ドイツ生まれのハイケ・ジェリックさんと、サンフランシスコ出身の中国系アメリカ人、アレックス・ヒングさん夫妻は、2016年にハーレムの新しい分譲マンションに越してきた。ハイケさんはファッション・デザイナー、アレックスさんは大手ホテルの副料理長であり、かつ長年にわたる社会活動家でもある。2人はハーレム再開発に伴って急増している”新住人”と呼ばれる人たちだ。
20世紀初頭、南部諸州の黒人が東部に大移動し、ハーレムも1920年代に黒人街となった。貧しい元小作農が多数を占める中、ジャズ・ミュージシャン、小説家、詩人、画家など多くの黒人アーティストが華々しく活躍し、そのムーヴメントは"ハーレム・ルネッサンス"と呼ばれ、大いに盛り上がった。
1950年代から60年代にかけては黒人の権利を求める公民権運動が巻き起こった。ハーレムを拠点に活動し、のちに暗殺された黒人運動のリーダー、マルコムXは今も当時と変わらない敬意の対象となっている。
1970年代から80年代にかけては麻薬の蔓延とともに犯罪率が急上昇し、ハーレムは徹底的に荒廃した。旅行者向けのガイドブックには「足を踏み入れてはならない場所」と記された。
そんなハーレムも1990年代の幕開けとともに大々的な再開発が始まった。荒れ果てた廃墟が次々と取り壊され、新築マンションとなった。周辺に高級スーパーマーケット、スポーツジム、そしてスターバックスが作られた。中流層の日常生活に最小限必要なものが揃ったことになる。
新築マンションではあっても、マンハッタンの他地区に比べると手頃な価格に設定された。そもそもマンハッタンの一部であり、交通の便は良い。暮らしやすい条件が揃い、それまでハーレムに目を向けることのなかった非黒人の中流層の流入が盛んになった。
■ドイツ/西海岸からハーレムへ
ハイケさんはドイツの小さな田舎町で生まれ育った。父親は娘に自分と同じく教師になって欲しいと望んだが、ハイケさんはファッションに興味のある子供だった。ハンブルクの大学に進んだものの勉強に身が入らず、アートスクール入学の準備を始めた。努力を重ねて見事なポートフォリオを作り上げたハイケさんは、ロンドンの有名な芸術大学セントラル・セント・マーティンズの入学許可を勝ち得た。
卒業後、まずはイタリアのミラノで腕を磨き、1994年、ファッション・デザイナーとしてのさらなる夢と展望を胸にニューヨークに移った。数年後、満を持して自身の名を冠したブランド、HEIKE NYを立ち上げている。人気女性俳優のハル・ベリー、ケイト・ハドソンなども顧客だ。
アレックスさんはサンフランシスコのチャイナタウンで生まれている。
「サンフランシスコのチャイナタウンは、ほとんど黒人のゲットーのようでした。とても抑圧的なコミュニティでした。KMT(中国国民党)と呼ばれる、反コミュニストの右翼に牛耳られていました。1950年代当時、若者が楽しめる施設はなく、私も含めて若者はストリートにたむろしては警察に逮捕されることを繰り返していました」
「そんな時期、高校の授業で米軍によるドキュメンタリー映像を観ました。広島での原爆投下直後のものです。人間が蒸発し、影だけが残る......一瞬にして多くの人が死んだ......衝撃でした。人間の歴史は戦争の繰り返し。人間はもっと賢明なはずなのに、なぜこんなことをするのか。私は17歳にして、戦争を終わらせることに人生を賭けると決めたのです」
アレックスさんは北ベトナム、北朝鮮、中国を訪れた。帰国すると、西海岸では強烈な黒人主義を掲げるブラック・パンサー党が結成され、活発に活動していた。アレックスさんはブラック・パンサー党にも強い影響を受け、メンバーと親しく交流した。時は1970年代、ベトナム戦争への徴兵拒否者を支援する組織を結成し、同時にベトナム戦争反対運動を起こした。戦争被害を受けるアジアの人々と、戦争に送られるアジア系アメリカ人の両方を救おうとしたのだ。
そんなアレックスさんもニューヨーク出身のアジア系女性との結婚を機に、ニューヨークに移り住んだ。
■変化を続けるハーレム・コミュニティ
ニューヨークでも様々な社会活動を続けていたアレックスさんは、太極拳を教えることもしていた。その教室へ、競争の激しいニューヨークのファッション業界を必死でサヴァイバルしていたハイケさんが、ひとときのリラックスを求めて通い出した。アレックスさんは妻との離婚争議中だった。これが2人の出会いだ。
結婚した2人の新居はダウンタウンのアパートメントだった。家賃は毎年驚くほど上がり続けた。ある時、ハイケさんは「これじゃ家を買う方がマシでしょう」と気付く。物件を探しに探し、最終的に落ち着いたのが、今暮らしているハーレムのマンションだ。
再開発によって建てられた大きなマンションで、住人はあらゆる人種が混じっている。皆、中流層だ。ロビーにはコンシェルジェがおり、住人専用のスポーツジムもある。2人はガーデン・ルーフのあるペントハウスに住んでおり、夏はそこでバーベキューを楽しむ。地下鉄駅が目の前にあってミッドタウンへの通勤の便もいい。これだけの好条件が揃い、さらにハーレム再開発を促すための市の助成金も得られた。
もっとも、2人がハーレムに暮らす理由は経済面と利便性だけではない。居心地のよい「コミュニティ」も大きな理由だ。ハイケさんは「ドイツから老齢の母が遊びに来た時、近所の人たちはとても親切にしてくれました。まさにコミュニティです」
ハーレムで生まれ育ち、ハーレム・コミュニティを作り上げ、維持してきた地元民と、ハイケさん、アレックスさんのような新住人の違いは、関わるコミュニティの数と言えるかもしれない。ニューヨーク・ファッションの中心地はマンハッタンのミッドタウンであり、ハイケさんのスタジオもそこにある。質の良い生地はイタリア製、日本製が多く、ハイケさんは日本にも出向く。アレックスさんは国連のそばに建つホテル勤務の傍、今は沖縄の基地問題に取り組んでおり、昨年は仲間と沖縄を訪れ、玉城デニー知事とも会っている。
そんなハイケさんはファッション・デザイナーとして、ハーレム・コミュニティでも何かしらの活動を行いたいと思うようになり、ハーレム在住のブラジル系アメリカ人の帽子デザイナー、日本人ジュエリー・デザイナーと共に「ハーレム・メイカーズ・コレクティヴ」を立ち上げた。ハーレム再開発によってできた大きなアート・ギャラリーを月に1度、週末だけ借り、ハーレムに住む様々なアーティストを集めてポップ・アップ・ショップを開催している。アーティストはアフリカン・アメリカン、カリビアン、アジア系、ヨーロッパ人、ラティーノ、ニュージーラーンド人など、今のハーレムを反映する多彩さだ。ユニークな商品を買うために立ち寄る買い物客も同様の多様性をみせている。
実のところ、多くのニューヨーカーに今も黒人街ハーレムへの偏見がある。他方、外国人には古き良きハーレムのロマン化があり、抵抗なく移り住む。旧来の住人であるアフリカン・アメリカンも中流化が進み、同時に昔と変わらず貧困にあえぐ層も大量に暮らしている。
今のハーレムは人種だけでなく、年収も含めて良くも悪くも多様化しており、さらなる再開発も進行中だ。今年は10年に1度の米国国勢調査の年。ハーレム地区の統計数値はいったいどのように出るのだろうか。