた、島の食材を売る大きな市場も作られた。クチフリトスと呼ばれる揚げ物屋も何軒も出来、今も島の郷土料理を求める人が列を成す。

とはいえ、島からの移住者は英語を話さず、低賃金の単純労働以外の職を得るのは難しかった。貧困と犯罪がはびこり、ギャングや麻薬も浸透した。名作ミュージカル『ウエストサイドストーリー』も、スパニッシュ・ハーレムからそれほど離れていない、マンハッタンのアッパーウエストサイドという街に暮らすプエルトリコ系ギャングと白人ギャングの抗争をテーマとしている。

それでも世代が進むにつれ、プエルトリコ系にも社会的、経済的に成功を収める者が出てきた。彼らは貧しいスパニッシュ・ハーレムを出始めた。彼らと入れ替わりにスパニッシュ・ハーレムに移り住むようになったのが、メキシコ系だ。

1990年代までニューヨークにメキシコ移民はほとんど見られなかった。メキシコとの国境があるのは米国西南部のカリフォルニア州、アリゾナ州、テキサス州などであり、東海岸のニューヨークは距離的に離れ過ぎていたのだ。ところがメキシコ系の人口はどんどん増え、ニューヨークにもやって来るようになった。

スペイン語が通じ、かつ成功したプエルトリコ系の転出によって空室が出るスパニッシュ・ハーレムは格好の落ち着き先となった。スパニッシュ・ハーレムの目抜き通り、116丁目から一軒また一軒とプエルトリコ系の店が立ち退き、メキシコ系の店が相次いで開店した。今では116丁目にあるレストラン、食料品店、洋品店、小間物屋など、ほとんどがメキシコ系だ。店の外装は「緑・白・赤」のメキシコ国旗の色に塗られ、店内にはメキシコ直輸入の商品がぎっしりと並ぶ。スパニッシュ・ハーレムのシンボルだった老舗のサルサ・レコード専門店は今もあるが、ウィンドゥに飾られたプエルトリコ旗はすっかり色褪せている。

■かつては「イタリアン・ハーレム」

1950年代以降に全米最大のプエルトリコ系の街となる以前、イースト・ハーレムは実は全米最大のイタリア系の街だった。

19世紀後半から20世紀前半にかけ、イタリアからアメリカへの移民の数が爆発的に増えた。総数は400万人とも言われている。理由はイタリア国内の混乱や、国内の北部と南部の格差だった。南部とシシリー島の農民たちは北部イタリア人から蔑まれ、貧困にも喘いでいた。

彼らは新天地アメリカに夢と希望を託し、大西洋を渡った。だが、彼らはアメリカ移住後も先着の欧州人から学のない農民と扱われ、苦労を強いられた。当然、家賃の安い地区にしか住めず、ニューヨークではイースト・ハーレムがイタリア移民の街となったのだった。こうしてイースト・ハーレムは「イタリアン・ハーレム」と呼ばれるようになり、その全盛期は1930年代だった。

マンハッタンのイタリア人街といえば、リトル・イタリーが有名だ。イタリア系マフィアを描いた映画『ゴッドファーザー』の舞台にもなっている。リトル・イタリーも大きなイタリア人街ではあったが、規模ではイースト・ハーレムがしのいでいた。『ゴッドファーザー』では名優アル・パチーノが、シシリー島からやってきたゴッドファーザーの息子としてリトル・イタリーで生まれ、マフィアのドン2代目となる役を演じている。アル・パチーノも祖父母がシシリー島の出身で、本人は1940年にイースト・ハーレムで生まれている。ただし、一家はパチーノが物心つくかつかないかの年齢でイースト・ハーレムを出ている。その後、イースト・ハーレムはプエルトリコ系の流入により、スパニッシュ・ハーレムへと変貌するのである。

今のスパニッシュ・ハーレムではサルサ・コンサートよりもメキシコ音楽のポスターが目立つ

■顧客はラティーノと西アフリカ人

アンセルマさんは生地の専門家として、接客は英語とスペイン語を混ぜながらも流暢に行う。だが、抽象的な質問も出るインタビューはやや気が引けたようで、息子のジミーさんがスペイン語で母親の意見も聞きながら英語で答えてくれた。

店の立地としてスパニッシュ・ハーレムを選んだのは、単に自身がメキシコ移民であり、ここがメキシコ系の街になりつつあるからだけではなかった。

「スパニッシュ・ハーレムにはラティーノ、アフリカ人、韓国人、中国人などいろんな人たちが暮らしています。ベネズエラ人など他の中南米人もいます。この店のお客さんの多くはラティーノ、アフリカ人ですが」「スパニッシュ・ハーレムには生地屋は他に1軒しかありません」「だからお客さんたちは、とてもハッピーです」

プエルトリコ系、メキシコ系を含め、ラティーノは冠婚葬祭やパーティなど特別な場では非常に華やかな正装を好む。注文仕立て用の生地の需要があると見込んでの出店だった。アンセルマさんにとってスペイン語で商談できることも、もちろん大きな魅力だ。だが、この店にはもう一つの顧客グループがある。116丁目をどんどん西に向かうとスパニッシュ・ハーレムを外れ、西アフリカ系のコミュニティとなる。西アフリカ人も固有の着衣を持つため、ルナ・ファブリックスにやってくる。

生地をとおして出身地も、言葉も、信仰も、ライフスタイルも異なる移民のグループが共生している。スパニッシュ・ハーレムはかくも多彩な街なのだ。